わが悪魔祓い

(2019年1月21日講演)

 

 (↑悪魔に憑かれた少女&リーガンと悪魔祓いを実行するカラス神父(映画『エクソシスト』の一場面)






 父が狂ってゆく。
 父が狂ってゆくよー。

 ほら。
 また聞こえるだろう。
 父のうめき声が。
 夜中の3時すぎに。
 暗闇の中で。

 うわん、うわん、うわん、、、うおーーーー!!

 そうさ。
 おまえの父は悪魔に魅入られたんだ。
 このまま父はおまえの家庭を壊してゆく。
 怖いか。
 怖いよな。
 じぶんの最愛の父が狂ってゆくなんて。
 それでも。
 おまえにはなんにもできないんだ。
 なーーーんにもできない。・・・
 無力。
 おまえは無力だ。

 ほら。
 こうしている間にもまた。

 うわん、うわん、うわん、、、うおーーーー!!

 父が狂ってゆく。
 どんどん狂ってゆく。

 怖いか?
 苦しいか?
 もう死にたいだろう??
 おまえは。

 死ねよ。
 死んでしまえよ。
 楽になるぜ。
 らくに。
 らくーーーーに。

 きき。
 うきゃーーーーひゅひゅひゅひゅーーーーー!!!



      ※                 ※
 


 2018年。

 わたしの父親のパーキンソン病が重篤化。
 全身の関節がこわばって歩行が困難になる。
 さらにパーキンソン病治療薬「スタレボ」の副作用によってドーパミン調節障害(精神症状)が併発。
 ドーパミンの不安定な分泌の影響で父親は常に極度の興奮状態に置かれる。


 2018年夏。
 
 わたしの苦悩の日々は続いていた。

 わたしの父親が常に身体をゆすり、表情を歪ませている。
 その苦痛のためか、父親はわたしに対してありとあらゆる罵詈雑言を浴びせかける。

 「育て方まちがったな。」
 「おまえはバカなわりにズルい。」
 「なんのために大学院まで出たんだ!?」
 「おまえを裁判に訴えてやる!!」
 「死ぬんだ!!この家の一家は全員死ぬんだ!!」

 わたしはこの父親の極度の興奮状態はスタレボの副作用によるドーパミンの不安定な分泌によるものであると頭では理解していた。
 しかし人間というものは難しいものである。
 頭ではわかっていても感情が反応してしまう。

 わたしは罵詈雑言を浴びせかける父を前にして、父を殴り倒したい感情をじっと押し殺していた。
 父親に対する怒りがわたしの内部で燻(くす)ぶり続ける。
 そのうちわたしは父親を殺すのではないか??
 そんな恐怖にさえわたしは絶えず襲われ続けていた。
 
 そんなときわたしの頭脳を一筋の文句がよぎる。

 「悪魔の挑発に反応してはならない。・・・」

 これはわたしが高校生のときに観たホラー&オカルト映画『エクソシスト』に登場した一節である。
 さよう、父親とわたしの姿が『エクソシスト』に登場した悪魔に憑かれた少女「リーガン」と悪魔祓いを行う神父「カラス神父」の姿に一瞬オーバーラップしたのだ。

 わたし「なるほどな~。。。そういうことだったのか。」

 高校生時代に極度のホラーヲタクであったわたしは『エクソシスト』(1973年&アメリカ映画&ウイリアム・フリードキン監督)を「低級な映画」と毛嫌いしていた。
 その理由は簡単である。
 エクソシズムは西欧ローカルの思想である。
 それゆえに非西欧圏である東アジアでは普遍性を持ち得ない。

 しかし2018年のわたしにはありありと理解できた。
 『エクソシスト』とは実は人間の内面の凄まじい葛藤を恐ろしいほどに描き出した普遍的なホラー映画だったのである。
 高校生時代のわたしにはそういう『エクソシスト』の本質が全く見えていなかったのだ。
 これではホラーヲタクとしてわたしはまだまだ三流としかいいようがない。・・・

 『エクソシスト』ではバチカンから許可を得て(悪魔祓いを実行するにはローマ教皇の許可が必要である。)少女リーガンに対して悪魔祓いを実行しようとするカラス神父に先輩格のメリン神父が三つの忠告をする。

 それは、

 1>「悪魔と話をしてはならない」
 2>「関連事項の質問を越えた会話は危険」
 3>「悪魔はウソつきで、我々を混乱させる。ウソに真実を混ぜて我々を攻撃する。それは心理的で強力だから絶対に耳を傾けるな」

 この三つがメリン神父が示した悪魔祓いを行うにあたっての三つの注意点である。
 この三つの忠告が実にわたしの父親の介護の場面で的確に反映された。

 わたしの父親は実に上手にわたしの内面の弱点を抉るようにしてわたしを挑発する。
 この挑発に対処するには先述のメリン神父の三つの忠告が非常に有効なのであった。

 わたしは「悪魔の挑発に反応しない」ように父親の介護を行うようにした。
 するとあれほど強烈だった父親の罵詈雑言を不思議に「スルー」できるようになってきたのである。
 高校生の時代に観たホラー映画が実に30年以上の月日を経てじぶんの父親の介護の場面で役立つとは。
 わたしはこの世の不思議をじっと噛み締めていた。

 こうして淡々と父親を介護できるようになってから、微妙にわたしのこころに余裕が出来た。
 するとどうだろう??あれほど悪辣で強大無比に見えたわたしの父親があまりにも哀れな単なる病に苦しむ老人に見えてきたのである。
 わたし「哀れな、あまりに哀れな男ではなかろうか。この父親は。死期が近いという時期にまず先に精神を侵されてしまうとは。」
 わたしは父を哀れんだ。
 わたしは父親のすべてを赦(ゆる)したいと思った。

 その瞬間、奇跡が起こった。
 わたしは一瞬、宇宙と人類の気の遠くなるような全宇宙史のからくりを垣間見た気がした。

 わたし「なんということだ。人生とはこういうことだったのか。・・・」

 わたしはドーパミン調節障害に起因する父親の罵詈雑言に腹を立てていたのだと思っていた。
 しかしその怒りの核(コア)の部分にわたしはじぶんの「出生への怒り」を抱え込んでいたのである。

 さてこれは具体的にどういうことだろうか??
 丁寧に順を追って説明する。

 わたしは子供時代から常に父親に対して「勝手に俺を生みやがって!!」という出生への憎悪を常に隠しもっていた。
 勉強ができないのも学校でいじめられるのもすべて俺を生みやがった父親の責任だ!!
 そのようにわたしは父親を激しく憎悪していたのである。

 しかし実はわたしは父親から「生まされた」のではない。
 わたしはじぶんの意志で生まれてきたのだ。
 故にわたしはじぶんの生(Leben)に対して「責任」を負う必要がある。
 私は今まで「責任」をすべて父親に押し付けながら生きてきた。
 しかしそれは巧妙に隠蔽された「逃げ」だったのである。

 わたし「なるほどな。「自立」とは実はこういうことだったのか。」

 解縛(げばく)。
 わたしはこの瞬間に父親の呪縛から解放された。
 父親によってもたらされたと思っていた「呪い」は実はわたし自身が作り出した幻影だったのである。
 そして父親に録り憑いたのか?と思っていた悪魔は実はわたし自身のこころの中に巣食っていた悪魔を反映していたものだったのである。

 ノーベル文学賞作家&大江健三郎の名作小説『個人的な体験』(1964年初版&新潮社)の世界では主人公「鳥(バード)」がじぶんの運命を受け入れることによってグロテスクな地獄巡りの世界から脱出する。

 「運命愛」(Amor fati)とはニーチェによって提唱された用語であるが、そのように運命を受け入れる時期がいよいよわたしにもやってきたようだ。
 
 しかしわたしと父親との「闘い」もこれで終わりというわけではない。

 新約聖書に収められた「マタイによる福音書」ではイエス・キリストは憎いを思う相手を「七の七十七倍まで赦し続けよ」と説いている。もちろんこれは「そのような寛大さを持て」などという生易しい意味ではないだろう。
 そのように無限に赦し続けなければ人間は憎悪の楔(くさび)から解放されることはない、というイエスの人間に対するまことに厳しい味方が反映されている言葉であるとわたしは解釈する。

 そのようにして最終的にわたしと父親の「和解」が成立してゆくのだろう。(願わくばわたしの父親が旅立つ前に。)
 
 さて今回の地獄巡り脱出のマスターキーを与えてくれたホラー映画『エクソシスト』とその監督であるウィリアム・フリードキン氏に敬意を表しつつ、今夜はここらで筆を置かせていただく。

 それでは読者の諸君、貴方がたもまた人生を最高に旅せよ!!



 「父病めば人遠きかな夏深く終るもの一つ一つたしかむ」馬場あき子『無限花序』(新星書房)
 

 (了&合掌)

(黒猫館&黒猫館館長)