白い部屋の中で

(2019年3月19日講演)

 

 

 



 最近良く夢を見る。
 
 はっきりと覚えてはいないのだが、わたしは夢の中で真っ白い部屋にいるらしいのである。
 部屋の中には家具も道具もなにひとつない。
 ただ壁一面が白一色の無機質な四角い部屋にわたしは座っている。

 ただ目の前にポッカリと四角い穴のように外で向かってドアが開いている。
 もちろんドアの外は光の洪水でなにも見えない、そんな夢である。

 
 このイメージはどこから来たものであろうか??
 率直に考えると、これは「病院」のイメージが夢に出てきたものではないのか、と思うところがある。
 病院の色は「白」これは普遍的なイメージであるだろう。
 しかし最近は精神科などで「白は患者に不安を与える」という理由で医師や看護婦も白衣を着ず、病院自体がパステル調の色に塗られている場合が多いという。

 そうなのだ。
 心理学的な側面から考察すると「白」は不安を与える色であるという。

 わたしが夢の中で真っ白い部屋にいるときもおおよそ安心しているとは言い難い。
 なにかが起きる前兆、あるいは真っ白い部屋にいきなりドピュ!と赤い血が飛び散るのではないのか??・・・そんな不安にわたしは怯えている。

 そして目の前にある開いたドアは何処へ続いているのだろう。
 ドアをくぐってムコウへ行ってみたい。
 イヤ、それは絶対ダメだ。
 そんな葛藤に苦しめられるわたし。

 さよう、わたしにとって真っ白い部屋の夢とは不安と緊張に満ち溢れた夢なのである。



      ※                 ※


 さてわたしにとっての真っ白い部屋のイメージを探ってゆけば、怪奇童話風のイラストで有名な「味戸ケイコ」のイラストがあげられる。
 味戸ケイコのイラストの世界ではいつも白っぽい無機質な部屋にうつむいた少女が座っている。
 その様(さま)がなんとも不気味極まりない。
 味戸ケイコは初期に児童文学者の松谷みよ子と組んで、原爆で死んだ少女に関する怪奇童話を発表していた時期がある。
 するとあの真っ白い部屋にうつむいて座っているのは原爆のような理不尽な暴力で殺された無辜の少女の霊なのではなかろうか。。。


 さて原爆と白い部屋という関連で連想してみると、わたしが必ず思い出すのが金子修介監督の異色ファンタジー映画『1999年の夏休み』(1988)である。
 この映画の舞台は近未来の寄宿舎学校である。
 そんな寄宿舎学校の夏休みで5人の少年(少女が演じている)が学校に取り残される。
 その学校全体が白っぽい、そしてその中にある部屋も白っぽい部屋ばかり、という「白」のイメージが氾濫する映画が『1999年の夏休み』なのである。
 
 実はこの映画には裏設定があり、映画のラストで「今まさに核戦争が起こっている」ということを少年のひとりがラジオで知るシーンがあるのだが、映画の公開直前でこのシーンは削られたらしい。削られた理由は不明である。
 しかし「白い部屋」と「不吉な死のイメージ」はこの映画の世界でも連関している。まるでウロボロスの蛇のように「白」と「死」がらせん状に絡まりあっている、そのように感じられるのだ。


 さて寄宿舎学校ということで連想すると、10年ほどまえに大きな反響を呼んだ近未来SF小説&カズオ・イシグロ著『わたしを離さないで』(早川書房)を思い出す。
 この小説の舞台はイギリス、時代は1990年代であり、ネタバレにならない程度にあらすじを書くと「ヘルシャーム」と呼ばれる謎の寄宿舎学校である残酷な真実に直面する生徒たちの心の葛藤が骨子となった小説である。
 この寄宿舎学校の「ヘルシャーム」の廊下がどこまで行っても真っ白い、という描写が小説のどこかにあった記憶がある。
 残酷な真実を隠した「ヘルシャーム」と無辜の少年少女たち、ここでもまた「白」と「死」が結合する。

 わたしはこういうふうに「白い部屋」と「死」の連関を至るところで発見することができる。なぜだろう??「白い部屋」とは一体何を意味するのだろうか??




     ※                ※



 スタンリー・キューブリックの傑作SF映画『2001年宇宙の旅』(1969)のラストではディスカバリー号のボーマン艦長がスターゲイトを開けた瞬間、老人になったボーマン自身を目撃する。この老人はやがてスターチャイルドとして転生する運命なのだが、ここでも現れるのが「白い部屋」と「死」のイメージである。

 


 ↑『2001年宇宙の旅』のラストに登場する白い部屋↑

 転生するからには「死」というリセットボタンを押さなくてはならない。
 そんな死のイメージに満ち溢れた白い部屋がまたしても現れる。

 わたしが思うに「白い部屋」とは、「中陰」を意味するものではないのだろうか?

 中陰(ちゅういん)、または中有(ちゅうう)とは、仏教で人が死んでから次の生を受けるまでの49日間を指す。 換言すると死者が今生と後生の中間にいるため「中間の」「生存状態」を指す。

 わたしが毎夜の夢で見る白い部屋は「この世」と「あの世」の中間地点にある場所なのではないか??そして目の前にあるドアとはまさしく「あの世」への入り口。。。

 わたしは少しづつドアに近づいていく。・・・そんな気がする。


 諸君、わたしはある朝姿を消すかもしれない。
 誰もいないベットには春の真っ白い陽光が照りつけている。

 そしてインターネットの世界ではわたしのアカウントは消滅している。
 しかしそのことを気にかける人は誰もいない。

 そんなふうにわたしは姿を消してゆくのかもしれない。
 わたしは最近考えるのだ。
 わたし自身が姿を消したあるすがすがしい朝のことを。

 この文章は遺書ではない。
 しかしそのような「予感」にわたしは最近さいなまれている。
 それは単なる春の陽気の影響だけではないだろう。

 「死への憧憬」、それが最近どんどん強くなっている気がする。
 いや別にそんなに気取らなくても人間はいつか死ぬのだ。
 だから「そのとき」が来たら軽い微笑みを浮かべながら、わたしはみなさんに別れを告げてドアから外に出てゆくだろう。

 わたしが最近考えているのはそのようなことである。



 (了&合掌)

 

(2019年&黒猫館&黒猫館館長)