帯へのこだわり

(2017年9月17日(日曜日))

(↑戦後の帯付き希少本中でも有名な書物、澁澤龍彦『サド復活』(弘文堂)の帯付き本↑) 

 

 ブックオフで古書を眺めているとよく本の帯が破れている。
 恐らく上から隣の本を突っ込んだので破れてしまったのであろう。
 その瞬間、わたしは頭のてっ辺から蒸気が噴出す思いがした。

 わたし「絶対に許さんぞ!!本を粗末にする輩は!!切捨て御免にしてくれるわ!!!」

 全く客のマナーがなっていないのはもちろんであるが、なぜブックオフはこういう客の暴虐を許すのであろうか?
 「帯を破損された場合はその本をお買いあげいただきます。」と張り紙をするぐらいの気概が欲しい。
 「本に対する愛」が感じられない古書店は少しづつ寂れてゆくだろう。
 こんなことは本を扱う商売をしている者の間では常識である。
 ブックオフよ、気・を・つ・け・ろ。

 さて古書の世界では帯が珍重される。
 帯付きと帯なしでは大幅に値段が違う。
 こんなことは常識だと思っていたのであるが、最近の「アマゾン」などでは「帯つき&帯なし」の表記がない。
 これはなぜなのだろうか?
 わたしが推測するに「帯」に拘らない「新人類的」古書店がゾクゾク登場しているのではあるまいか。
 「本は基本的に読むための物」、そういう考えに立てば「帯」に拘らない古書店が出てきても不思議ではない。
 しかし本当にそれで良いのだろうか?
 わたしは非常に不安である。

 「それではなぜおまえはそんなに「本の帯」に拘るのだ?」と一般人から問われれば、古書蒐集歴30年のこのわたしでも答に窮するからやりきれない。
 わたし「帯がついているほうが見栄えがするから。」と答えれば「帯などないほうがスッキリしていてイイ。」という答が返ってくるかもしれぬ。

 うむむ。
 確かに日本の古書文化における「帯」の価値は全世界的に普遍的なものではない。
 西欧では基本的に本に帯はつけない。
 日本の「帯文化」は日本ローカルなものである。
 であるから、別に「アマゾン」で帯についての表記がなくてもなんら問題はない。

 わたし「だがしかし・・・」
 わたしとしてはやっぱり帯がついていた方が良いと思う。
 ヤフー知恵袋では、帯の価値を問う質問者に対して回答者が、わたしのような人間を「キチガイだから相手にしないように」という答がベストアンサーに選ばれていた。

 しかしわたしとしてはキチガイと罵られようと「帯」にこだわりたいのだ。
 「本は読むための物である。」確かにそれは正論である。
 しかし正論ばかりでは世の中が砂漠になってしまう。
 「本は読むための物であるが、本を「崇拝」したい一部の人間もいるのだ。」そこをわかってほしい。
 わたしのような古書コレクターは古書を聖遺物のごとく崇拝しているのだから、帯を取るとか破るなんてもってのほかである。古書のすべてが「神聖」なのであるから。  

 「初版&カバー&帯」で「完本」。
 そうでなくては落ち着かない。
 そういう人間のいる余地を残しておいてほしい。
 そういう態度が「余裕」というか、引いて言えば「文化」につながってゆくのではないだろうか?

 最近のブックオフやアマゾンを見ていると、そういう「余裕」が感じられない。
 それがまさに最近の社会情勢にも似てわたしを不安にさせるのである。

 嗚呼、わたしの買う本になるべく帯がついていることを!!(祈念)。
 

 

(黒猫館&黒猫館館長)