諸家佳吟

 

詠む

 

 

 

パレットを詠み込んだ佳句は多い。いろいろな詠み方がある。

 

 

パレットに原色溶けば夏めける     島谷征良

 

秋の天パレットに溶く空の色     佐々木泰子

 

パレットに日焼けの海女の彩を溶く  三浦仙水

 

パレットに春を先取りして溶かす    木村きよし

 

 

上の4句は、絵の具を「パレットに溶く」という能動的な行為を直截に表現している。写生技法云々となれば、

 

主観が少し入ってしまったということになろうか。また、「パレットに◯◯を溶く」という手法の類似した句は、

 

後もたくさん作られるだろうと思われる。「海女の彩を溶く」「先取りして溶かす」は、言葉の用い方に工夫が見え

 

る。

 

 

 

晩齢やパレットに練る雪の彩    五代儀幹雄

 

還暦の春パレットに紅しぼる      伊藤博子

 

パレットに春の息吹の彩合はす    伊東白楊

 

パレットに五月の風を混ぜ合はす   青井正行

 

ほんのりと盛るパレットは春の彩   佐久間 蘭

 

 

これらの5句は、「溶く」という語をストレートに使わず、それぞれ練る、しぼる、合はす、盛るという言葉を

 

用いている。

 

また、「ほんのりと盛るパレットは春の彩  佐久間 蘭」の句は、一句全体の表現も工夫されている。つま

 

り、この句は「パレットは」とパレットに続く助詞が「は」となって、倒置法のような表現になっている。これまで

 

掲出の他の8句は、パレットに続く助詞はすべて「に」が用いられている。

 

 

 

パレットに溶け白秋と水の色     浦川聡子

 

この句は、「溶く」と作者の意思が出る能動的な用い方をせず、「溶け」と受身に、客観的な表現方法をと

 

っている。 「溶け」を受動的用い方と見ると、この句は切れが弱くなって印象は平句に近くなる。「溶け」を命

 

令形にとると、そこで強い切れが入った形になろうか。しかし、この句の「溶け」は受身だと私は読みたい。

 

なお、正岡子規によって発句だけが独立して鑑賞される「俳句」が確立された現在、切れの有無や強弱は

 

それほど気にする必要はないと考える。

 

 

 

パレットに黄色たつぷり小春の日 山崎富美子

 

パレットに葉鶏頭の色惜しみなく   原 眞砂

 

パレットの紅ふんだんに秋の山   中嶋ふさ江

 

 

これら3句は、「溶く」という語を省略している。しかし読んですぐ、絵の具を溶いている光景が想起される。

 

写生句に限らず、句作では一般的に動詞を多用しないように気をつけるが、これら3句は動詞が一つも入ら

 

なかった結果切れが弱い印象を受ける。

 

だが、一句一句は十分独立していると考えられる。「春の日」「秋の山」と体言止めになっているし、「パレ

 

ットに惜しみなく」の句は、倒置法によって、「に」を「や」に似た切れ字的用法に仕組んでいる。

 

なお、たつぷり、ふんだんに、惜しみなくと、豊かさを表す語が含まれているため、それぞれ一句は、読ん

 

でおおらかな気分になる。写生技法としては主観が入ってしまったということで疑義は出ようが、選ばれた季

 

語はこれらの言葉にうまく呼応している。

 

 

 

次の諸句は、パレットの中に季語を含む風景などが持ち込まれた形になっている。

 

パレットで生れる秋の山の色    野々村 宏

 

パレットにあふれるみどり山の画家 春永信子

 

パレットの中に燃えてる落葉焚   小川幸子

 

夏の海パレットの中から飛び出した 鳥居祐紀

 

 

このような場合、詩歌としては表現方法が工夫されていることになるのだが、パレットの中に季語を押し込

 

めた形になると、「写生俳句としてはいかがなものか」との意見も出てこよう。

 

なお、各句とも動詞は1個しか用いられておらず、しかも受動体になっているので、その意味で写生句とし

 

ての作句基本は守られていると考える。

 

 

 

パレットに日焼けの海女の彩を溶く(再掲)    三浦仙水

 

晩齢やパレットに練る雪の彩(再掲)      五代儀幹雄

 

パレットに春の息吹の彩合はす(再掲)      伊東白楊

 

パレットに五月の風を混ぜ合はす(再掲)     青井正行

 

 

再掲したこれらの句も季語がパレットの中に入り込んで、練られたり、混ぜ合わされたりしている。

 

 

 

片陰やパレットの色乾ききる     埜崎友宏

 

パレットに落葉降り積む画家の像  渋田有紅

 

パレットのごとく聖体のせて秋   佐怒賀正美

 

 

これら3句は、実際の対象に即した写生句と見られる。表現方法に特別の工夫がない代わり、体験感、現

 

実感、即時感が非常に強い。その上なぜか、ごつごつした、突き放したような印象を受ける。これまでの、軽

 

やかな、あるいは優美な表現の句をたくさん見てきたあとでは、特異な印象すら受けてしまう。

 

しかし3句とも、類型、類想というものからは完全に独立している。

 

 

 

さて、以上の諸家の作品のうち、「パレットに春を先取りして溶かす」「ほんのりと盛るパレットは春の彩」の2

 

句は、実は現代川柳として詠まれた句で、川柳誌から拾ったものである。

 

そこで、特に「パレットに春を先取りして溶かす」の句の季語をよく考えてみると、「はてな?」ということにな

 

る。「春を先取り」するのであるから、実際の季節はまだ春になっていないことになる。ご承知のごとく、俳句で

 

はそんな場合の季語としては、「春近し」「春隣」「春を待つ」など、客観的な語が使われる。「先取り」はまさに

 

主観である。

 

したがって、「春を先取り」の句は有季俳句ではないということになろう。季語の有無は俳句と川柳を区

 

別する条件ではない、との説もあるが。

 

 

 

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