文章が書けない人へ 

(講演日=2012年5月28日)

 

 1 「お筆先」が起こった頃

 その時期は2005年頃であったと思う。
 わたしは文章を書こうと思うと、なにも考えずとも手が動いた。まるで「お筆先」のような話であるが、本当になにも考えなくても手が動いたのである。
 まるでわたしの「肉体」から文章が湧き出てくるように手が勝手に動いたのである。

 今、この時期の文章を読み返してみると確かにこなれている。今のわたしだったらなかなか書けないことを書いている。

 岡本太郎が「頭でひねくりかえしちゃ良いものは描けない。いつだってすいすい進んだほうが良いものが描けるんだ」と述べたとおり、2005年前後のわたしの文章は今のわたしの文章より「上手い」のである。これは悔しいことであるが本当のことだ。

 その後、「お筆先」が起こる率がどういうわけかどんどん減っていった。
 現在では「お筆先」が起こることはほとんどない。
 いったいわたしに何が起こったのか?



 2 「バカ」だったわたし

 「お筆先」が起こった頃のわたしを遡って検証してみると、良い意味で「バカ」だったことがあげられる。とにかく悪乗りしてハメを外していたのだ。この時期に書いた文章の一部が「検索してはいけない言葉」というサイトに取り上げられて現在話題を呼んでいたりする。

 アントニオ猪木が『馬鹿になれ』という詩集を出しているが、わたしはまさに『馬鹿』そのものだったのである。さてそれでは「バカ」とはどういう状態であるか?これが真の問題である。

 わたしが思うに「バカ」とは「他人の目を気にしない」ということなのではないか、と思う。「厨二病」と蔑まれようと「電波」と嘲られようと、ひたすら自分の書きたいものを書きなぐってゆく。
 これは強い。純粋である。こういう人間ならば「お筆先」などという破天荒なことが起こっても不思議はない。おおよそ良い文章を書くには「他人の視線を気にしない」これが第一条件である。



 3 「ええかっこしい」という陥穽

 しかし「他人の目を気にしない」と簡単に言うが、世の中のほとんどの人にとって、これをやるのは難しい。誰もが「他人に頭が良く思われたい」のだ。誰だって「バカ」と思われたくない。
 
 要するに誰もが「ええかっこしい」になってしまうのである。
 
 しかしこれはある程度仕様がない。10代や20代前半の若者ならともかく、いい歳をしたオトナがいつまでたっても「バカ」をやっているわけにはいかないのである。
 誰もが歳をとると「小賢しくなる」。またオトナには「社会的対面」というものがある。いつまでもバカをやってられる人間のほうが遥かに少ないし、それをやるのは非常に難しい。

 このことの典型的な例が私小説作家の車谷長吉氏と西村賢太氏である。

 車谷長吉氏は『赤目四十八瀧心中未遂』(文藝春秋)で直木賞を取ってから書けなくなってきた。車谷氏は直木賞を取ってから自己模倣を始め、それも書けなくなったらエッセイや人生相談を書き出した。そして現在ではついに「何も書けなくなった」のだ。誠に悲惨な話である。

 恐らく車谷長吉氏は直木賞を取って「バカではいられなく」なってしまったのだと思う。直木賞作家といえばもう最高の名声である。永遠に文壇に名前が残る。
 そういう名声を得てしまったらもう今までのように「世捨て人」を気取っていられなくなるのも当然である。車谷長吉氏のような大人(たいじん)であっても「小賢しく舞い上がってしまって」文章が書けなくなったのである。

 同じことが近年、『苦役列車』(文藝春秋)で芥川賞を取った西村賢太氏にも言える。西村賢太氏といえば「中卒・週一回はソープランド通い・喰いものは牛丼しか食べない」という根っからの無頼であり、まさに「バカそのもの」として文壇に登場した。
 しかし芥川賞を取って一気にこれ以上はないというほどの名声を得た。
 最近ではTVやその他のメディアで引っ張りたこだそうである。
 もうこうなったら無頼でもバカでもいられない。西村賢太氏は今後「社会的地位」のあるオトナとして振舞っていかなくてはならないのである。

 こうなったらもう書けなくなるのは必須である。
 昨今の文学愛好者の間の下馬評では「西村賢太はちかいうち書けなくなる。」という意見が主流である。



 4 「バカ」であり続けるということ

 車谷長吉氏も西村賢太氏も「ええかっこしい」という陥穽に落ちて「バカ」ではいられなくなった。それでは「バカ」であり続けるにはどうしたら良いのであろうか。

 「バカ」であるということは「他人の視線を気にしない」ことである、と先述した。
 「他人の視線を気にしない」ためには「立派だと思われなくても良い」というある種の社会的諦念を必要とする。
 逆説的であるが「立派だと思われなくても良い」と思っている人間が「立派な文章を書いて」社会的評価を得るのである。
 まことに皮肉で残酷な話である。そしてサーカスの綱渡りにも似て曲芸的な難しさを要する仕事である。

 しかし本当に文章を一生の仕事にしようとする人間はこの曲芸をやらなくてはならない。

 こういう曲芸にも似たことをやって精神的に病んでしまった人をわたしは沢山知っている。しかし文章道を極めようとするのなら、この曲芸をやらなくてはならない。
 嗚呼、文章の道はあまりに険しく遠い。「バカ」で居続けることがこんなに難しいことだったとは!!



 5 結語

 現在のわたしには以前のような「お筆先」が起こることはない。
 しかしそれでも書き続けなくてはならない。書くために必要なものは「頭」ではない。
 「肉体」だ。19世紀の哲学者・フリードリッヒ・ニーチェは「肉体は大いなる知性である。」と言った。頭を使うなどという小賢しい方法で文章は書けるものではない。
 みずからの「肉体」から湧き出してくるものを文章にするのだ。
 
 「考えるな。感じろ。」

 かつて格闘技の達人であるブルースリーはこのように言った。

 目を閉じてみよう。呼吸を穏やかにしてみよう。そうすればおのずからじぶんの「肉体」から湧き上がってくるものがあるはずだ。なにかがじわじわと感じられてくる。
 その言葉にできない「じわじわ」をすかさず文字にして文章に組み立てよ!
 その時にその文章が他人にどう評価されるかなど決して考えてはいけない。

 そうすれば「お筆先」は無理でもある程度満足のゆく文章が書けるかもしれない。

 「一生、文章バカ」。

 その覚悟があるのなら、貴方はいつの日か自分で満足のいける文章を書けるようになるだろう。
 健闘を祈る。

 
 【完】
 

 

 

 (黒猫館&黒猫館館長)