「生きる」ということ

 

講演日
(2012年2月7日)

   

  

 

 1 ぎんさんの4人の娘。



 バブルの時代に高齢化社会の象徴としてマスコミに取り上げられて有名になった「きんさん&ぎんさん」(当時100歳)のぎんさんのほうの4人の娘が、バブルの時代から約20年後の現在、再びマスコミに取り上げられて脚光を浴びている。

 この「ぎんさんの4人の娘」は年子さん(98歳)、千多代さん(93歳)、百合子さん(91歳)、美根代さん(89歳)である。
 この「ぎんさんの4人の娘」は4人とも自分の足でしっかり歩き、自分の食事は自分で作り、身の回りのこともキチンとできて、美根代さんに至っては車の運転までできるというのだから、大変なものだ。

 この「ぎんさんの4人の娘」のニュースを聞いてなんとなく心が暖まった人も多いだろう。平成大不況にリーマンショック、東日本大震災にヨーロッパのユーロ危機と暗いニュースばかりが続き、人間の将来に暗雲が立ち込めている現代において一条の光を見るおもいである。

 わたしの自宅の向かいに住んでいる婆さんも今年の4月に100歳を迎える。
 この現在99歳の婆さんの存在のおかげで現在70歳になるわたしの母もかなり勇気付けられているようである。
 「長寿」=「長く生きている」、このことだけで人は周りの人間たちに希望と勇気を与えてくれる。



 2 一本の麦の話。



 さてこの節の逸話は小説家・五木寛之のエッセイで知った話である。

 アメリカのアイオワ州の大学である実験が行われたそうである。
 木で作った小さな箱に土を入れて、そこに一粒のライ麦の種を蒔く。そのライ麦が芽を出したところで一体どれだけの根が土の中に広がっているか計測したそうである。

 その結果、なんと信じがたいことに小さな木の箱の中に伸びていたライ麦の根の全長は約11000キロメートルに達したとのことである。

 貧弱な、あまりに貧弱なライ麦が11000キロメートルにも渡って根を張って、そこから生命の糧を吸い上げて必死に生きている。
 
 この逸話は現代社会に生きるわたしたちに大きな示唆を与える。



 3 「生きている」という奇跡。

 
 先述した「ぎんさんの4人の娘」が現代社会に生きるわたしたちに希望を与える。そのことは単に「彼女たちが生きてきた時間の長さ」にわたしたちが胸を打たれているのではない。
 「ぎんさんの4人の娘」がこれまで生きてきて味わった数々の修羅・呻吟・苦痛・悲しみ・・・それらの逆風にも絶えることなく約100年にもわたって続いた大いなる生命の営み、そのようなものを彼女たちの「長寿」の背後に視ることによって、わたしたちは感動しているのである。

 ひとりの人間が生きるということは、あのライ麦が生きるに要した11000キロメートルの根の長さに匹敵する努力を要するのである。

 空気と水はもちろんのこと、太陽の光、暖かさ、日々の食事、運動、そのような様々な物理的なエネルギーはもちろんのこと、両親や友達から受け取る「愛情」、社会や学校や新聞や本から受け取る「教養」、そのような精神的エネルギーも含めて、まさに莫大なエネルギーによってわたしたちの生命は支えられている。

 そしてそれらの莫大なエネルギーを活用して「生命を維持すること」それは宇宙の営みに匹敵する巨大な営為なのである。

 そのことを想うとわたしは感動せざるを得ない。
 「ただ生きて、存在していること」たったこれだけのことが実はどれほどの驚異であったことか!



 4 「生きていていいんだよ」。


 そのように考えると人間の生(LEBEN)はまさに奇跡である。
 「人間ひとりの生命の重さは地球よりも重い。」この言葉が突然に真実味を帯びてわたしたちに迫ってくる。

 そうだ。
 わたしたちは生きてゆくべきなのだ。
 どんなにちっぽけな存在に自分が思える時もただ地味に生きてゆく、ただそれだけのことでわたしたちは輝いている。

 ニートでもフリーターでもメンヘルでもリストカッターでも良い。
 ただ生きてゆく。それだけで貴方の人生は「価値がある」。

 人生は「なにをやったか」によって価値を計られるのではない。
 人生とはそんなちっぽけで賢しげなものではない。

 「ただこれまで生きてきた」そのことだけで人間の生命は等分の価値がある。今のわたしならこのように断言できる。

 ただ生きてゆけ。
 それだけで貴方は他人に「勇気」という最大の価値を他人に与えている。



(了)


 

 

 (黒猫館&黒猫館館長)