鑑賞日記

この部屋は黒猫館館長の映画鑑賞の記録の部屋です。 

  

 

2002年7月1日鑑賞

『少林サッカー』

2001年チャウ・シンチー監督作品。

 この映画はまぎれもなく傑作である。しかしどこをとって傑作と説明したらよいのかいささか迷う。まずこの映画は単なる「サッカー映画」ではない。また単なるコメディでもない。要するに分類ができないのだ。強いていえば「熱血映画」ともいえようか?いやこれでもまだ的を射ていない。
 テーマ的なことからいえば、落ちぶれて社会の底辺で蠢いている男たちの復権の物語といえるだろう。少林寺拳法という稀有な技を持ちながら、それをもてあまして世間からバカにされている男たち・・・そんな男たちが「サッカー」と出会うことで、本来の自信を取り戻していく、そういう物語といえるだろう。「弱者の復権」そういう映画はかって沢山あったし、これからも造られるだろう。しかしこの『少林サッカー』はそんなゴールデン・パターンを極限まで進化させた映画として映画史に記録されるべきものである。
 例えば少林メンバーがサッカー大会への参加を決意する時、ひとりひとりの背後で焔が燃え上がる。これは「サッカー」に賭ける男たちの意気込みがそのまま映像化されたものといえるだろう。またサッカー大会ではボールは地面を削り、ゴールを吹き飛ばす。このような描写を「オーバーアクション」と笑ってはならない。このサッカー大会における常軌を逸した烈しさはそのまま少林チームの「怒り・悔しさ」(世間・敵チームに対する)を映像化したものだ。
 ともすれば単にワイヤー・アクションがどうしたのこうしたのと、技術的な面ばかり取り上げられるこの映画だが、「なぜそのような強烈な描写が必要だったのか?」を考えるべきであろう。端的に言えばこの映画の根底にあるのは「過剰な怒り」だ。「過剰な怒り」それを映像化するため、あのような一歩間違えば、バカバカしいとも思えるような演出が為されたのだ。
 また主人公、シンの恋人、ムイの大活躍や少林チームのコーチとデビルチームのコーチの遥か過去にさかのぼる確執など、細かいところまで監督の眼が光っている。やってることは「ノリノリ」でも製作者は「ノリノリ」ではなく極めて冷静なのだ。
 観る者に希望と勇気を与える傑作と言い切ってよかろう。

 

 

2002年8月1日鑑賞

『猫の恩返し』

2002年森田宏幸監督作品

 なんとも気の抜けた短編アニメ『ギブリーズ』を見終り、絶望的な気分になったところでさらに来た。ダブル・パンチ。『猫の恩返し』だ。これがまたのっけからカックンくる。「主人公は平凡な女子高生」・・・が「退屈な日常を送っている。」・・・この基礎設定だけで先が読めてしまう。またこの手のパターンか?と。
 この「女子高生」車に轢かれそうになった猫を助ける・・・とここまでは良い。しかし次の瞬間なんと「猫がしゃべる」のだ。唐突に。この監督はファンタジーのイロハもわかっていないらしい。「通常世界から異世界への移行」この部分の描写がファンタジーというものの要なのだ。子供ならまだしも、大の大人がそう簡単に「異世界」などという胡散臭いものにすぐに感情移入できるはずがない。「なぜ行かなければならないか?」「どうやって行くか?」この問いに通常世界にいる段階で答えを出しておかなければならないのだ。それがいきなり「猫がしゃべる」ときた。納得できるわけがない。
 こうして物語はだらだらと「猫の国」へとなだれ込んでゆく。しかしこの主人公の女子高生が「猫の国」で「なにか大切なこと」を学ぶ。という展開なら前半のふがいなさもゆるせよう。しかしこの女子高生は草叢に寝転ぶなりこう呟くのだ。「このまま猫になってもいいかもしれない」この主体性も積極性もない女子高生を巻き込んでひたすら単調なドタバタ劇が繰り広げられる。まあ子供は喜ぶかもしれないが。
 そして「猫になってもいい」と思ったはずの女子高生が「バロン」と称する猫に助けられ通常世界へ帰還する。ここでもその「動機付け」というものが全く欠如している。
 結局、この女子高生、単に猫の国に「遊びに行った」程度の余韻で映画は終了する。取り残された観客はひたすら呆然とするわけだ。あほ臭い。
 はっきり言ってこの作品は駄作だが、夏休みにマヌケなお子様がヒマツブシにみるにはちょうど良い作品かもしれない。Z級映画の存在を否定しません。私は。
 まあ心地良い退屈とやらを楽しめる脳天気な人たちはみてください。私は呆れました。それだけです。