ニヒリスト・K氏の憂鬱

 

 

 

  

 わたしはニヒリストである。

 こんなことをいきなり言うと読者の諸君が「えっ!!」と驚かれるかもしれない。
 おおよそ普通の人間が「ニヒリスト」という言葉でイメージする人物像は刺々しい、皮肉屋、攻撃的そういういわば「厄介者」的なイメージであるからだ。

 しかしわたしは刺々しくもないし、皮肉屋でもないし、攻撃的でもないごく普通の常識的で温厚な人物である。
 わたしがニヒリストと呼んでいるのはそういう「イメージ的」なニヒリストではなく「哲学的&言葉の厳密な意味における」ニヒリストを指す。

 ニヒリストとは哲学的な信条である「ニヒリズム(Nihilism)」を信奉する人間である。
 
 ニヒリズムとはこの世界には意義、目的、理解できるような真理、本質的な価値がないと主張する哲学的な立場である。
 その語源はラテン語の nihil (虚無) に由来する。

 それゆえにわたしは神の存在を信じていないし、人生には目的もなければ価値もない、つまりは「人生は生きるに値しない」程度のものだと思っている。

 これは小学生時代からのわたしのモットーである。
 人間にとって最も良いことは生まれてこないこと、これがわたしの第一義である。
 だからといってわたしは人生を軽視しない。
 生きるに値しないから自殺すれば良いとか、そういう浅はかな考えはニヒリストの本分に反する。
 生きるに値しない人生だからこそ「生まれたからにはあえて生きてやる」、そういうふうに一生懸命&真剣に生きて行かなくてはならない。
 これは哲学的に言うと「実存的反抗」と呼ばれる立場である。
 そのような人生観でわたしはこの歳まで一貫した立場で生きてきたが、その立場がどうも最近危うくなってきた。

 わたし「できるならばこの苦しみに『意味』を見出したい・・・」そんな考えがわたしのこころのどこかに芽生えはじめたのである。
 苦しみに意味を見出してしまったら、引いてはこの世界を支配する法則(これは神と呼んでもよい)にも意味があるということになる。
 そうなったらわたしのニヒリストとしての立場がガラガラと音を立てて崩れ落ちてしまうだろう。

 しかしそれは普通に考えれば仕様のないことかもしれない。
 要介護3の父親の介護に明け暮れて、最近は家庭内の雰囲気もあまり良いとはいえないわたしの家庭の現状に、わたしが「音(ね)」をあげ始めたのだ。

 「苦しみに意味があれば」大抵の人間は耐えられる。
 それは闘病記には必ずといってよいほど登場するフレーズである「神さまが試練をお与えになってくださっている」だとか、
 美輪明宏が尊大な態度で説きまくっている「正負の法則」(良いことがあればそのぶんだけ悪いことが起こる、悪いことがあればそのぶんだけ良いことが起きる、そうして人生の最後にはプラスマイナスがゼロになる)だとか、そういう「気休め」で世の中は満ちている。

 いや、そういうものが「気休め」のレヴェルですめば良いが、そういうものがエスカレートしていくと新興宗教に入信したり、オカルトに入れ込んだり、ヘタすればじぶんの人生を破壊する程危険な性質のものに発展する可能性があることを強調しておく。

 ニヒリストの立場に立てば苦しみは苦しみ以外の何物でもなく、いわばざっくりと抉り取られた傷口のように無残にどす黒い血を流し続ける。
 やがて死すべきときが来たら、わたしはこの世界に対しての「否(ノン!)」を叫びつつ、死の安らぎに包まれて溶暗してゆくことに最大の歓喜を持って迎えるだろう。
 こういう考え方を哲学的には「不条理」と呼ぶ。
 しかし不条理の世界で生きるのは大変苦しいことなのである。
 だから一般の人にわたしはじぶんのニヒリストとしての生き方を強要するつもりは全くない。

 しかしそういう立場がおぼつかなくなってきた。
 これはわたしの精神的危機(アイデンティティ・クライシス)である。

 
 「楽隊の音は、あんなに楽しそうに、力づよく鳴っている。
あれを聞いていると生きて行きたいと思うわ!・・・
あれを聞いていると
もう少ししたら
なんのために私たちが生きているのか
なんのために苦しんでいるのか、
わかるような気がするわ。
・・・それがわかったら、それがわかったらねえ!」

                    チェホフ『櫻の園・三人姉妹』(新潮文庫)

 このフレーズを見れば一目瞭然であるが、チェホフのような文豪でも結局は「苦しみに意味を求めてしまった。」のである
 これはあまりにも恐ろしいことと言わざるをえない。

 苦しみに意味を求めてしまった瞬間、突如として神が天から降臨して地獄と天国がパノラマのようにその人間の前に立ち現れるだろう。
 わたしは地獄にも天国にも行きたくない。
 ただわたしは死の瞬間に「消滅」したいだけなのである。「Nihil(虚無)への供物」としての人生、それがわたしの生き方である。

 それを貫くためにわたしは要介護3の父にも負けず、ニヒリストとして最後の最後まで戦い抜く所存である。
 
 「決して苦しみに意味を求めてはいけない!!」
 そういうふうにしてわたしはこの後の人生も前半生と同じように「実存的反抗」を貫いて生きたいと思っている。



 (了&合掌)

 

 (2019年&黒猫館&黒猫館館長)