宗教についての個人的な随想

 

 

  ↑「ホーリー!!!」(聖職者系魔法で最強の魔法。メテオやアルテマに匹敵するパワーを持つといわれている究極的&伝説的な魔法である。

 
 
 わたしは基本的に宗教の話はしない主義である。
 サラリーマンの世界では「政治と宗教と野球の話は厳禁」と言われている。
 わたしはサラリーマンではなく自由業者であるが、この「鉄則」をキチンと守ってきた。
 ネットの世界でもわたしは基本的にそういう話はしない。
 であるから読者の諸君もこの稿は風狂な古書コレクターの戯言だと思って聞き流していただいてもいっこうに構わない。
 「おまえもこのように考えろ」という押し付けこそ、わたしの最も嫌う物の言い方である。

 さてわたしは政治と宗教の話はしない主義であるが、どうも最近そうとばかりも言っていられない事態になってきた。
 このわたしが「改宗」するかも知れないのである。
 「改宗」である。なんと「改宗」。

 それも神道から浄土真宗に改宗するというのだから只事ではない。

 なぜそんな事態が起こったのか??

 コトの発端は「墓地」の問題である。

 わたしの家系は代々神主の家系であり「神道」を信奉する家系である。
 しかしその墓地が秋田県県南にあることで、わたしの死去の後は墓地を管理する人間がいなくなる。これはわたしには子供がいないのだから当然のことである。

 そこで墓地を秋田市へ移動する処置が行なわれることになった。
 しかし神道の墓地を管理してくれる神主などめったにいない。
 そこでわたしの提案で家族全員が「浄土真宗」のお寺のお墓に入ることにしたら??と提案したら家族の反応が思ったよりも良い。
 これは本当にわが一家が浄土真宗の墓地に入ることになるかも知れぬ。

 もちろんわたしが禅宗でも日蓮宗でも真言系の宗派ではなく、浄土真宗を押したのはある思惑(おもわく)がある。

 わたしは大学&大学院で実存思想系の学問を専攻したので基本的には無宗教なにんげんである。
 アルベール・カミュの「反抗の哲学」がわたしの立場に最も近いと言っておこう。
 人生に意味などない。
 人生とは生れ落ちた時点で死に接近してゆく「余生」なのだ。
 だからこそ人間は大切に大切に人生を扱わなくてはならない。
 そういう考えがわたしの生き方の基本にある。

 天国も地獄も六道輪廻もない。
 にんげんは死んだら「無」に還る。

 しかしここで引っかかる。
 「無」とはどういうことか?
 
 かつてわたしは早稲田大学で開催された日本ヤスパース協会の定期大会に出席したことがある。そのときのヤスパース協会の会長の言葉が実に鋭く耳に残っている。

 この会長というのが90歳ぐらいのよぼよぼのお爺さんで、そのお爺さんが何かを吐き出すようにわたしたち講習生に問いかけた。

 ヤスパース協会会長「仏教の説く極楽浄土とは『無に還ること』ではないのですか?」・・・

 鋭い。
 あまりに鋭い。

 わたしはファイナルファンタジーという家庭用ゲームに登場する最強の聖職者系魔法である「ホーリー」に打たれた人間のように呆然としていた。

 「無に還る」、それは悲しいことだろうか?

 わたしは全くそう思わない。
 人間が存在する限りくるしみは続いていく。
 ユートピアなど決して到来するはずはなく、いじめが戦争が虐殺がいつの時代もにんげんを脅かし続けるだろう。

 「人間よ、お前にとっての最善は最初から生まれてこないこと、次に良いことはすぐに死ぬことだ。」若き日のツァラトゥストラを雷光のように襲ったこの予言を論破できる人間などいるのだろうか?(ニーチェ『悲劇の誕生』中公文庫)

 生まれてくることの善が、生まれてこなかったことの善を上回ることなどあるのだろうか。

 このように考えれば、さきほどのヤスパース協会会長の言(げん)も納得できるだろう。
 極楽往生とは無へ還ることである、それは悲しいことでも苦しいことでもない。
 大いなる救済である。

 であるからにんげんの死後に地獄の存在を持ち出して、にんげんを脅かす悪しき教え(ドグマ)こそ断罪されるべきだろう。
 宗教はにんげんを幸福にするためのものである。
 しかし地獄の発明はにんげんに不安と恐怖を与えることになってしまった。
 まさに地獄の発明こそ全地球規模の人類史に於いて、極めて重篤な汚点になったとわたしは確信している。

 「誰ひとりだって地獄に堕ちてもいいヤツなんていないんだよ!!一人残らずすべての人間が救済されるまでわたしは決してこの世界を許さない!!」

 そのようにわたしは今夜もわが師&福島泰樹氏のように泪を流しながら絶叫している。

 そういう意味で万人救済を説く浄土真宗がピッタリわたしの好みに合致した。
 浄土真宗では地獄はこの世にあり、と説く。ゆえに死後は一人残らず極楽浄土に往生できる。

 こういうふうに若き日に情熱を燃やした実存思想と浄土真宗が奇妙な一致を見せ始めた。 

 まるである種の暗合のようにわたしの人生に一本の糸が通ったように辻褄が合い始めた、というべきか。

 それでは長くなった。
 もちろん神道から浄土真宗に改宗したからといって、わたしはわたしである。
 別にそうなにが劇的に変わるというわけでもない。

 大学時代の友人たちからもよく言われる。
 「おまえだけはいつまで経っても変わらないな~」
 これは揶揄かもしれないし褒められているのかもしれない。

 しかしただひとつ言えることはわたしは世界の不条理に沈黙で答えるような「できた」人間ではない。
 わたしはこれからもデミウルゴス(グノーシス主義が説く悪しき造物主)に対して敢然と剣を抜いて戦いぬく戦士でありたいのである。

 そのように浄土真宗に「改宗」してもさらに激しくこの世界に対する「希望回復作戦」を戦いぬくで所存である。

 それでは諸君。
 ごきげんよう、さらば。

 「市民兵に転化してゆく時あらばわれらも行くことあらば、妻よ」岡井隆著『土地よ 痛みを負え』(白玉書房)より一首引用。





 (了&合掌)

 

付記=この講演の初稿は某SNSで発表された。
その後、わたしの浄土真宗への改宗は諸事情により頓挫した。

 

 (黒猫館&黒猫館館長)