自分を取り戻す

(講演日=2013年7月27日)

 

 

 

1 mixi中毒だったわたし。

 2008年ごろだったと思う。
 その時期、SNS&mixiでわたしは来る日も来る日も強迫的に日記を更新していた。
 わたしがmixiに入会したのは2005年である。2005年入会当初は自然に書きたいことを日記に書いてそれで満足だったのである。

 しかし時間は残酷だ。
 日記を書けば書くほど日記のネタは少なくなってゆく。
 それでもわたしは死に物狂いで日記を更新しなくてはならない!!しかも完璧ですばらしい日記を。そのような強迫観念に襲われた。
 そうしなくては「わたしがわたしでなくなってしまう。」、そのような深甚な恐怖感に襲われたのである。

 わたしはなぜこのような強迫的な日記の更新に取りつかれてしまったのであろうか?



 2 「空虚でからっぽなわたし」。

 わたしは元々極端に自己評価の低い人間である。
 なにか失敗すればすぐに「自分は全く価値のない人間だ」と思い込む。
 実際にはそんなことはないのに「自分はからっぽの人間だ」と強固に思い込んでいたのである。

 そういう人間は極端な行動に走りやすい。
 わたしは「からっぽの人間」であるからこそ、「他人から無視されたくない。&他人に認められたい。」という欲求を日々つのらせていた。

 こういう「自己承認欲求」は子供や何らかのハンデを抱えている人々などの社会的弱者、劣等感に悩んでいる人間、そして情緒が不安定な精神病患者やパーソナリティ障害を持つ者に強いという傾向があるそうである。

 そこで登場したのが「mixiの日記」である。
 わたしは来る日も来る日も死に物狂いで日記を更新した。そのようにしてマイミクに認められなくては「わたしが消えてしまう」、そのような異常な想念に取りつかれていたのである。

 しかし元々病的な動機で始まった「ミクシィ日記」であるから、「終わる」とか「休む」ということをわたしは知らない。わたしは毎日のように迫り 来るmixi日記の更新に怯えながら、逆説的にもミクシィの退会を考えていた。それほどまでにわたしはmixi日記の更新に疲れ果てていたのである。

 

 3 自己承認欲求型犯罪。

 さてこういう病的な「自己承認欲求型強迫行為」はわたし個人の特殊な病例であったのだろうか?わたしにはとてもそのようには思えない。
 人間なら誰しも心の中に「空虚でからっぽなわたし」という心の闇を抱えている。
 そのような心の闇が人間を突飛で奇妙な行動に走らせるのだ。

 端的な事例をひとつあげよう。
 人間は自己承認されるためには殺人さえ辞さないそうである。たとえ大量殺人を犯して死刑を宣告されても、日本国中の人間や裁判所が自分に「憎悪」という名のねじまがった「承認」を与えてくれることが彼らを安心させるのだそうだ。

 「無視される」よりも「憎悪されてもいいから自分の存在を認めてほしい」こういう自己破滅的な欲求が犯罪者の心理の根底にある。自己承認欲求とはそれほど恐ろしく苛烈なのだ。

 1997年に児童の頭部を切断した容疑で逮捕された「酒鬼薔薇聖斗」も犯行声明文でこのように書いている。

 「ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中だけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。」
(第二の犯行声明文から抜粋)。
 


 4 自己充足への道。

 このような按配(あんばい)であるから、「空虚でからっぽなわたし」という想念に取りつかれた人間は早急にそういう自己喪失感から自分を取り戻さなくてはならない。
 しかしこれは簡単なことではない。
 「空虚でからっぽなわたし」という想念を抱くような人間には過去に深刻なイジメや体罰を日常的に受けた人間が多く、そういう人間は必然的に自己評価が低くなる。
 つまり「空虚でからっぽな自分」の根底には「わたしなんて何の価値もない」という「異常なほどの自己評価の低さ」が深刻な問題として横たわっている。

 しかし今になって過去のイジメや体罰をいくら悔やんでも「自分を取り戻す」ことはできない。「自分を取り戻して」自己充足する、そのための具体的な方策が必要だ。そのための方法とは何か?



 5 自分を取り戻そう。

 現代の臨床精神医学の世界では「内観法」と呼ばれる自己観察の方法がよく用いられる。しかしこれを実践するには専門家のアドヴァイスが必要だ。そう簡単に誰でも出来ることではない。

 そこでわたしが提唱したいのは「紙と鉛筆」を使った「具体化」の方法である。
 「自分は本当は何がやりたいのか?」このことをひたすら紙に書いてゆく。深く考えたりせずにどんどん自動書記のように手を動かして書き続けてゆく。
 そうすれば「読書をしなくてはならない」と強固に思い込んでいた人間が意外とスポーツをやりたい人であったり、アウトドア派と自称している人間が哲学書を読んでみたい人だったりすることがわかってくる。

 「紙と鉛筆」を用いた「自己発見の旅」の過程で様々な「意外な自己」が現れてくるだろう。
 大抵の人間はこういった「意外な自己」が怖くてたまらない。
 今までの自分が「意外な自己」によって「革新」されるのが怖いのだ。しかし自分を取り戻すためにはこういう恐怖に耐えなくてはならない。

 「意外な自己」を発見して「自分が本当にやりたいこと」を掴んだ人間は「空虚でからっぽな自分」から解放される。そしてゆがんだ「自己承認欲求」に悩ませられることもなくなる。

 換言すればその人間は「大人」になったのだ。
 「大人」になったのだからもうイジメが悪いとか親に厳しく育てられたとかの「甘え」は許されない。そういった「責任」も同時に引き受けて人間は自分を充足させることができる。



 6 現在のわたし。

 現在のわたしは強迫的な日記の更新に悩まされることはない。日記は書きたいときに書けば良いし、書きたくないときは書かない。別に金銭の発生する仕事ではないのだからこれで良いと思っている。
 そんなわたしでもやっぱり今でも「立派な日記を書いて他人に認められたい」と思うときがある。
 現在のわたしにはまだ自己承認欲求は残っている。
 しかしこれはもしかしたら人間の自然な姿ではないだろうか?

 アメリカの心理学者・マズローは、人間の基本的欲求を低次から、生理的欲求 、安全の欲求 、所属と愛の欲求 、自己承認の欲求 、自己実現の欲求 の5段階に分類した。

 つまりある程度の自己承認の欲求は自然なものであるのだ。
 誰だって他人に認められたい、誉められたい、と思う。しかしその程度が異常に亢進したときに異常が起こるのだ。

 今後のわたしはある程度の自己承認の欲求と折り合いをつけながら、なんとか精神の健康を保っていく予定である。
 願わくば読者の諸君もまた異常な自己承認の欲求に囚われることなく、すこやかに生きていかれることをわたしは祈念する。


 (了&合掌)

 

(黒猫館&黒猫館館長)