〔 諸 家 熱 吟 〕

 

 

 

 

 

秋さびしおぼへたる句を皆申す    炭 太祇

 

手をついて歌申しあぐる蛙かな    山崎宗鑑

 

 

行く春や撰者を恨む歌の主      与謝蕪村

 

歌とは短歌 (蕪村時代では和歌か?)ともとれますが、俳句と受けとっていいでしょう。俳句はかつて俳諧

 

の連歌とも言われましたし、俳句も詩歌の一種ですし、蕪村は俳句の名人でしたから。

 

現代では短歌も俳句も、撰より選の時代です。 (蛇足 : 撰と選の違いに御注意)

 

 

発句してわらはせにけりけふの月  内藤丈草

 

丈草九歳の作とか? 今さらながらとは申せ、その昔、発句とは人を笑わせるためにあり、それ以外に特に

 

役目はなかったようです。

 

 

宗匠の下手な発句や筆始       伊東牛歩

 

牛歩さんは宗匠になれなかった人だったのでしょうか。でしたら負け惜しみの句になります。それとも、筆始

 

とありますから宗匠たるご自身の何とも発展の見えない作風に、自虐的な思いを込めて詠んだのでしょうか。

 

 

 

さてこのように、九歳で詠んだという丈草の句はともかくとして、俳人は昔から退屈した時には「俳句」そのも

 

のを詠んできたようです。それでは、大家、新鋭作家、巷間の愛好家の「俳句を詠んだ俳句」を探ってみること

 

にしましょう。

 

 

みなし栗ふめばこころに古俳諧     富安風生

 

俳人の箸で鮓くふ世なりけり       加藤郁乎

 

硬質の一句つくらむ青くわりん    加藤三七子

 

お遍路の便りに子規の一句かな    小原啄葉

 

はつなつを明け放たれて俳諧寺   山田みづえ

 

夕顔の実を抱き至る俳諧寺       日原 傳

 

藤波の神の伊勢より俳諧師       大屋達治

 

 

 

旧姓の例句を見出づ年の暮      松崎鉄之介

 

歳時記に旧姓の例句を発見したと。自己身辺暴露の句でしょうか。それとも、知り合いの俳人の句を見つけ

 

たのでしょうか。

 

 

 

俳人と犬お断り萩の寺          倉富あきを

 

俳人と対ひ合ひたる案山子かな     轡田 進

 

咳をしてテレビの俳句を考える      加本泰男

 

梅林へ行く歳時記と酒二合        和田彰夫

 

早春の恋ひらがなの句となんぬ     松崎あきら

 

 

 

歳時記を枕に昼寝してしまふ       伊藤昌子

 

投句締切日が迫っているのに、どうしてもあと一句ができない哀れと、そのうち、うとうとしてしまう余裕と。

 

 

 

Tシャツを干すあと一句あと一句    高木美貴子

 

締切りがとうとう明日。うとうとなどしていられないし、家事の手抜きもできない相談。女流のつらいところ。

 

 

 

朝寝して日曜版の句を読みぬ       東 連翹

 

こちらは巷の老大家ともいうべき余裕綽々の詠みっぷり。言うならば毎日が日曜日みたいなものだが、新

 

聞に「◯◯俳壇」が載るのは週に1度だけ。新聞俳壇は日曜が主流か。朝食の仕度は奥様まかせで、ゆうゆ

 

うと今起き出したところ。

 

 

 

上手に迂詐(うそ)をつく句は蟻踏まず   平 赤繪

 

春愁やふと口遊む破調の句        高島 宏

 

句にたむろ夜は滝音に親しまれ     河野南畦

 

ほたるの夜黒い句集に舌を巻く      渡辺礼子

 

句集編むことの虚しささびた咲く    榛谷美枝子

 

子規全集持たぬ引け目や鳥雲に    星野麥丘人

 

句菩薩の集いしところ梅雨曇り      武田稲子

 

七夕や句帳に写真挟みては        小林奈穂

 

のどけしや膝の句帳は閉ぢしまま    井上和枝

 

水澄みぬ句帳持たぬが父の常     上田日差子

 

父の日や父の句帖のあばれ文字     渋田有紅

 

あじさいや推敲しても類想感        高橋 茂

 

 

 

霜柱俳句は切字響きけり          石田波郷

 

当時も切字の決まりが薄らいできていたのでしょうか。作者はそれを引き締めようとの気負いから詠んだの

 

かもしれません。切れの決まりは現今もどんどん薄らいできているようです。

 

 

 

初句会椅子一つ足し二つ足し      山崎ひさを

 

尼寺を貸切りにして初句会        片桐静村

 

句会あと素麺流しに並びけり       井上秀子

 

 

 

ネックレス汗ばんできし句会かな     中田俊枝

 

喧喧囂囂、熱気溢れる句会だったのでしょうか。

 

 

 

満開の花の句会となりにけり       野上哲斉

 

この句座に欠けたる人の梅雨入かな  山内純二

 

エープリルフールの句座に連なりぬ   大井典子

 

水音や句稿のめぐる夏座敷        渋谷 澄

 

初もののみかん分け合ふ野の句会   諸岡暄子

 

三千(みち)(とせ)も一念も来よ初句会        稲畑汀子

 

 

 

初句会ただ深くとぞ志し         深見けん二

 

言わんとすることは解るような気がしますが、道を求める中国的ないしは日本的・東洋的志向が強すぎて、

 

現代感覚に照らすと少し偏り過ぎた感じもします。

 

 

 

這ひ這ひのまぎれ込んだる初句会   荒木由美子

 

頬杖の頬の冷たき句作かな        大橋敦子

 

五七五の防災標語寒椿          小島花枝

 

野澤節子の句集を読める雛の日   和田耕三郎

 

始めまして誌友六月の絵を前に        順子

 

Bのエンピツ露の句を生めり     井上惟一朗

 

 

 

フローズンカクテル恋の一句など    佐藤美奈子

 

句跨り句です。フローズンカクテルと9音です。中七にもってきたとしてもなお2字あまり。だがこの句の場合、

 

五七五のリズム感はきっちりと出ています。

 

 

 

選句せんとや生まれけむ世はさくら    鷹羽狩行

 

句またがりの名手に恥じない作句ぶりです。「選句辛かりし一夜の虎落笛  狩行」も句跨りになっていまし

 

た。

 

なお、句またがりにはこんな反論もありますが。

 

初かつを俳あまたるき句またがり     加藤郁乎

 

 

 

まんさくや俳人格に汚れなし        田中水桜

 

本名を暑しと思ふ雅号かな         藤田湘子

 

芭蕉死後枯野に隠れゐる流れ       島田牙城

 

 

 

蝿叩くには手ごろなる俳誌あり     能村登四郎

 

諧謔、俳味満載の傑作句の一つ。

 

 

 

蚊を打つや虚子歳時記の一書もて    丸谷三砂

 

蝿や蚊は身近な書物で退治するのが俳人の伝統的手段? この句も俳味十分。蚊は蝿よりも小さい。そ

 

れを薄俳誌などよりはるかに分厚い歳時記で叩く諧謔味。

 

 

 

風鈴や選句に占めし梯子段        渡辺水巴

 

風鈴に卒寿の母の句を吊りぬ       噴崎行雄

 

貫主(かんず)いま句を生みかかるくしやみかな   茂手木皓介

 

追伸に記す恋の句聖五月         柴野はづき

 

俳諧の世評に敏き蟻地獄          平 赤繪

 

柏餅テーブルいつぱい俳句かな      永山和江

 

落葉して地雷のごとき句を愛す       矢島渚男

 

 

 

椋百羽俳人諸氏の頭上越ゆ         大石悦子

 

百羽の椋は、「俳人て何でこんなに大勢で群れをつくっているのだろう」「それに、誰がリーダーなのか見分

 

けもつかない」と見下ろしています。諧謔味があると申しますか、百に余る俳人の頭の上を、一羽の大きな鷲

 

でも飛び越してゆくようなイマジネーションを持っている句です。

 

いつも鏡のように静かに見える俳句界という湖面に、知らん顔して大石を投じたような俳味を感じます。

 

 

 

百万を越す俳人や藪からし       戸丸泰二郎

 

「椋百羽…」と同じイマジネーションで作られています。百羽は譬えであり、百万は現実の誇張、といったと

 

ころでしょうか。藪枯らしの季語がぴたりと諧謔味を効かしている一句でしょう。

 

 

 

詩貧し掌に焼芋の熱さのせ       成瀬櫻桃子

 

発火性十七音詩寒の雨          高野ムツオ

 

詩の話などせよ樟の土用芽に       榎本好宏

 

一詩まだまぎれてもも色桃ばたけ    河野多希女

 

身より逃ぐ詩ごころ追ふや初嵐      有馬籌子

 

南京豆むきて貧しき詩に憑かれ      福田蓼汀

 

詩つくる人へ傾く山桜           金子三知子

 

わが詩の色を濃くせむ春の虹      橘川まもる

 

アネモネや銅板に夜の詩刻む      大石香代子

 

毒消し飲むやわが詩多産の夏来たる 中村草田男

 

秋澄むや詩人の耳は貝の殻        隅田晶子

 

詩仙堂まひまひつぶろ縞確か       鈴木栄子

 

 

 

花楓にて空紅し詩仙堂            日原 傳

 

詩仙堂は徳川家康の家臣、石川丈山の建てた山荘とのこと。中国の36詩仙の額が掲げられているそう

 

です。

 

 

 

君我に未完の詩あり夏始まる       橋本榮治

 

寒昴死後に詩名を顕すも         上田五千石

 

麦酒のむ椅子軋らせて詩の仲間    林田紀音夫

 

詩の新人生む青蔦の女子大学      茨木和生

 

霜の華ひと息の詩は胸あつし      馬場移公子

 

 

これらの句、俳句とは言ってませんが俳句は詩歌です。世界で一番短い詩とも。ひと息の詩です。詩とは

 

今の時代、俳句を指すのかもしれません。

 

 

一行詩ポストが呑んで日永かな       藤原 紅

 

一行の詩となれ蜥蜴ひた走れ       前川紅樓

 

一行の吾が詩に似たりみみずの屍     佐藤さえ

 

 

 

秋深し大言海におぼれんか         舘 一輝

 

推敲の文字がしやがしやに冴返る   有馬ひろこ

 

省略を利かし過ぎたる葱坊主        池田 崇

 

寒明と言ひし言葉の弾みをり       大和 勲

 

立春大吉十七文字のEメール     須貝安芸子

 

短夜を古典漢文現代文          杉田菜穂

 

広辞苑ばかりを責めて夜の短か     河合凱夫

 

文芸に少しかかはり春田打つ       花田成子

 

室咲きやほとほと甘い女流論       鷹羽狩行

 

窓に葱そだてをりしは詩人M       後藤一之

 

たれもみな詩人のやうな秋の暮     広田絹子

 

春の夜やこころざしてふ「誌」の旁     戸垣東人

 

 

これらの句も俳句とは一言も出てきませんが、俳句を詠んだ俳句になりましょう。

 

 

 

渋柿のごときものにては候へど    松根東洋城

 

この句も俳句の語はどこにもありませんが、「敕を畏みほ句奉らく」の前書きがあります。大正天皇に三句

 

奉ったときの感慨との有名な経緯のある句のようですから、これ以上の説明は略しましょう。

 

 

 

わが俳句歌より来たる曝書かな     富安風生

 

虚子筆の句屏風に佇つ涼しさよ     中川禮子

 

 

 

暑気払ひ文法論に終始せり        伊藤白潮

 

これも俳句でしょう。せっかく暑さを避けようと集まったのに白熱の論戦。小説家が4、5人集まったら文法

 

論が始まったなんて聞いたことがありません。すぐ文法論を闘わすのは俳人か歌人ぐらいのもの。あとは、召

 

集を受けたときの国語審議会の委員だけでしょう。

 

 

 

河豚煮えて来し俳論やめ給へ       岨 静児

 

河豚なら刺身。いや、煮て食う(ちり鍋か?)河豚も捨てたものではないと問いかけています。「句風にも好

 

き嫌いがあって然るべき」という投げかけでしょうか。

 

 

 

遍路杖たち寄る寺の投句箱        田辺余寧

 

吾が百句すぐに燃えたり落葉焚     大谷昌弘

 

人の子を抱いて句作る冬日影      西島麦南

 

雨傘をうしろ手に持ち花吟行       前田隆子

 

 

 

妖怪の一句朗人に夕牡丹        小林宗一

 

「中国に妖怪多し夕牡丹  有馬朗人」を踏まえておりましょう。「中国に妖怪…」の句は、多作で知られる

 

作者の自選10句に入っていました。

 

 

 

青邨忌益荒男ぶりの一句かな     菅原多つを

 

俳人の忌日を詠んだ「俳句」の句は、思いのほかたくさんあります。

 

守り継ぐ伊勢の俳諧守武忌        藤波孝堂

 

糸瓜忌や俳諧帰するところあり      村上鬼城

 

恋の句の少なかりける子規忌かな    岸本尚毅

 

俳諧につぐ闘菊や西鶴忌         飯田蛇笏

 

硝子戸の中の句会や漱石忌       瀧井孝作

 

西鶴、紅葉、漱石ら先達の文学としての偉業は、出発が俳句だったとは俳人皆が知るところでありましょう。

 

三鬼の忌文学青年死滅せり      光部美千代

 

「三鬼と文学青年」の取り合わせの文学青年は、俳句を志しているとみなしましょう。そしてこの句の心は、

 

三鬼のように「瑞々しい句を詠む青年が出なくなった」との嘆き。また、こんな句もありました。

 

歳時記に忌の字忌の字の冬に入る    林   翔

 

 

 

髪剃つて俳句入道出水見に       岩波浩吉郎

 

酒好きに酒の佳句なしどぜう鍋     秋元不死男

 

のぞき見る句帳に恋や若葉風       池田なお

 

背よりわが選句のぞいて風邪の神    鷹羽狩行

 

 

 

かなかなや雑詠欄はまだ五月     赤羽秋刀子

 

インターネット句会と違って、印刷に付される結社誌はいくら早くとも中身は3ヶ月遅れ。桜散り、卯の花が

 

匂う頃、雑詠欄に「大寒や」と出ても誰も疑いを抱くことはありません。掲出句はそこのところを、ユーモアた

 

っぷりに捉えました。

 

 

 

俳諧のうつつをぬかす黴の花       市堀玉宗

 

俳諧は屁のやうなもの浮いて来い    中原道夫

 

師風守り丹波に老いぬ風生忌     細見しゆこう

 

生涯にまはり燈籠の句一つ        高野素十

 

一生を棒に俳句や阿波おどり       橋本夢道

 

千両の句をひつくるめ只の人        加藤郁乎

 

俳句とはそんなものでしょう。夏炉冬扇のようだとも言われます。

 

 

 

晩学の第二芸術鰯雲            三上 隆

 

ユーモアたっぷりの、諧謔味あふれる居直りの句。また、季語の選択が上手くいったとはこの句のような場

 

合を言うのでしょう。

 

 

 

あの世にも句座あらばよき初寝覚    林   翔

 

祖を守り俳諧を守り守武忌         高浜虚子

 

という詠み方もありましたが

 

 

 

甚平や一誌を担う脛ほそし       松本夜詩夫

 

 

甚平や一誌持たねば仰がれず      草間時彦

 

前の句のパロディーとなっています。両句とも「一誌」という語に重みがありますが、一結社の主宰になると

 

かならないとか、俳句の第二芸術的側面もうかがわれます。

 

 

 

師はときに遊べ遊べと梅日和       岡本 眸

 

師を詠み込んだ句は、べたべたし過ぎて嫌味になります。第二芸術の側面がもろに出てしまうからでしょ

 

うか。師は尊敬すべきものであって、吟詠の対象ではないでしょう。

 

しかし、この句はさっぱりした味わいが出て成功しました。

 

 

三歳の童子が吾が師いさよひに     加藤郁乎

 

この句のようにさらりと、何気なく詠み流す手管は流石と言えましょう。

 

 

俳句世界を師の側から見れば、次のようになりましょうか。

 

俳諧は寒きものぞと教へしが      松根東洋城

 

 

栗の花紐ひたひた師系遡り        柚木紀子

 

現今は「師」よりも「おやじ」の影響力のほうが強い時代です。二世の活躍ぶり(あるいは、不甲斐なさも)

 

が各界で証明されていて興味深いものがあります。俳句界も師系から父系の時代へ?

 

 

螢烏賊つくづく師系ありにけり       黛まどか

 

うーん? 難しい。幾通りにも受け取れますね、解釈が…。黛執氏の立場も考えませんと。

 

たとえば、高浜家と黛家では、虚子あっての高浜御一族と、まどかあっての黛家っていう感じが濃いようで。

 

ですが、ミトコンドリアを辿ってゆくと世界人類が皆アフリカの一女性に行き着くように、今の師系は遡りま

 

すとみな正岡子規に収斂します。自由律派も含めて。そうしますと反面で、芭蕉、蕪村、一茶らは《どこの馬の

 

骨?》ということになってしまいますが。

 

 

 

三囲の神も留守なる句碑めぐり     大橋越央子

 

また一つ句碑を殖やしぬ牡丹寺      拓殖芳朗

 

春愁や俳人として句碑のまえ       三浦和日子

 

かの山の句碑にも初日射しをらむ     桂 信子

 

寒紅梅汀女の句碑に枝垂れけり      梅原佳代

 

悠久の句碑を鎮めて桜山          河合凱夫

 

句碑寂びぬ箱根の石と蟻知るや     大木さつき

 

初ざくら句碑やはらかく息づけり      荻島和子

 

尺蠖の青嶺はかるや句碑の前       角川源義

 

青畝忌の句碑守る尼と語りけり       清水早春

 

万太郎句碑のいろはに散る桜       星野 椿

 

子規句碑の春の池畔辺夢殿へ     中村合歓女

 

虚子の句碑見つけて花の咲きそめり   加島裕子

 

関守の末裔は句碑守五月闇      伊藤寿美子

 

遠青嶺そびらに青邨不死男句碑      小林巳之

 

 

このように、俳人は暇だと句碑まで詠んでしまうようです。しかし、くれぐれもご自分の句碑のことは詠まな

 

いこと。 俳句は詩歌であることをお忘れなく。

 

 

 

蝌蚪の句を作り残して去る札所    岩波浩吉郎

 

木の芽和有季定型然として         小寺 勇

 

鬼城の句殊更讃へ盆の僧         宗久月弓

 

紙匂ふ大歳時記に日脚伸ぶ        浅木ノエ

 

俳諧師へ燭を頒ちぬ復活祭       田中たけを

 

 

 

俺だつて季語とばかりに油虫      盛野たね弘

 

およそ汚いことこの上なしという季語にはその他に蛆虫、南京虫など。迷惑なものに毛虫、蚊、蚋、蚤、紙

 

魚、めまといなどがありましょう。みな虫です。「虫愛づる姫君」なんていうお話もありましたが。あとは蛭、蛞

 

蝓、水洟なども。いずれ俳人は詠むものに不足してくると、何でも季語に昇格させてしまいます。

 

 

 

こがねうちのべたるごときこのこかな   茨木和生

 

「このこ」って何でしょう。美味しくて高いもののようですが。「こがねうちのべ」によってこの諸家吟に載せ

 

てみました。

 

 

 

(しき)り頻るこれ俳諧の雪にあらず  中村草田男

 

発句なり松尾桃青宿の春          松尾桃青

 

歳旦をしたり(がお)なる俳諧師         与謝蕪村

 

生き死にを俳諧の種籠枕         長谷川 櫂

 

牡丹の句百句作れば死ぬもよし      原 石鼎

 

三千の俳句を閲し柿二つ          正岡子規

 

 

 

秋風や眼中のもの皆俳句          高浜虚子

 

目に入るものが全部俳句になる。とにかく皆詠んでしまえと。圧倒されますね。

 

 

 

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