共苦の哲学

(2014年2月12日)

 

 

 

 

 

 1 孤独のかなしみ。



 わたしはいつもくよくよいじけている。

 「もしかして重大な病気にかかっているのでは?」
 「みんなが自分の悪口を言っているのでは?」
 「将来が漠然と心配である。このままで良いのであろうか?」
 「もしスクーターで人間とぶつかったら?」
 「デジタル時計で「42」を見てしまった。なにか悪いことが起きるのでは?」

 等等。

 こういうことを悩みはじめたらもう終わりが見えないトンネルに入ったようなものだ。とにかく悶々とひとりで悩み続ける。
 悩んでいる時はひたすら孤独である。
 まるで独房に監禁されたような苦痛!
 それが延々と続くのだ。



 2 話す相手がいない。



 こういう時に親なりカウンセラーなり友だちなりに悩みを相談できる人は幸せである。たとえ悩みが解決しなくても、他人に話すだけで激烈な悩みが軽くなる。
 相談するだけで、苦痛が軽減されるのだ。

 しかし世の中にいる人の大半はあまりにも孤独である。
 親はそもそも自分の悩みを理解できない。
 カウンセラーなんてどこにいるのかわからない。
 そしてそもそも友だちがいない。

 誰にも相談できない悩みのなんというつらいことよ!
 どんどん自分の殻に閉じこもってゆく。
 悩みはどんどん深まってゆく。
 そして最後に待つものは「神経症」である。
 なんという悲惨な事態であろうか!嗚呼!!



 3 「わかってもらう」ということ。

 
 それではなぜ親なり、カウンセラーなり、友だちなりに自分の悩みを相談すれば苦痛が軽減されるのであろうか。
 それは極めてわかりやすく言えば「わかってもらえる」ということであろうと思う。なにも相談した相手から「適切な助言」などを指図してもらいたいわけではない。
 単に相手と目を合わせて「うなずいてもらう」、これだけで苦痛が軽減される。

 端的な例を出せば末期ガン患者の苦痛、これは激烈なものである。しかし家族がいる人は家族、家族がいない人は看護師が「患者の手を握ってやる。」これだけで末期ガン患者の苦痛が「ふっ」と軽くなるのだそうである。

 不思議なことだと思うだろうか。

 しかし実はこれは不思議でもなんともない。
 「自分はこんなに苦しいんだ!」ということを誰かに「わかってもらう。」つまり「苦しみを共にしてもらうこと。」これが苦痛を軽減させるのである。



 4 発想の転換。


 しかし多くの人がこう叫ぶであろう。
 
 「わたしはこんなに苦しいのにわかってくれる人なんて誰もいやしない!」

 こういう状態は苦しいであろう。それはわたしも非常によくわかる。しかしここで発想を転換してみるのだ。
 すなわち「苦しいのは自分自身だけではない。」こう自分に言い聞かせてみ給え。苦痛が少しづつ軽減されてゆくことに気づくであろう。

 なぜこういうことが起きるのか?



 5 仏教の「一切皆苦」。


 「自分はこんなに苦しいんだ!」そう叫びたい心は痛いほどよくわかる。
 しかし苦しんでいるのは自分だけではないのである。

 仏教では「一切皆苦」という考え方がある。
 すなわち人生はすべて苦しいことだらけである。そしてそこから通じて人間畜生草木に至るまですべての生ある者がが苦痛に呻いていると説く。
 すなわち現世を「苦界の海」と捉えるのである。

 ネガティブな考え方だと思うだろうか。
 わたしは思わない。おおよそ人間であれば生きることは苦しいことにきまっているのだ。こういう「絶望の認識」からしか真の希望は生まれないと思う。中途半端に希望を説くことは却って苦しみを倍増させる。



 6 「わかってもらう」から「わかってあげる」へ。



 こういう「苦界」としての現世でわたしたちに出来ることは「他人の苦しみをわかってあげる」ということである。
 諸君が親だったらいじめられている子のために泣いてみ給え。
 諸君がカウンセラーだったら相談者の目をじっとみつめてあげ給え。
 諸君が誰かの友だちだったら友だちの手を握ってあげ給え。

 とにかくどんな方法でも良いのだ。
 「他人の苦しみ」と共存してみるのだ。
 そうすれば不思議なことに自分の悩みも軽くなってゆくことだろう。

 それは当然のことである。
 「他人が苦しんでいる。」ということを「わかってあげる」ことはめぐりめぐって「自分が苦しんでいる」ことをわかってもらえることになるだろう。

 この時点で『「共苦」(Mitleid=ミットライト)』が成立する。
 自分が他人の苦しみを「わかってあげ」れば、やがては他人も「自分の苦しみ」を「わかって」くれるであろう。




 7 「共苦」の世界を目指して。



 自分と他人が苦しみを共有する世界。
 そういう世界が簡単に訪れるとはわたしは考えない。

 訪れるのは100万年後かも知れないし、永遠に訪れないかもしれない。しかしそれでもわたしはこう問いかけ続けるだろう。

 「わたしは非常に苦しい。だから貴方の苦しみもわかってあげられる。なぜなら苦しいことはどんなにつらいことかわかっているから。もし良かったら貴方の悩みをわたしに話してみないか?」

 それは「苦しみの連帯」という新しい世界への革命であるだろう。
 人間を救うのはキリスト教でもなければ、マルクス主義でもないだろう。
 ただ「共苦」だけが人間を救いうる。
 いや「救う」というより「軽減する」といったほうが良いだろう。なぜなら人間の世にあるかぎり、苦しみは絶対に絶えることはないのだから。

 人類が救済されることなど実はありはしないのだ。
 しかし人間の苦しみを最小に抑えることはできる。

 そういう観点からわたしはたったひとりでもこの「共苦」への革命を推進してゆくつもりである。




(了)

 

 (黒猫館&黒猫館館長)