戦争と怪談の微妙な関係

 

(2016年8月28日)

 

 

 

 Ⅰ 怪談を観る終戦記念日



 本日は終戦記念日である。

 毎年、この時期になるとTVでは様々な「戦争特集番組」が組まれる。
 昨日の夜はスタジオ・ジブリの戦争アニメ映画『火垂るの墓』を放送していた。

 わたしの父と母がこの『火垂るの墓』にじぶんの幼少期を重ね合わせて涙にむせんでいる時に、わたしはのほほんとじぶんの部屋で稲川淳二の怪談DVDを観ていた。

 わたし「終戦記念日に怪談ビデオを観るなんてなかなか粋なことじゃないの。。。ほっほっほ・・・」

 さてこのようなわたしは社会に背を向けた世捨て人であり、健全な社会人とはいえないのではないか?、、、終戦記念日ならば、せめてその一日ぐらいは「戦争」に思いをめぐらせるべきではないのか??

 このように思う御仁も多いだろうと思う。
 まさにそのとおり。全くそのとおりである。

 終戦記念日ぐらいは戦争について考えたい、それは全くまっとうな考え方であり反論の余地はない。

 だがしかし。
 実はわたしとて怪談ビデオを観ながら戦争について考えていたのである。

 「戦争と怪談」、、、こう書くとなにやら珍妙な愚説を弄して読者の諸君を煙に巻こうとしているようであるが、わたしは至って真剣である。

 「戦争と怪談」はわたしにとって切っても切り離せない密接な関係がある。
 なぜか?・・・



 Ⅱ 怪談の役割とは?



 さて「怪談」というものにわたしは何を見ているのだろうか?
 「怪談」とは「怪しい談(はなし)」すなわち小耳に挟んだ恐い噂も都市伝説もUMAや宇宙人の目撃情報もホラー映画もひばり書房の血みどろ少女漫画も広義の「怪談」である。

 いわゆる「こういうもの」をわたしは非常に重視する主義である。

 人間は「こういうもの」、すなわち幽霊や妖怪やUMAや口裂け女や人面犬、等々に対して「畏れ」を抱く。「恐い恐い」と泣き叫ぶ。あるいは悪夢にうなされ絶叫する。

 これが大事なのである。まさにこれが。

 すなわちスーパーナチュラルな存在に対する「畏敬の念」を怪談は人間に植え付けてくれるのだ。

 さてもし怪談がなかったらどうだろう?
 人間は闇を恐れなくなる。
 一番恐いものは?と聞かれたときは、インテリめいたすました顔で「それは人間だよ」と嘯(うそぶ)く。
 世界は人間を中心に回っている、と思い込む。

 要するに人間は傲慢になる。
 傲慢になった人間は平気で他人を傷つける。

 こういう人間の傲慢さに対して「ちょっと待て」をかけるのが「怪談」の役割だとわたしは思うのである。

 「人間よ、、、畏れ、震えよ、おまえたち人間より恐ろしいものはたくさんいるのだぞ。。。きき・・・きーーーーっきっきっきーーー!!!」



Ⅲ 怪談の側からの「保守」


 
 さて「戦争」について語るからには、わたし自身の立ち居地をここで説明しておこう。

 さてわたしはじぶんを「保守」(conservatism)だと思っている。
 
 しかし「保守」であってもわたしは自民党は嫌いだし、戦争には絶対反対であるし、ネトウヨは気持ち悪いとしか思わないし、学生時代は日比谷公園で反体制デモしていた時期もある。

 稀に「保守」=「右翼」だと思っている方がいるようであるが、それは違うと指摘しておこう。

 「保守」とは急激な変革に対して「ちょっと待て」をかけるものである。
 この「急激な変革」の実行者は「左翼」&「右翼」を問わない。
 つまりわたし的には「保守」の敵は「極左」&「極右」なのである。

 さて「保守」が大事にするものは「昔からあったもの」である。
 「怪談」が『日本霊異記』の時代からあったことは中学生でも知っている。
 それどころか人間の最も原初的な感情は「恐怖」だと言われている。(遠丸立『恐怖考』(仮面社)参照。

 最も原初的な創造物=「怪談」、これをわたしは一番に大切にする。
 「怪談」という「伝統」から急進勢力に「待った」をかける。それがわたしである。

 つまり「怪談の側からの保守」、これがわたしの立ち居地である。



 Ⅳ 人間中心主義からの脱却



 構造主義の始祖と言われている構造人類学者&レヴィ・ストロースはブラジルの未開人の文化の構造分析を通して、西洋中心主義を脱却した。
 
 このレヴィ・ストロースに倣って、人間は人間中心主義を脱却しなくてはならない、とわたしは常々思っている。

 そうでなくては現代の極限まで達した人間の傲慢に「待った」をかけることはできないだろう。

 1970年代にベストセラーになった『COSMOS』(朝日選書)で著名な米国の科学者&カール・セーガンは米ソ冷戦時代に瀕して核戦争を避ける最も有効な方法はなにか?と問われて「それは宇宙人が地球に攻め込んでくることだ」と答えている。

 そのような人間中心主義の「外部」(宇宙&深海&山岳&闇&異次元)からの侵略者(宇宙人&UMA&幽霊&妖怪&異次元人など)が現れば人間は「戦争」どころではなくなる。
 もはやそういう事態になれば同胞同士で殺し合いをしている場合ではないのだ。

 「人間」という種がまさに存亡の危機に立っているのだから。

 人間中心主義からの脱却はこういう「外部からの侵略者」の出現を待たなくてはならない。
 そして「人間同士の戦争」を真に終わらせるのもまた「外部からの侵略者」であるだろう。

 そういう意味でわたしにとって「怪談」は人間の傲慢(人間中心主義)に終止符を打つ福音書なのである。


 Ⅴ 怪談を通して平和へ


 怪奇&妖怪漫画専門の漫画家・水木しげるは南太平洋に位置するニューブリテン島で総員玉砕の命令を受けたが、ジャングルの中を何週間も逃げ惑い結果的に奇跡的な生還を得たという。

 この際に水木しげるが左腕を失っていることは有名な逸話である。

 水木しげるのこの恐るべき戦争体験がなかったら、彼が妖怪漫画家として身を立てることはできなかっただろうとわたしは睨(にら)んでいる。

 この水木しげるの例をあげるまでもなく、わたしには「戦争」と「怪談」に奇妙な暗合を感じる。
あたかも「夏」という季節が「戦争」と「怪談」の季節であるように。

8月15日、今年も昭和天皇の玉音放送がTVから聞こえてくる。
あの声を聞くとなぜかわたしは怪談を聞きたくなる。

やがて夜が訪れる。
今夜もわたしは眼をらんらんと見開きながら、恐ろしく、凄惨で、陰鬱で、救いようがない話に耳を傾けるだろう。
嗚呼、怪談が聞きたい。

そしてもっともっと恐がりたい。。。


「怪談の根底にあるものは愛なんですよ。。。」(稲川淳二、談)



 (黒猫館&黒猫館館長)