偽者と本物の世界

 〜アニメ『偽物語』についてのノート〜

講演日=2012年4月5日

 

 

 

 1 『偽物語』との出会い。


 わたしは一年に一本のアニメに夢中になる。
 2010年は『けいおん!!』だったし、2011年は『BLOOD−C』に夢中になった。なぜ一年に一本だけなのだ?と問われると返答に困るが、たぶんわたしの「波長」に合致するだけのアニメは一年に一本づつぐらいしか現れないということなのであろう。

 さて時は2012年、今年はどんなアニメが始まるのだろうか?・・・とテレビに向かった瞬間いきなり年初めから頭をガツンとやられた。
 西尾維新原作『偽物語』の登場である。
 この『偽物語』は前作『化物語』の続編である。
 正直言ってわたしはそれほど『化物語』のファンではない。
 そんなわたしがなぜ『偽物語』に魅了されたのであろうか?






 2 『偽物語』の基本構造。


 『偽物語』の前作『化物語』は、「怪異」にとりつかれた五人の少女たちを主人公の阿良々木暦が救いあげるという構造で全15話が制作された。
 それは新興宗教に走った母に見捨てられて蟹の神にとりつかれた少女(戦場が原ひたぎ)や片手が毛むくじゃらの「猿の手」に変異した少女(神原駿河)などを取り巻く怪異譚を極めてシリアスな展開で描いた正攻法のオカルトアニメであったと言って良いだろう。

 さてこの続編である『偽物語』では一応このパターンを踏襲している。
 阿良々木暦の二人の妹である阿良々木火憐と阿良々木月火が今度は「怪異」にとりつかれる役回りを演じる。

 しかし『偽物語』の世界では、その「怪異」というものが真実味を帯びて迫ってくることはない。『偽物語』第五話で詐欺師・貝木に火憐がうつされた「囲い火蜂」という怪異は後で単なる「催眠術」であったということが判明するし、月火が「不死鳥」にとりつかれている、という後半の展開もその「怪異」から月火がなんの「害」をこうむるわけではない。
 
 要するに『偽物語』の世界では「怪異」は基本テーマではないのだ。その点で前作『化物語』と『偽物語』は全く違ったテーマを有する作品と見て良いだろう。
 それでは『偽物語』の世界で描かれたものとは一体なんだったのか。

 ここで『偽物語』の公式サイトを覗いてみたまえ。
 このような惹句(じゃっく)がトップページに掲げられている。

 「青春とは『本物』になるための戦いだ」

 この一文から次のようなことが読み取れる。
 『偽物語』の作品世界で論じられるテーマとは青年期にある若者が「本物」へ成長するための苦しみであり、また「本物」に成りきれず「偽者」に甘んじてしまう者の悲しみである。

 そのような意味で『偽物語』は一見して「教養小説」(ビルディングス・ロマン)の様相を呈している。
 しかしそれは作者・西尾維新がわたしたち読者・視聴者に仕掛けた罠であった。
 
 それでは『偽物語』における「偽者」そして「本物」とは何なのか?





 3 「反(アンチ)・ビルディングス・ロマン」としての『偽物語』。

 
 さて『偽物語』という題名を聞いて奇異な印象に捉われた方も多いであろう。この作品で言うところの「偽者」とは誰を指すのか。
 これは重要な問題である。
 一見、阿良々木家の二人娘である「阿良々木火憐」と「阿良々木月火」を指しているように見えるし、詐欺師である「貝木泥舟」を指しているように見える。
 もっと突き詰めれば「この物語そのものが『偽者』なんだよ」という原作者・西尾維新の自嘲が聞こえてきそうな気もする。

 要するに『偽物語』における「偽者」とは重層的な意味を合わせもつ。
 それゆえ、この説では主に火憐・月火について論じてみる。

 
 阿良々木火憐と阿良々木月火、彼女たちは二人組みのユニット「ファイヤーシスターズ」を名乗り、「正義の味方」ごっこを行っている、という口述が主人公・阿良々木暦の口から説明される。
 さてなぜ彼女たちが行っている行為は「正義の味方」ではなく「正義の味方」ごっこである、と暦は喝破したのであろうか。

 そのことは『偽物語』第五話「かれんビー 其ノ伍」を観れば明らかになるであろう。カラオケルームらしきところで詐欺師・貝木と火憐が対峙する。火憐は貝木を「殴り、蹴って」正義の味方たろうと試みる。
 
 しかし貝木が接近してきても火憐には手出しができない。あっさりと貝木の催眠術にかかってしまう。

 これは恐らく火憐の「覚悟の不足」に由来するエピソードであると思われる。火憐に自分が正真正銘の「正義の味方」であるという「覚悟」があったなら、この場面で貝木をぶちのめしていたであろう。
 しかし彼女にはそれができなかった。
 要するに火憐は貝木の恐ろしさに「縮みあがった」のであろうし、大の大人をぶちのめせるだけの勇気が欠如していたのであろう。
 要するに火憐が「「正義の味方」の偽者」であることがはっきりしたのがこの回である。
 
 ここで先ほどの公式サイトに掲げられていたコピーを思い出してもらいたい。
 「青春は「本物」になるための戦いだ」。
 しかし火憐はまんまと「本物」になり損ねた。オトナになることに失敗した。自分の「為すべきこと」を実行に移すことができなかった。

 心理学的に言えば火憐は「自己同一性(アイデンティティ)の確立」に失敗したのだ。社会的な義務を実行に移すことができなかった。モラトリアム(準備期間)に留まってしまったのである。

 ここで火憐を「人生の落伍者」として物語上から退場させることはいともやさしい。しかし作者の西尾維新はそれをやらなかった。
 貝木に敗れた後の火憐は催眠術が解けた瞬間にまた活き活きと活動し始める。

 ここで火憐は「永遠の子供(偽者)」であり、しかしそれもまたよい、とその存在を肯定されているようである。
 貝木に敗れた後も火憐はファイヤーシスターズとしての活動を止めようとはしない。火憐は「偽者でありながら本物に憧れ続けている」のだ。このことの真の意味は後に貝木の口から語られる。

 いずれにせよ、火憐は火憐のままで「まるで成長していない」のだ。
 伝統的な教養小説(ビルディングス・ロマン)と『偽物語』はこの点で一線を画している。その「どちらが良い」の問題は別にして『偽物語』の作者の視線はそのキャラクターに対して限りなく優しく、そして新しい。

 「青年期」が「成長」、そして「自己実現」とセットとして捉えられる従来の物語と『偽物語』は明らかに別の地点に立っているのである。





4 「偽者」とはなにか?


 さて火憐が「偽者」だと結論した所で一息入れて考えたい。
 
 そもそも「偽者」とは何なのか?
 そしてさらに「本物」とはなにか?

 まず「本物」から考えてみたい。
 「ある人物が「本物」である」とわたしたちが断言する場合、なにかしら「立派な仕事」をしている場合が多い。

 例えば現代の常識に従っていえば「ニーチェは本物」なのであり、「岡本太郎は本物」なのである。こういう「本物」と評価される人物の「作品」を嗜(たしな)むことが「本物嗜好」などという現代の流行語になっていたりする。

 ニーチェや岡本太郎まで行かなくても、「一流会社に入り」「ちゃんと結婚して」「子供は二人いて」「年収1000万以上で」「背が高い」。。。そのような人物が現代社会における「立派な人間」イコール「本物」なのであろう。

 それでは「偽者」とは何か?これが真の問題である。
 「偽者」とはすなわち「本物ではない人間」である。例えば「フリーター」「ニート」「メンヘル」「ひきこもり」「無職」そのような、「立派ではない」と一般に軽蔑される人間が「偽者」だと思われる。

 高度成長期には世の中の人間のほとんどが「本物」であっただろう。
 しかし現代の平成大不況、リーマンショック、東日本大震災を経過した現代の日本で「本物」たりうるのは非常に難しい。
 なぜなら、一流企業のサラリーマンでさえいつ首を切られるのかわからない時代が現代社会であるからだ。
 現代ではすべての人間が「偽者」に転落する可能性を持っている。そういう時代に『偽物語』というライトノベルが登場してTVでアニメ化される、これはいわば「当然の帰結」であるように思われる。

 火憐や貝木、さらには暦に至るまで『偽物語』のキャラクターたちに視聴者は自己を投影しているのだ。「自分が『偽者』ではないのか?」という恐怖におびえつつ。





 5 貝木泥舟の場合。


 さて『偽者』という言葉の定義を行ってから、再び『偽物語』の物語世界に帰ることにしよう。次に問題になる人物は火憐の次にこの物語のキー・パーソンとなる人物である「貝木泥舟」である。

 まず最初に貝木が現れたのは「神原駿河」の家の前であった『かれんビー 其ノ参』。この時は阿良々木暦と初の顔合わせということで、簡単な自己紹介以外の目だった活動はしていない。

 しかし重要なのは二回目である。
 先述したカラオケルームで貝木は火憐と対峙する『かれんビー 其ノ伍』。
 「正義」を振りかざして貝木を「殴り、蹴ろう」と身構える火憐に対して、貝木は「世の中、金がすべて」あるいは「子供はだましやすいからな」と徹底した悪党ぶりを呈して立ちはだかってみせる。

 しかし通常のアニメのように、緊迫した「正義VS悪」という構図のドラマの様相を呈しつつ、実はそういうドラマの「風刺劇」のようにどこか間の抜けているように見えるのはなぜか。

 さてわたしは先ほど火憐を「正義の味方」の偽者、と結論した。とすれば貝木は「悪」の偽者だったのではないか。貝木は「俺が偽者ならお前も偽者」と火憐の正体(正義の味方の偽者)を逆説的に暴いてみせているように思われる。

 このことが明白にセリフで証明されるのが『かれんビー 其ノ漆』である。
 

 「催眠術」で倒された火憐の復讐のために阿良々木暦と戦場ヶ原ひたぎは街外れの空き地で貝木に戦いを挑む。

 その際の貝木のセリフはこうである。

 貝木「戦場ヶ原。お前は俺を誤解しているな。いや、誤解ではなく、
 むしろ過大評価と言うべきか。お前が敵視するこの俺は、
 ただの冴えない中年だよ。詐欺師としても至極小物の、佗しい人間だ。
 それとも、お前には俺が化物にでも見えたか」

 戦場ヶ原「まさか。あなたはただの… 偽物よ」



 貝木は「悪党としても自分は偽者」とあざ笑っているのである。
 ここである不安をわたしたちは感じざるを得ない。

 「正義の味方」たる火憐は偽者であった。
 そして「悪の代弁者」たる貝木も「偽者」であった。このドラマではシリアスな「正義VS悪」という構図が機能していない。「正義VS悪」の偽者がドラマの主体なのだ。
 だとしたら『偽物語』というアニメそのものが『偽者』なのではないか・・・?

 視聴者であるわたしたちは原作者である西尾維新の仕掛けた罠がより複雑に錯綜していくのを感じて恐怖するのだ。

 そして最終回、ついに『偽物語』というドラマの真相が暴かれる。・・・





 6 『偽物語』というタイトルの意味の変質。


 『偽物語』前半七話「かれんビー」パートは、火憐=「正義の味方の偽者」VS貝木=「悪の代弁者の偽者」の対決が骨子となっていると指摘した。
 つまり『偽物語』においては「偽者」はキャラクター単体だけを指すのではなく、ストーリー、構造まで及んでいる。
 つまり『偽物語』というアニメは従来型の「勧善懲悪アニメ」の偽者である。

 ここから次のようなことが洞察される。

 『偽物語』とは「偽者についての物語」という意味を含意(がんい)しつつ、さらに「偽者でしかない物語」へと変貌してゆく。

 わたしたちはここで戸惑いを隠せない。
 原作者・西尾維新が真に意図するものはなんなのか。
 いやもしかしたら「真に意図するもの」などというテーマさえ存在していない空虚で虚ろな「偽者」のアニメ、それが『偽物語』ではないのか。

 それではそもそもそういうアニメがTVで放送されることに意味はあるのか?
 わたしたちは『偽物語』が指し示す最後の結論に怯(おび)えつつ、最終章「月火フェニックス」の扉を開く。そこにあるものとは・・・?




 7 阿良々木暦の場合。


 『偽物語』後半四話「月火フェニックス」パートでは「悪役」は貝木泥舟から、謎の二人組「影縫余弦(かげぬいよづる)」と「斧乃木 余接(おののき よつぎ)」にバトンタッチされる。影縫と斧乃木は主人公・阿良々木暦の妹である阿良々木月火を「人間の偽者=怪異」と断定して月火を抹殺するために行動を開始する。

 そして最終話、暦と吸血鬼・忍野忍は最後の決着をつけるために廃墟と化した学習塾跡へと向かう。

 
 ここで奇妙なのは影縫が自分を「正義の味方」と自称していることである。
 火憐もまた影縫に対して「あの人にはとてもアタシじゃかなわない」という発言を行っている。

 現代のサブカルチャーのテクニカルタームに従っていえば影縫こそ『偽物語』の「ラスボス」であるように思われる。
 ここでわたしたちはまた奇妙な不安を覚える。

 「影縫こそ『本物』なのではないか・・・?『偽者』が跋扈するこの世界を滅ぼすために現れた「正義の使者」なのではないか。・・・」
 さよう、影縫は『偽物語』という物語全体に対する「裁き」を下しに現れた、それだから「正義の味方」を自称しているのではないのだろうか。・・・

 そして廃学習塾跡でラストバトルが始まる。
 阿良々木暦VS影縫余弦、忍野忍VS斧乃木余接の二組のカードである。

 暦は影縫に文字通りボコボコにされる。
 それほど影縫は圧倒的な強さを誇ってみせる。
 暦は血みどろになりつつこのように叫ぶのだ。


 「影縫さん、正義の味方さん、、、・・・
 偽者であることが悪だというのなら、その悪は僕が背負います。
 偽ることが悪いことなら、僕は悪い奴でいいんです。

 好感度なんていらねえよ。僕は最低の人間でいい。」

                       『つきひフェニックス 其乃肆』


 この暦のセリフは一見奇妙である。
 月火を救うためだけの戦いならば、こんなセリフは出るわけがないのである。
 暦が「最低の人間」である必要はない。

 するとこのセリフはメタフィクショナルな視点から作品に対する自己言及的な意味を含意(がんい)していると考えてよいだろう。

 つまりこのセリフにおける「偽者」とは『偽物語』という作品自体を指す。
 そしてこの場面における「阿良々木暦」の叫びはそのまま原作者の西尾維新の叫びにほかならない。

 暦(西尾維新の分身)は『偽物語』が「偽者」であることを自ら暴いて見せたのだ。なんのために?・・・それがこの論評の結論である。




 8 下位文化としてのアニメ。


 さて『偽物語』はアニメ&ライトノベルである。
 日本という国ではアニメ&ライトノベルは「サブカルチャー」と呼ばれる。
 「サブカルチャー」の定義は非常に難しい。アメリカではメインカルチャーとの対比からサブカルチャーは「少数者の文化」と訳されることが多い。

 しかし日本の場合はアメリカとは少々意味合いが違う。
 「サブカルチャー」とは「ハイカルチャー(古典文学&哲学&歴史など)」との対比から「下位文化」と訳される場合が多いのである。

 もちろん「下位」であるから人々から軽蔑の対象と見られる場合が多い。
 ハイカルチャーの専門家である大学教授はアニメなど観ないだろうし、世の中の大多数を占める「リア充」はアニメを軽蔑していることだろう。

 こういう社会情勢にあってライトノベル作家&アニメ原作者である西尾維新の決意表明が前述のセリフであるとわたしには考えられる。
 サブカルチャー全体を救いあげることは無理でも、せめて自分の作品のファンだけは救ってあげたい。
 そういう西尾維新の決意表明が「偽者であることが悪だというのなら、その悪は僕が背負います。」というセリフになって迸(ほとばし)っているのである。

 日本社会全体から俯瞰すれば「おたく(アニメ&ラノベなどの熱狂的なファン)」はまさに偽者でしかないだろう。しかし自分はそういうおたくという偽者たちを肯定するし、そしていつまでも偽者たちのための小説を書き続ける、それが原作者・西尾維新の決意証明であり、アニメ『偽物語』のテーマなのである。




9 最後の選択。


 さて暦を倒した後の影縫は大学時代の自分&忍野&貝木を回想して見せたあと、「本物と偽者」についての最後の結論を出す。


 影縫「本物のほうが価値がある。」

 忍野「本物と偽者は等価値だ。」

 貝木「偽者のほうが価値がある。なぜなら偽者には本物になろうとする努力が漲(みなぎ)っているから。」


 この3つの選択のうちどれを選ぶか。
 それはアニメ『偽物語』がわたしたち視聴者に課した最後の「宿題」である。



      【おわり】




 PS おぼえがき

 アニメ『偽物語』を見てなにかもやもやしたものが残りました。そのもやもやを文字にしてみたい。それがこの論評を書き始めた動機であります。
 もちろんこれはひとつの「解釈」でしかありません。『偽物語』のファンのみなさんはぜひ自分なりの解釈を見つけ出してください。
 最後にまたもだらだら長くなり始めたこの論評がなんとか無事着地できたのはひとえに読者のみなさんのおかげであります。ありがとうございます。
 また素晴らしいアニメが今年も続々現れて、みなさんを楽しませてくれることを!

 

 

 

 

(黒猫館&黒猫館館長)