冬が終わる日

(講演日=2013年3月3日)

  

 

 

 

 

 1 「冬」のいやらしさ。



 わたしは冬が嫌いである。

 わたしの住んでいる地方では雪が多く降り積もる。
 そのため道路がつるつるのアイスバーンになる。
 わたしは冬の間はこのアイスバーンの上をスパイクタイヤをつけたスクーターで走るのだ。この一冬で何度も転倒の危機にさらされた。
 しかもスクーターが走る場所は道路の左端である。右側をビュンビュン車が走る。もし転倒したら命の保証はない。

 交通の面だけではない。
 雪があまりにも多く積もるので家の前の歩行が困難になる。
 そこで登場するのがあの忌まわしい「雪かき」という仕事である。しかし一度でも「雪かき」をしたことのある人ならわかってくれるだろうが、あまりにも雪の量が多いので「掘っても掘ってもキリがない」のだ。
 そんな非生産的な仕事をヘタすれば毎日やらされる。

 雪の面だけではない。

 わたしは寒さに弱い。しかし「寒さ」と言っても東京の寒さのような生ぬるい寒さではない。
 文字通り身が切れるような寒さの日々が続く。
 
 このような気温が氷点下を大きく切る「真冬日」になるとわたしの場合、頭脳が働かなくなる。
 医学的な見地から見ればこれは「冬季うつ病」と説明されるものであろうが、あの氷点下を切る文字通り「身に沁みる」寒さにさらされれば、誰だって生きる気力が萎える。自分が死に瀕していることがわかる。もちろん外で寝たら間違いなく凍死であろう。
 
 そのため震える身体を布団に包んで、ガクガク震えながら眠ってしまうしかない。
 そうなると仕事や勉強、遊びに差し支えが出てくる。
 
 このような状態であるから、全国ニュースで「今年はロマンチックなホワイトクリスマスで繁華街は恋人たちでにぎわっています。」などという音声や映像を見ると、そういう恋人たちを東京まで出向いてぶちのめしたくなる。

 わたしが住んでいる地方の冬とはそういう冬だ。
 まさしく「冬」とは死の季節なのだ。
 


 2 「玄冬」という言葉。

 
 人気小説家・五木寛之の小説に『朱夏の女たち』(新潮文庫)という書物がある。
 この『朱夏の女たち』という小説は、まったく性質の異なる30代後半の3人姉妹の主人公を通して自分らしく納得のいく生き方を 懸命に模索している姿を描いている極めて明朗でさわやかな小説である。

 この「朱夏」とは語源は中国の古代の哲人&孔子による古典的著作『論語』に求められる。
 『論語』によると人生のライフスタイルは「青春」(16歳〜29歳)、「朱夏」(30〜39歳)、「白秋」(40歳〜59歳)、「玄冬」(60歳〜)に分類できるという。

 わたしは長い間、青春が出発点であって、朱夏、白秋、玄冬・・・という順番で続くものだと思っていた。さよう、玄冬はまさしく死に瀕した季節で あり「玄冬」の「玄」という字はどす黒い絶望の黒(玄人(くろうと)という言葉を思い出してくれたまえ。)を意味するものだと思っていた。

 しかし先述の五木寛之氏の著作によると、出発点は玄冬であり、それから青春、朱夏、白秋、と続くのが正確な用語法であるらしい。
 
 いったいなぜ、どす黒い絶望の死の季節である「玄冬」が一番初めに置かれるのであろうか。



 3 「青春」という幻。


 人生において「青春」はもっとも光り輝く時期と言われている。わたしもそのとおりであると思う。その証拠に小説の主人公やアニメのキャラクターを見てみたまえ。そのほとんどが「青春」にある若者である。

 英国の代表的なロマン派の詩人であるワーズワースは青春について次のように謳っている。

 「草原の輝き」

 草原の輝ける時
 花、美しく咲ける時
 再びそは還らずとも
 嘆くことなかれ
 そこに力を見出さん

 このように青春は人生と花がもっとも大きく光り輝く時期である。
 しかし多くの若者は自分が青春の真っ只中にいる、とは気づかない。
 むしろ他の年代よりも悩み、苦しむ時期が「青春」であるのではないだろうか。それゆえ「青春」はしばしば「幻」と評される。
 「青春」など「青春」の中には存在しない。このような逆説がしばしば語られる。それでは一体「青春」はどこにあるのだろうか?



 4 「末期の眼」。


 日本人では初のノーベル文学賞を受賞した川端康成はその著作『末期の眼』(角川文庫)の中で芥川龍之介の文中にある「末期の眼」という言葉に注目している。

 「唯自然はかういふ僕にはいつもよりも一層美しい。
君は自然の美しいのを愛し、自殺しようとする僕の矛盾を笑ふであらう。
けれども自然の美しいのは、 僕の末期の眼に映るからである。」(『「或旧友へ送る手記』から)

 さてこの文言を噛み砕いて解釈すると死を意識した眼で世界をみると、この世は愛おしく美しく見える、という意味であるらしい。
 そういえば今は無き前衛劇団「中村座」の代表作「胸騒ぎの放課後」の中に次のような文句があったと記憶している。
 この言葉は恐らく芥川龍之介の「末期の眼」をわかりやすく言い直したものであるのだろう。

 「死んだ人間の眼で見なさい。そうすればすべてが気高く美しくなる。」

 この言葉が長年わたしの中で引っかかっていた。
 「死んだ人間の眼で見る」とはどういうことなのだろうか?



 5 冬が終わる日。


 玄冬、それは死の季節である。
 しかし死の季節であるからこそ、過去を追憶する季節であり、そして未来の生へ対する永遠の憧憬の季節である。

 そういう意味で考えれば「青春」とは「玄冬」の季節にかいま視る来世への幻であるのではなかろうか。
 五木寛之は人間は死んで極楽に行くが、いつかはまたこの人間の世界へ還ってくると説いた。(「『大河の一滴』新潮社)そのような人間界と極楽を「往還」(いったりきたりすること)することの美しいイメージが冬と春の季節の境目には付きまとう。

 わたしは今こそこの憎むべき冬と惜別して、今訪れる春を迎え入れる。
 そしてこの「冬が終わる日」をこころの底から祝福し、かつそれ以上に悲しむことだろう。

 春よりも春らしい春を視る幻の季節、それは冬。「末期の眼」を人間にもたらしてくれる死の季節である冬よ。
 さらば。

 季節はまさに3月。
 今、春は訪れる。



 『永遠の冬に抱かれながら
それでも春の訪れを待つ
風わたる夏の海も、
くれなずむ秋の空も、
母の愛した地平線、その全てが
あなたの歌に繋がっていく』



―――だからもう 悲しまないで
春が来る前に 今
伝えたい 産もうとしてくれたこと
それだけで僕は 幸せでした

さよなら、お母さん(Au revoir, ma mere.)

僕は幸せです(Je suis heureux.)』

 sound horizon『冬の伝言』より引用。



(了)

 

 

 (黒猫館&黒猫館館長)