わたしがプリキュアを観る理由

(2011年12月8日)

 

 

 (プリキュアオールスターズ 初代〜ハートキャッチまで)

 

 

 

  1 日曜朝の秘儀。


 日曜AM8時、わたしはむくりと起き上がる。

 一階の居間に行き(わたしの部屋は二階である。)マグカップに豆乳を汲んでくる。豆乳をテレビの横に置くとテレビの電源を入れる。
 チャンネルはテレビ朝日、画面では仮面ライダーが戦っている。

 しかしわたしの本命は仮面ライダーではない。
 リクライニングチェアを適当な位置に倒して、その上に座り、豆乳をぐぐッと飲み込む。
 やがて仮面ライダーが終わる。
 わたしは豆乳のカップを床に置くとリクライニングチェアを正常な位置に戻す。さあ、これから一週間に一度のお祭りが始まるのだ。

 8時30分。
  
 「ぷりきゅあ〜・・・!!一難去ってまた一難ぶっちゃけありえない・・・」

 テレビでは『ふたりはプリキュア』という番組が始まっている。わたしは血走った眼でテレビを見つめている。わたしは微動だにしない。ひたすら一生懸命プリキュアを観続けている。・・・


 2 『プリキュア』とは何か。


 こういう生活をわたしはもう10年近くも続けている。というのは『ふたりはプリキュア』はシリーズ化されている。

 『ふたりはプリキュア』
 『ふたりはプリキュア マックスハート』
 『ふたりはプリキュア スプラッシュ・スター』
 『YES!プリキュア5』
 『YES!プリキュア5 GO!GO!』
 『フレッシュプリキュア』
 『ハートキャッチプリキュア』
 『スイートプリキュア』

 と約8年も続いている長期シリーズなのである。
 8年と言えば長い。
 『おじゃ魔女』も『セーラームーン』も『CCサクラ』も8年も続かなかった。
 プリキュアとは実に長いスパンで放映されている長期シリーズ作品なのである。

 単純にかいつまんで言ってしまえば『プリキュア』とは従来の魔法少女作品の延長線上にある作品である。。華麗なコスチューム(しかしエロくはない←ココ重要)を纏った美少女戦士たちが「愛と勇気と希望」を力として悪に立ち向かう。
 しかし従来の魔法少女と違いプリキュアの場合は「魔法」ではなく「拳」で悪に立ち向かう。ここがプリキュアの特殊性である。
 
 その他の特徴としては
 ・基本的に一話完結。
 ・最近のアニメにしては珍しく「四クール」(基本的に48話)放映される。
 ・ラストは必ず大団円で終わる。

 こういった『プリキュア』の一体何にわたしは魅了されているのであろうか。



 3 「安心」のプリキュア。

 
 わたしは日曜朝に『プリキュア』を観ると安心する。
 なぜなら『プリキュア』の美少女戦士たちは絶対に死なないし、回復不能な怪我を負ったりすることはない。
 『プリキュア』はいつも美少女戦士たちの笑顔と希望の声で作品はしめくくられる。
 
 非常に稀であるが『フレッシュプリキュア』の敵「イース」の話のように鬱展開に傾くことがあるが、そういうエピソードでさえ最終的には「イース」がプリキュアの仲間になる、というハッピーエンドでエピソードが締めくくられる。

 このように『プリキュア』とは「安心のブランド」なのである。視聴者はプリキュアを観て絶望の涙を流したり、耐え難い悲憤に侵されることもない。
 『プリキュア』を観るということは「安心」を得るということなのだ。

 こういう意味で『プリキュア』とは『サザエさん』や『水戸黄門』と等価である。視聴者は週一回の割合でテレビで『プリキュア』という「安心」を観る。そしてこれから始まる一週間にわたる実生活を戦うための「希望と力」を得る。



 4 『プリキュア』の普遍性

 
 『プリキュア』は「安心」である、しかし問題の核心はそれだけではない。
 『プリキュア』を一話でも観れば納得する問題であるが、『プリキュア』は実に古典的・普遍的なドラマツルギーで製作されている作品なのである。

 『プリキュア』の世界では「正義は正義」&「悪は悪」とキッチリと色分けられている。平成仮面ライダーの世界が「善悪の相対性」(この考え方については平成仮面ライダーのプロデューサーである白倉伸一郎が朝日新聞の文化欄でコラムにして書いたこともある。)なる考え方を打ち出して「悪」が曖昧にぼやけてしまったことと対照的である。

 『プリキュア』の世界では絶対に善と悪がぼやけることはない。
 『勧善懲悪』、これが『プリキュア』の世界を貫く一貫性なのである。

 「善は勝ち、悪は裁かれる」、これは娯楽作品では基本的かつ普遍的なドラマツルギーである。平成仮面ライダーのような作品を「前衛的作品」と見なすにしても長く続くとは思われない。なにより「善悪の相対性」などという考え方は文学の問題である。娯楽作品の中心に据える問題ではない。

 アニメや特撮に「文学」の問題を持ち込む、アニメや特撮を「文学的に」論じたい人にはそういう作品が必要なのであろう。そのことをわたしは否定しない。しかし「そういう作品ばかりになっては」アニメや特撮の世界はやせ細ってゆくに違いない。

 それはあたかも、深夜枠で放送された魔法少女作品『魔法少女まどか☆マギカ』がたった12話で終了したがごとく、「変化球」を志向する作品は斬新であるが弱い。


 6 『プリキュア』の未来。


 そういうわけで、『プリキュア』はこれからも「愛と勇気と希望」を旗印にして、悪に立ち向かってゆくだろう。

 子供はもちろん、大人もまた『プリキュア』に癒されて「生きる力」を『プリキュア』からもらってゆくに違いない。
 
 なぜなら「pretty」(可愛らしく)に「cure」(癒す)することが『プリキュア』の語源であるからだ。

 白倉伸一郎の言うように「何が善で何が悪であるのかよくわからない時代」そういう時代であるからこそ、『プリキュア』が必要であるのだ。
 
 さあ!往けプリキュアたちよ!!未来へ向かって!
 ザケンナもカワリーノさんもノイズもラビリンスも力を合わせてやっつけろ!

 え?・・・それではあまりに単純すぎるって?
 
 だからブンビーさんが必要なんだよ。ふふ。

 

 

(黒猫館&黒猫館館長)