第23章 休 暇
(前 略)
その理想言語には男性名詞と女性名詞の区別がなかったし、たとえば第二人称をさす言葉はただひとつ、《あなた》があるだけ
だった。“あなた”、“あなたさま”の区別はなく、“君”、“お前”、“きさま”、“てめえ”などの使いわけも不要だし、み
な一様に《あなた》があるだけであった。
《あなた》――それは「ユー」と発音されるのであった。「ユー」を発音するときの唇の形はなぜか、遺伝子的には人類に一番
ちかいといわれる霊長目チンパンジーが、親しみをこめ、まるでキスでもしようとしてちかづいてくる表情ににているのであった。
理想言語には敬称や尊称もなかった。“閣下”も“殿下”も“陛下”もなく 、政治家も医者も教師も、“先生”とよばれるこ
とはない。“議員”とか“医師”とか、“教授”、“博士”などの、資格でよばれることになっていたのである。職種のちがいに
よる身分の差別を排除し、資格取得の努力に対して尊敬をはらうことによって、人格はみな平等であるとの考えを徹底するためな
のであった。もっとも会議など対等の討論の場では、誰に対しても《あなた》を用いるだけでよかった。たとえば、学術上の議論
の際に地位がうえの者に対して、とくに“博士”とか“教授”などの尊称は不要なのであった。
しかし、例外はあった。国を守るための軍隊組織だけは、目的を達成するためによく統率がとれ、間違いなく正確に機動的に行
動するために、いくつもの階級をみとめ、上官には《さん》をつけてよぶことにしたのであった。上官の《さん》の発音は、もち
ろん「サー」であった。自分より上官であれば階級に関係なく、みな、《さん(サー)》とすることに決めたのであった。
「アイ」という発音、それは《わたし》をさす第一人称の発音であった。“わたし”、“わたくし”、“僕”、“我”、“吾”、
“俺”、“小生”などの使いわけがなく、すべて《わたし》であった。「アイ」の「ア」は強く発音され、「イ」はほんの添えも
ののように、弱々しい音(おん)であった。そして、その強い“ア音”が発声されるときの唇の形は、自己の存在をアピールしよ
うとする形であった。もし大声で「ア」を叫ぶなら、その様子は、雄たけびをあげ、自己の存在を周囲に主張する、一個の人格を
アピールしているかのような印象を受けるであろう。なお、《わたし》の複数形はもちろん《わたしたち》であり、「ウィ」と発
音されるのであった。
巨人族が用いることになる理想言語は、もともとあるひとつの民族が用いていた言語――それは現在では広く星中にゆきわたっ
ていて、インターネット用語としても普及していた半ば国際共用語のような地位を獲得している言語――その言語に男女平等、人
格平等の思想を盛りこんで、すこしだけ改変した人工言語でなのであった。この星の言語は歴史的には、学者たちが人類祖語と仮
定しているただひとつの言葉があったのだが、さまざまな理由から現在のように、なん千種類もの言語にわかてしまったのだ、と
いれていた。そして一時期ではあったが、世界共通語を目指したエスペラントとよれる、完全な人工語が試みられたこともあった
のである。
(後 略)