SMの真髄

(講演日=2013年3月17日)

 

 

 

 

 1 夜ごとの徘徊。

 わたしは深夜、パソコンをぶいーん、、、と起動する。
 チカチカとパソコンの画面が明滅するとデスクトップ画面が現れる。

 さあ、今夜も電脳の魔界へのドアが開かれたのだ。
 わたしの前にはふたつの道がある。「天国への道」「地獄への道」。
 「さて今日はちょいと地獄に行ってみるか。」と軽く呟くと「ファイヤーフォックス」というブラウザを起動してネットの世界へ侵入する。
 「地獄への道」とはすなわちSMの世界である。愛欲に塗(まみ)れた男女が毎夜毎夜、狂気のうめき声に哭きながら、阿鼻叫喚の地獄を繰り広げている世界である。

 わたしはあるSMサイトの「S女性→M男掲示板」をクリックする。そこには愛欲の叫びのごとき「奴隷募集」の文言が数え切れないほど書き込まれている。
 「ひーーーーーっひっひっひ・・・」わたしは口を耳まで裂いてほくそえむ。

 「地獄じゃ!!これこそ地獄じゃて!!互いに傷つけあうことで快感を得る人間どもめ!!地獄の亡者どもめ!大叫喚地獄のどん底で苦しめ・・・もっともっと苦しむがよい!!ひひ・・・ひーーーーーーーーひっひっひ!!!」

 そんなことを呟きながら、わたしはそれらの文言を読んで面白かったら保存する。どういうわけかSM愛好者の書く文章というものは非常に文学的であり味のある文章が多いのである。
 数を数え切れないほどの文章を読みながら、わたしはふと気づいた。

 「※エゴマゾお断り」。・・・文末にこういう文言がつけられている文章が多い。

 はてこれはどういう意味じゃろうか。はたして「エゴマゾ」とは何か。わたしは冷静に戻って思索の世界に沈殿する。



 2 「マゾ」と「奴隷」の違い。

 さて「エゴマゾ」という言葉をわたしが初めて聞いたのは1990年代初頭である。
 新刊書店でふと手にした雑誌『宝島』誌上に当時「カリスマ女王様」として有名であった「李楼蘭」へのインタヴューが乗っている。
 李楼蘭といえば自身がプロデュースしたビデオ『暴虐のバイブル』があまりに残虐非道であるという理由で発売禁止になったとか、深夜TV番組「EXテレビ」の「SM特集」で取材を受けたりと当時はちょっとした有名人であった。
 そのインタヴューの中で李女王はこのような発言をしていた。

 「マゾと奴隷は違うんですよ。」・・・20代の洟(はな)垂れ小僧であったわたしは「むむ〜・・・」と唸った。これはいったいどういう意味であろうか。マゾも奴隷も同じ変態ではないのか!!

 わたしは興味の赴くままに李楼蘭の著作『掟』(シネマジック刊行)をわざわざ新刊書店で取り寄せて読み始めた。

 さて『掟』の第六章「李楼蘭の呟き」のなかにこのような記述があるので抜き出してみる。

 ◎インタヴュアー「李女王にとって奴隷とはいったいどのような存在なのですか?」
 ◎李楼蘭「・・・わたしがSMの女王様としてクラブで売りだしたときに自然に集まってきたやつらのことかな?しかしその連中のレヴェルの低さには笑ってしまったけど。」
 ◎インタヴュアー「レヴェルが低いとは具体的に言うとどういうことなのですか?」
 ◎李楼蘭「こいつら、奴隷でもなんでもないただのエゴマゾだよ、ってこと。」
 ◎インタヴュアー「マゾと奴隷の違いを教えてください。」
 ◎李楼蘭「マゾっていうのはひとりでもマゾやってられるわけね。要するに夢見る変態君のこと。こういう女王様にこうされたいああされたいという妄想の塊。」
 ◎インタヴュアー「では奴隷とは?」
 ◎李楼蘭「ひとりの女王様に命をかけてお仕えするにあたって、この女王様のためだったら死んでもかまいません。本望です、って言えるやつのことかな。」

 わたしは「うむむ〜。。。深い。」と唸った。
 確かに李楼蘭の理論によると「マゾ」は単なる変態。「奴隷」はもっと高次元の存在のようである。わたしはSMの世界の奥深さをまざまざと感じた。

 「深い・・・深すぎる・・・SMとは単なる変態ごっこではない!もっと緻密に考えるべきれっきとした文化である!!」20代の若きわたしは目の前に立ちふさがる「SM」の世界の奥深さにくらくらと立ちくらみがきた。これは一生かけて探求すべき課題であるな。。。と。



 3 「奴隷」という天使。

 李女王のSM理論を抽出すれば、あるマゾヒストのマゾヒズムが深まってゆくにあたって、そのマゾが「奴隷」へと進化を遂げる。この過程を手助け するのが「マスター&ミストレス」の役目であり、その手段を「調教」と呼ぶ。SMというイバラの道を極めようと志すものは決して「プレイ」という言葉を 使ってはいけない。

 さてわたしはあるSMイベントで某M紳士からこういう話を聞いたことがある。

 M紳士「わたしは自分を男だと思っていないよ。むしろ男だとか女だとかそういうことはどうでも良くなってくる。いわば精神的な両性具有とでもいうのかな。だから男性にお仕えするのにも全く抵抗はないよ。もちろんわたしはホモではない。」

 マゾがマスター&ミストレスにお仕えするにあたって、じぶんがどんどんひどく陵辱されていく、そのあまりにも過酷な精神的&肉体的な陵辱のきわみで「自我(エゴ=ego(ドイツ語&精神分析学上の用語))が消滅する。換言すれば自我を保てなくなる。自我が崩壊する。
 その瞬間にマゾは奴隷へと進化を遂げる。まるで醜い芋虫が華麗な蝶へと変態を遂げるように。マゾの自我の残骸はすべてマスター&ミストレスに吸 収されて、マゾは文字通りの「奴隷」に変身するのだ。もちろん「奴隷としての自我」を「再構築」するのはマスター&ミストレスの役目である。

 「ご主人様のお喜びがそのままわたくしの喜びです。それ以外にわたくしの喜びはありません。」奴隷たちは非常にしばしばこういう言葉を口にする。

 奴隷はマスター&ミストレスの「要素(一部分)」へと還元される。あるいは奴隷とマスター&ミストレスの幸福な結婚。奴隷とマスター&ミストレスの自我がひとつに溶け合う。
 この瞬間こそSMにおけるオーガズム(絶頂)の瞬間と言ってよかろう。

 この瞬間に奴隷は最低の存在へ堕ちてゆく。否!最低であるからこそ最高の天使!地獄と天国の結婚。そういう境地がSMの目指す至高の境地なのだ。
 もはや奴隷の肉体&精神から男だとか女だとかそういう「属性」は消滅する。
 至高のアンドロギュヌスとしての奴隷、そういう存在を製造することが、現代のフランケンシュタイン博士ともいえるマスター&ミストレスの役目なのだ。




 4 「SM」から「DS」へ。

 正直な所を述べると、わたしは「SM」という言葉を好まない。
 なぜならば「サディズム」&「マゾヒズム」という用語は19世紀の精神科医であるリヒャルト・フォン・クラフト=エビングによって考案された精神医学上の「病気」の名前であるからだ。

 「性倒錯」・・・この忌まわしい概念をわたしは「SM」から消去したい。
 そこでわたしは近年ヨーロッパを中心に広まっているという「D&S」という言葉を提唱したいと思っている。「D&S」とはDS、D/S…Domination(支配) & Submission(服従)の約である。

 まるで中世の騎士物語であるような美しい奴隷と主人の物語(Roman)には「SM」などという「病気」の名前は似合わない。
 21世紀こそ「D&S」という物語が、古代世界に存在した残酷かつ神聖な儀礼として現代に蘇らんことを。

 聖なる主人と奴隷が美しい物語を紡ぐわたしたちのユートピアはもうすぐそばまできているのだ。現代の時代においてマゾヒスト&サディストと虐げられている者たちよ。

 しばし待て。
 あともう少しで時代がおまえたちにおいつくだろう。



 【完】 合掌。

 

 (黒猫館&黒猫館館長)