◆黒猫館日常日記◆

(この部屋では黒猫館館長が日常の瑣事の合間に感じたほんのささいな考えを文にしてゆきます。)

 

(黒猫館の夜)

 

  

 

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権力への遺志 2006年9月14日
キュべレイ 2006年9月15日
新訳・星の王子さま 2006年9月18日
酒井潔と梅原北明 2006年9月21日
高くなる本 2006年9月24日
健康ランド 2006年9月30日
アウフヘーベンとは? 2006年10月6日
村上春樹における悪の問題 2006年10月10日
神という機械への夢 2006年10月13日
ロダン 2006年10月15日
山口智子 2006年10月22日
雨宮処凛 2006年11月5日
永劫回帰 2006年11月22日
あずまんが脳内遊び 2006年12月6日
史伝隠国 2006年12月10日
激しく鬱 2006年12月14日
COCO壱番館 2007年1月5日
本のインフレ時代 2007年1月12日
SEEDソング論序説 2007年1月15日
ニーチェについて 2007年1月20日
うぃん坊宣言 2007年2月2日
「どおくまん」を支持する 2007年3月10日
サブカルチャーについてのメモ 2007年3月22日
ガンダムヒロイン脳内遊び 2007年3月23日
ブックオフとの戦い 2007年3月25日
アニメの地域格差 2007年4月1日
さかしま 2007年4月4日
小池真理子 2007年4月10日
ゴルフ入門 2007年4月11日
NEWオレンジ萌え 2007年4月15日
NEW電王&ゲキレンジャーを堂々と観に行く。 2007年4月20日
NEW岡本太郎との再会 2007年4月27日
NEW一日150円貯金計画 2007年5月5日
NEWにがいコオヒィ 2007年5月12日
NEW原付ライダー誕生 2007年5月20日
NEW門番を置く 2007年5月25日
NEW横浜黄昏 2007年6月1日
NEW稲川淳二 2007年6月21日
NEW古書についての講演 2007年7月2日
NEW本当にヤバイもの 2007年7月17日
NEW脱毛の秋 2007年7月30日
NEWガンダムによるブラウン管への介入開始 2007年8月2日
NEWアミ・小さな宇宙人 2007年8月16日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

権力への遺志(2006年9月14日)

 わたしは十代・二十代の頃は「権力への意志」(Will Zur Mahte)を力強く肯定していたものだ。
 しかし最近は考えが変わったのか丸くなったのか

 「権力への意志」を肯定する気力がない。

 要するに疲れ気味なのだ。

 はー、それより整骨院に行きたい。
 やさーしくマッサージされて癒されたい。

 とりあえず今週末には健康ランドに行って温泉につかるか。

   

 

 

 

 

キュべレイ (2006年9月15日)

 

 

 

 我ながら「丸っこい」ものが大好きである。ゆえに卵も好きだし猫の背中も好きだ。
 こういうわたしだから、アニメファンの方に「好きなモビルスーツ」は?と聞かれると即座に「エルメス」と答える。

 「エルメス」は丸っこくてクイクイ動く。

 なんとも愛い(うい)やつはあるまいか。
 しかも「ララァ」が乗っているときている。

 ますます「エルメス」が好きになる。

 しかし最近強力な対抗馬が現れた。

 それが「キュべレイ」である。
 「キュべレイ」もまた丸っこくてカワイイ。「アッガイ」など問題にならぬ。
 しかもハマーン様が乗っている。

 萌えモビルスーツナンバー1とわたしが認定する。

 美しい女性がいたらこう声をかけたい。

 「君はキュべレイのように美しい」

 

 

   

新訳・星の王子さま  (2006年9月18日)

 

 倉橋由美子訳『星の王子さま』を読む。
 バオバブの木に寄生されて星の王子さまの惑星が滅亡する箇所に破滅型SF的なものを感じる。

 そのページの絵も怖い。

 自分の中にあるバオバブに気をつけろ。

 

  

 

 

 

 

酒井潔と梅原北明 (2006年9月21日)

 

 古書業界で梅原北明の人気が芳しくないようだ。
 それに比べて酒井潔の人気は凄い。

 編集者・実業家として能力を発揮した梅原と根っからの藝術家肌である酒井潔がコンビを組んだからこそ、戦前猟奇界の梁山泊ともいえる文藝市場社があれほどの隆盛を誇ったといえるだろう。

 梅原がいなかったら酒井は埋もれていただろう。

 愛書家諸君、今こそ『変態十二支』などの梅原北明の仕事に注目せよ!

  

 

 

 

 

 

高くなる本 (2006年9月24日)

 

 ずばり高橋留美子の『犬夜叉』(小学館)だ。
 もちろん全巻初版・美本・揃いでなくてはダメ。

 気になる人は今からチェックしておこう。
 なぜ高くなるかわかるかって?

 ・・・企業秘密だな。

 しかしもし高くならなかったとしてもわたしは責任とりません。
 投資は自己責任、これ現代の常識。

 

 

 

 

 

健康ランド (2006年9月30日)

  

 先日は健康ランドに行ってきた。
 温泉に浸かり日頃の疲れを汗とともに流す・・・

 まさに至福の瞬間だ。

 

 更衣室で室内着に着替え、「電動マッサージ機」の場所まで歩いていると妙なおばちゃんがニヤニヤしている。

 「ちょっと、やってけへん??」

 見ると「寝てやるタイプ」の電動マッサージ機がある。
 わたしはすばやく飛び乗った!
 おばちゃんが笑う。「うほうほ・・・これ厚生省で認可されてるんですよ・・・」

 「ほお」あまりの気持ちよさに適当な返事をするわたし。
 「うほ・・・これで高血圧治った人が沢山いるんですよ・・・」
 「ほお」もう夢心地だ。
 「ほほっほー、ところで値段ですけどねえ・・・」

 「ほお」

 「400万円。・・・」

 「・・・ほおおおーーーーーーーーー!!!」と絶叫!し、わたしはガバッと飛び起きると、
 「またなにかありましたら相談します!」と言い残して逃走!!

 「どんな途方もない悲劇もその発端は静かな午後の静寂に潜んでいる。」

 そんな諺を思い出した白昼の恐怖であった。

  

  

 

 

アウフヘーベンとは? (2006年10月6日)

 わたしが学生の時代はみななぜか「アウフへーベン」(止揚)という言葉を使いたがっていた気がする。
 わたしもレポートで良く意味もわからないのに「アウフヘーベン」という言葉を使っていた。今思い出すと気恥ずかしい。

 とにかく「アウフへーベン」すればすべての問題が解決する、
 そのような魔法の言葉のように思っていたのかもしれない。
 しかしいまだに「アウフへーベン」とは具体的にどういうことなのか、よくわからないので困ってしまうのである。

 

  

  

 

 

村上春樹における悪の問題 (2006年10月10日)

 

 村上春樹を読む時に一番気になるのが「悪」についての問題である。

 「血は流されなくてはならない。わたしはナイフを研ぎ、犬の喉をどこかで切らなくてはいけない。」『スプートニクの恋人』(講談社・206p)のようにヒトが必然的に犯してしまう「悪」の問題に最近の村上春樹は肉迫しているようだ。

 これは最新作『海辺のカフカ』(新潮社)でも顕著である。
 「しかしそれは仕方のないことなんだ。そこには痛みがなくてはならない。それが決まりなんだ。」(上巻・248p)

 世界に顕在する「悪」とどうつきあってゆくのか、それが最近の村上春樹のテーマであるように思われる。

 初期三部作と呼ばれる三作の二作目『1972年のピンボール』(講談社)にも早くもこの問題の萌芽は現れている。

 「世の中にはそんな風な理由のない悪意が山とあるんだよ。あたしにも理解できない、あんたにも理解できない、でもそれは確かに存在しているんだ。取り囲まれているって言ったほうがいいかもしれないね。」(92p)

 村上春樹はその初期から「悪」の問題について考えてきた作家であるようだ。今後彼がどのように独自の「悪」の問題についての解答を出すのか期待したい。

 

  

 

神という機械への夢 (2006年10月13日)

 というのはサンリオSF文庫のカバーアート集で今では、結構なプレミアがついている。帯つきだと1万円以上ださないと買えない本である。 わたしも結構この本をゲットするのに苦労した。

 文庫本のカバーアート集というと昨今では富士見ロマン文庫のカード集が話題になった。

 

 なんでも噂によると、今度はフランス書院文庫のカバー絵が注目され始めているらしい。
 確かにあの絵はもう20年もしたら良い雰囲気が出るかもしれない。

 「ジャケ買い」(気に入ったカバーの本を内容に関わらず買い込むこと)という言葉もあるくらいで、つくづく本の装釘とは本の人気に影響を与えているのだ、と感心する次第である。

 とりあえずわたしとしては書肆ユリイカの本をすべて自分で装釘したという伝説的出版人・伊達得夫に敬意を表しておこう。 

 

 

 

ロダン (2005年10月15日)

 

 ブックオフで「ロダン展」という分厚い図録を300円で買う。
 単に安かったから買ったのではない。わたしなりにロダンに惹かれるものがあったから買ったのである。

 ではどこにどういうふうに惹かれているんだ!?と突っ込まれると困るが、とにかく「カレーの市民」のやせ衰えた男たちの悲壮さに惹かれるのだ。
 「地獄の門」の恐ろしい迫力にも惹かれる。
 ああいうおっかない門だけは絶対にくぐりたくない。絶対に。

 ところであまりにも有名な「考える人」にはあまり惹かれるものがない。
 わたしがあまり「考えない」人間だからであろうか?

 とにかく早くパリに行って「カレーの市民」の本物を観たいものだ。

  

 

 

 

山口智子  (2006年10月22日)

 

 日本テレビでドキュメンタリー番組「女帝エカテリーナ」を観る。
 女優・山口智子がやたらと乗りまくってエカテリーナについて語りまくる番組。

 山口智子は完全にエカテリーナとシンクロしてしまっているらしく目がイっている。

 途中で山口智子がなぜか歌謡曲「恋の奴隷」を唄いだす珍場面も登場。

 エカテリーナより山口のちょっとハズした面白さが印象に残った番組であった。

 

 

 

雨宮処凛 (2006年11月5日)

 

 新聞に雨宮処凛が記事を書いていた。
 ちゃんと写真まで載っており、肩書きは「作家」である。

 記事の内容は「いじめ問題」。 雨宮処凛は自己の体験を元に現在いじめられている児童・生徒に向かって「とにかく逃げろ、逃げ場がなかったら自室に鍵をかけてでも籠城しろ。」とアジる。

 なかなか過激であるが納得させられる面もある。
 従来の「とにかく立ち向かえ」などという根性論から脱皮した新しい考え方と言えるだろう。
 
 雨宮処凛の記事は最後にこう締めくくられている。

 「くだらないやつらのために死ななくて本当に良かった。」

 これは全く同感である。いじめをする者らなどハッキリいえばカスである。カスのために死ぬなんて確かに馬鹿馬鹿しい。

 さて全国でいじめ自殺が頻出する現代、政府に早急な対応を求めたいものだ。「愛国心教育」などという抽象的な言葉を振り回して粋がっている間に自殺する児童・生徒が相次いでいるのだから。

  

 

 

 

永劫回帰 (2006年11月22日)

 

 「これが人生だったのか!ならばもう一度!!」

 という「永劫回帰思想」に昔はかぶれていたものだ。
 しかし最近思う。

 人生は一度っきりで善い。
 一度きりだからこそ尊いのだ・・・

 涙。
 星。
 夜の闇よ。
 夜は深い。
 昼が考えるより深い。

 さらば青春。
 さらば永劫回帰よ。

 をを!!   Auf  Wieder   Sehen!

 

 

 

  

あずまんが脳内遊び (2006年12月6日)

 

 あずまんがキャラでデートするとしたら・・・

 

 日曜日=ちよすけ(遊園地)
 月曜日=神楽(プール)
 火曜日=よみ(図書館)
 水曜日=かおりん(公園)
 木曜日=ゆかり先生(名画座)
 金曜日=榊さん(喫茶店)
 土曜日=にゃも(お洒落なバー)

 予備=大阪・トモ

 ※深い意味はありません。
 単なる脳内一人遊びデス。

 

  

 

史伝隠国 (2006年12月10日)

 

 車谷長吉の限定本『史伝隠国』(しでんこもりく)の在庫がそろそろ切れるらしい。神保町の東京堂書店では残20部であるそうだ。

 車谷長吉といえば湯川書房から出た『恋文絵』(限定100部)が現在ではたった一年たらずで10万円まで跳ね上がったから驚きだ。
 『恋文絵』は定価で買っておくべきだったと後悔している。
 その他にも『抜髪』『車谷長吉句集』(どちらも限定100部)も結構な値段がついている。

 『史伝隠国』も発行部数が900部とやや多いのが気になるがいずれ高くなるだろう。装釘は湯川成一氏、これだけで古書マニアが群がるのは間違いない。
 内容も聖徳太子の伝記というのも興味深い。

 気になるひとは今すぐ東京堂に電話をかけて予約しよう。

 

 

 

激しく鬱  (2006年12月14日)

 

 なんというかヤル気がでない。
 「っあーーーぁ・・・」という気分である。

 こういう時はネットやるより本を読んだほうが良い。
 車谷長吉の暗い私小説でも読むか。

 外は冬の雨。
 びじゅびじょと終わりなく降る雨。

 気を利かせて一首詠んでみたいが
 あいにくなにも出てこない。

 そこで一首。

 「からつぽの頭の中身でサイコロがきしんだ音で揺れている」。

 字足らず・・・

 

  

 

 

 

COCO壱番館 (2007年1月5日)

 

 本日はCOCO壱番館にカレーを食べに行く。
 ビーフカツカレー、ライス400グラム・辛さ二倍を注文する。
 辛さ二倍でも結構辛い。ライス400グラムは食べごたえ十分。
 味のほうも単に辛いだけではなく「コク」のある辛さだ。

 カレーを平らげてから、インド産の飲みものである「ラッシー」を注文する。ヨーグルトのような味だ。

 十分満足な食事をして全部で1070円。
 市内のホテルならカレーだけで1200円だから、これは安い部類に入る。

 わが町には今までラーメン屋は数多くあったがカレー屋はほとんどなかったので、COCO壱番館のわが町への進出は喜ばしいことと言える。

 黒猫館は今後、COCO壱番館を全面的に応援します。

 

 

 

 

本のインフレ時代 (2007年1月15日)

 

 ブックオフに行くとひたすら本の山、山、山である。

 わたし独自の鑑識眼でこれらの本を鑑定すると、「やはり100円以上にはならない」本が95%である。
 本というものが貴重品であった時代はもう終わったようだ、と不良在庫を大幅に抱えてしまった古書店主が呟く時代が現代なのだ。

 アマゾンではなんと「1円」で本を販売して送料の差額で儲けを出している古書店が急増しているという。
 こんなことは昔では考えられなかったことだ。

 昭和50年代の初版本ブーム・限定本ブームに乗って本を買いあさった老人が処分する段になって呟く。
 1万冊も蔵書があるのにこれっぽっちにしかならないとは、と。

 21世紀は古本サバイバルの時代になるだろう。
 ダメな本は一円の価値さえなくなり、逆に本当にめずらしく善い本の値段は雲の上になってゆく。本の世界も「格差社会」になってきているのだ。

 ヤフオクで先日細江栄公の写真集『薔薇刑』が35万円まで跳ね上がっていたが、これが好例だ。(2007年当時。筆者注)

 とりあえず現代の我々にできることは「いかに本を買うか」ではなく「いかにつまらない本を買わないか」これを信条としなくてはならないのではないだろうか。

 

 

 

SEEDソング論序説 (2007年1月17日) 

 

 カラオケではいつも「種ソン」を歌っている。

 「種ソン」とは「ガンダムSEEDの主題歌」のことである。
 「種ソン」はどうみても、アニメの主題歌っぽくない。

 今どきのJポップやユーロビートに近いノリだ。「モーメント」「ビリーブ」などにその傾向が強い。

 わたしがガンダムソングで一番好きな曲がガンダムZZの「アニメじゃない」である。
 そういうわたしであるから、種ソンの「普通の歌らしさ」は少々気にかかる。

 水木一郎が提唱する「日本が誇るアニメソング」の王道から種ソンは逸脱しているのではないか・・・?

 そんなことを考えながらもカラオケに行くと必ず種ソンを歌うわたしであった。

 

 

  

ニーチェについて (2007年1月20日)

 

 イッチェ=該当なし
 ニーチェ=哲学者
 サンチェ=野球選手
 ヨンチェ=該当なし
 ゴーチェ=フランス文学者

 イッチェとヨンチェがいないのは不公平だ!!と怒ってみる。

 

 

  

うぃん坊宣言 (2007年2月7日)

 

 どうもわたしはネットの世界で「種房」(ガンダムSEEDしかしらない、もしくは興味がないガンダムファンのこと)と思われているらしい。
 しかしそれは違う!!と声を大にして言いたい。

 わたしは実はガンダムWも大好きなのである。リリーナ様やトレーズ閣下、そして主役の美少年五人が乱舞する。
 素晴らしい世界ではないか。
 ヒイロ・ユイのワイルドさはもちろん、ディオやカトルも好きである。
 さらにレディ・アンのクールビューティさも忘れてはならない。

 わたしは今後は「うぃん坊」とも名乗ろうと思っている。
 しかし最近気になりだしたのが「Gガン」なので、今度は「ジー坊」とも名乗らればなるまい。

 

  

  

 

「どおくまん」を支持する (2007年2月10日)

 

 

  

 人気があるのになぜか話題にならない漫画家がいるものだ。

 わたしがいつも強烈にプッシュする「どおくまん」もそのひとりである。
 熱い男の魂を骨太に描きながら、時折大阪特有の濃い目のギャグを織り交ぜてゆくこの独特の作風は稀有なものである。

 どうしてこんなに熱く面白い漫画家があまり話題にならないのか理解に苦しむ。

 特に80年代にどおくまんが発表した戦前・戦中・戦後の混乱期を、熱く激しく生き抜いてゆく男の姿を描いた『暴力大将』と、いじめらっれっ子の高校生がやがて精神的・肉体的に成長し、関西の総番長まで登りつめてゆく『熱笑!!花沢高校』は夢中で読んだものだ。

 わたしはこの二作をどおくまんの最高傑作と呼びたい。

 その後どおくまんはあまり話題になるような作品を描いていないがいつの日か復活してほしいものだ。

 諸君もどおくまんの「熱い」男の世界に触れて硬派な根性を叩き込まれてみてはいかがかな?

 「いざ!男の花道へ!!」(『熱笑!!花沢高校』最終回より引用。)

 

 

 

サブカルチャーについてのメモ (2007年2月22日)

 

 相変わらずアニメ・特撮三昧の生活である。
 しかしある時、ふと思う。

 「これでいいのか?」と。

 別に天才バカボンのオヤジではない。
 なにかそういう生活に漠然とした不安感を感じるのだ。

 例えばわたしの父は若い頃に非常に「映画好き」な人間であった。
 しかし父は還暦を過ぎてから映画を観なくなった。いや「観られなくなった」というほうが正確であろう。
 それは恐らく映画というものの「時代感覚」についてゆけなくなったからだろうと思う。

 映画というものはつねに「現代を写す鏡」であるからだ。
 映画がいつの時代でも若者に人気があるのは、その「同時代性」に寄るものが大きいであろう。

 またうちの父は非常に金銭感覚に長けている代わりに若い頃から本を読まない人であった。
 「文学」と名のつくものはうちの父とは全く無関係であった。
 それゆえにか、父は現在全く本が読めない。
 老人に人気のある時代小説でさえ読めない。

 

 映画についてゆけず、本も読めない父の現在の姿を見ていると「漠然とした不安感」がさらに加速度的に増してゆく。

 わたしは50過ぎても、60過ぎても、サブカルチャーに夢中でいられるのか。では本を読んだら良いのか。

 しかし現在の文壇の主流であるらしい芥川賞・直木賞もまた「若者向け」である気がする。(綿谷りさ・三浦しをん・森絵都など)
 こういう作家の小説をわたしは60歳過ぎても読めるのであろうか。

 ある評論家が言った。「日本は子供の国。大人の文化が存在していない。だからいるのは子供と「大きな子供」だ。」。

 この評論家の言葉はわたしは極論であると思う。わたしは極論が嫌いだ。極論とは挑発のカタチを被った甘えである。
 だからわたしは極論が嫌いだ。しかし何かが心に引っかかる言葉であることも確かである。

 名作アニメ映画「うる星やつら2」は辛辣なほどのアニメによるアニメ批判であったと思う。亀に乗って浦島太郎になった諸星あたるは、うる星やつらに夢中なアニメファンの戯画であったのであろう。
 押井守のこのスタンスは一部で「裏うる星」と呼ばれる「御先祖様万々歳」でピークを迎える。
 「御先祖〜」の主人公・犬丸は詐欺師・麿子に乗せられて最期は雪原で凍死する。
 この麿子とはすなわちうる星やつらの主人公「ラム」のネガだ。

 

 まさかわたし自身がホームレスになって路上で凍死するとは思わない。しかしアニメ・特撮などのサブ・カルチャーにいつかは見放される時が来る。その時わたしはなにを精神の糧として生きていったら良いのか。

 わたし自身の老後はもしかしたら、なにも寄る辺のないただ寒々としたものではないのか。

 このような漠然とした不安に苛まれることは良いことであろう。もし「その時」が来たらショックが少なくて済む。

 時は春。
 新作アニメ「地球へ・・・(てらへ)」に対する期待に胸を膨らませるわたしの心のの片隅で一抹の不安に震えるもうひとりのわたしがいる。

 

 

 

  

ガンダムヒロイン脳内遊び

 

 もしガンダムヒロインとデートするとしたら・・・

 日曜日=レイン・ミカムラ(怪獣ショーに連れていってもらう)
 月曜日=ルナマリア・ホーク(スキー場でウインタースポーツを楽しむ)
 火曜日=リリーナ様(動物園→イルカショー見物)
 水曜日=セシリー・フェアチャイルド(図書館で読書会)
 木曜日=メイリン・ホーク(おうちでお勉強教えてあげる)
 金曜日=ハマーン様(コミケで一緒にコスプレ)
 土曜日=アイナ・サハリン(お洒落なバーでマッタリ)

 予備=ラクス&カガリ

 

 

 

ブックオフとの戦い

 

 ブックオフに本を20冊程度もってゆく。

 若造な店員がなんだかんだと文句をつけて結局20冊で610円。

 はっきり言って 安 い ぞ 。

 こんな風に客から本を買い叩いていれば客は本を持ってこなくなる。
 客が本を持ってこなければ、店内は不良在庫の山になる。
 そうすればますます売れなくなる。
 売れないなら、買い叩かざるを得なくなる。

 悪循環だな。
 ブックオフよ。

 経営が苦しいのはわかる。
 人件費と家賃やバカにならないのもわかる。

 しかしもっとしっかり商売しろ。
 そうしないと、ヤ バ イ ぞ。

 

  

 

 

 

 

アニメの地方格差

  

 先日、TBSで、深夜に「機動戦士ガンダムSEED DESTINYスペシャルエディション 自由の代償」という特別番組がオン・エアされたらしい。
 もちろん放映されたのはTBSと関西の一局だけで地方はなし。
 全く持って遺憾である。たかがアニメの問題と侮るなかれ。
 小さな問題の影にはつねに大きな問題が隠されている場合が多いのである。

 要するに「田舎者はアニメなど観なくてもよい」と舐められているのではなかろうか。
 これは立派な文化差別である。断固として弾劾されるべき問題だ。

 地方では「深夜アニメ」がほとんど放映されない、という事実は地方のアニメファンの間では有名な話であるがこれもあまり問題にされな
い。

 「格差社会」は経済格差のみではなく地域格差もどんどん大きくしているらしい。

 地方のアニメファンよ。
 今こそ怒れ!!

 

  

  

 

さかしま

  

 

 

 ユイスマン・澁澤龍彦訳『さかしま』桃源社・昭和37年度初版、読了。
 知り合いに勧められて読み出した本書であるが、筋らしき筋がほとんどないこの小説の感想を述べることは極めて難しい。

 もともとわたしは外国文学が苦手なのでこの本を読むのにも相当苦労したが読了した現在、不思議に面白かったという感触がある。それはなにか。

 「デカダンスの聖書」であるとか「澁澤龍彦激賞」であるとか「象徴主義」であるとかそういう手垢のついたクリシェ(決まり文句)の色眼鏡を外して本書を解明するとしたらなにが残るのか。それが問題だ。

 まず文中におびただしく現れる固有名詞、それは現代日本に生きる人間にはほとんど無縁なものが多いのであるが、この固有名詞に対する主人公・デ・ゼッサントの過剰なフェチシズム(物神崇拝)に注目したい。デ・ゼッサントはこれらの固有名詞が支配する想像上の世界と現実に彼が住む貧しいフランス社会を逆転させようとしたのではないか。

 それが本作品の表題「さかしま=さかさま」の意味であるように思われる。しかしデ・ゼッサントは本作品の最後で彼の楽園である邸宅から追い払われる。

 ここに作者のユイスマンのシニカルな視線を見る。結局、どんな美辞麗句を並べて砂上の楼閣を築いたところで、それは所詮、砂時計を逆転させるように完全に上下を逆にすることはできない。それが「さかさま=さかしま」という題名の由来なのであろう。要するに「逆立ちして歩くには大変な苦労が必要だ」ということである。

 おたく、ひきこもりの諸君にはぜひご一読していただきたい書物であると思われる。本書登場のおびただしい固有名詞をすべて忘却しても、なにか心に引っかかるものが残る作品である。推薦。

 

 

 

 

 

小池真理子

 某知り合いから勧められた作家・「小池真理子」の『欲望』『恋』続けて読了。
 ちなみに『恋』は直木賞受賞作である。

 正直わたしは色恋沙汰に全く疎い人間なので『恋』という題名だけでやや引いてしまったのであるが、苦手なものからいつも逃げてばかりいては精神的成長はない。というわけで小池真理子連続読破となったわけである。

 小池真理子の文体はやや粘着質、しかし読みにくい文体ではない。ストーリーテイリングも極めてたくみであり、特に『恋』は一種の異色ミステリーとしては出色の出来であろう。

 ただ独特の濡れた味わいがあり、これが独特のセンチメンタリズムと重なって、どろどろとした男女の三角・四角関係を描き出している。この辺で好き・嫌いがわかれるだろう。

 もちろんわたしはどろどろしたものが大好きなのでOKである。
 
 これから夏にかけて「恋」をしてみようと思っている人、愛欲のどろどろした世界にどっぷりとはまり込んでみたい人には小池真理子の小説はお勧めである。

 ただあまりに濃厚すぎるので、読了後の「腹もたれ」にご注意あれ。

 

 

 

 

 

ゴルフ入門

 

 「おまえもそろそろゴルフを始めなくてはいかん。」
 という父の鶴の一声でゴルフを始めることにした。なんでも田舎ではゴルフをやっていないと「一人前」とは扱われないらしいのである。

 まず父のゴルフグッズコレクションから

 ・7番アイアン
 ・5番アイアン
 ・5番ウッド
 ・パター
 ・グローブ

 の五つの道具を借りてゴルフ練習場にGO!だ。

 

 ゴルフ練習場では妙齢のオジサンたちがゴルフの練習に黙々と励んでいる。
 そこで「いよお!」と恰幅の良い紳士が現れる。この紳士はどうも父の友人であり、

 シングル(いわゆるゴルフの上手い人のこと)であるらしい。

 1000円だして一箱のゴルフボールを借りるとさっそくゴルフの練習開始!だ。
 シングルの紳士の厳しいサシズを受けてゴルフに励むわたし!

 

 「もっと背中伸ばして!」
 「左手と右手の交差する上に自分の顔があるようにする!」
 「右手は左手の上に乗せて!」
 「スイングは身体全体で!」

 と厳しい檄の数々にうろたえながらも鍛え抜かれるわたし。

 わたしは今までゴルフを年寄りのスポーツだと思っていたのであるがなかなかどうしてハードなスポーツである。
 20発も打つと息が切れてきた。

 「うむ・・・いい線いっとるな。。。」と最後にさりげなく優しい言葉を吐いて去ってゆくシングルの姿を見てぐったりとイスに倒れこんだ。

 しかしゴルフ練習場とはなかなかさわやかで良い雰囲気である。青々と繁るグリーン。広大な敷地。そして空一面の七月の青空にカツーン、カツーン、とゴルフの玉を打つ音が響く。うむ。気に入った。

 父が言う。

 「どうだ?本格的にやってみるか。」
 「おうよ。父。」

 ということで。
 今後はゴルフという新しい趣味がひとつ増えたわたしであった。

 今後わたしのゴルフライフがどう展開してゆくのか今から楽しみだ。  

 

 

 

 

オレンジ萌え

 

 

 

 ちまたでは「オレンジ」が大流行であるらしい。
 わたしも最初は「オレンジ」とはミカンの一種か?
 それがなぜ今大流行なのだ??と不思議がっていたが、最近人気アニメ番組「コードギアス 反逆のルルーシュ」を観るに及んでその疑問は氷解した。

 なんでも「オレンジ」とは「コードギアス」に登場する「ジェレミア伯」のあだ名であり、(なぜ彼がオレンジと呼ばれるようになったかは説明が難しいので各自「コードギアス」を観るように)、そこから派生して「オレンジ畑を耕す」=(解雇する。)、「全力で見逃せ!!」などの流行語が発生しているらしい。

 このような「へタレキャラ」に人気が集中するということは過去に全く例がないわけではない(「仮面ライダーアギト」の北条刑事など)ではないが、やはりめずらしい現象である。

 世間が「負け組」に共感を抱き始めたのか、あるいは「弱者への優しい眼差し」であるのかは知らぬが、やはり現在の世相がこの「オレンジ現象」の現れている、と視るべきであろう。

 雨宮処凛の最新刊『生きさせろ!』とこの若者の間で大流行の「オレンジ現象」に共通点を見出してしまうのは考えすぎであろうか。

 最後に諸君に一言。

 「全力でオレンジを支援せよ!!」

 

 

 

 

電王&ゲキレンジャーを堂々と見に行く

 

 本日は映画館に行く。

 題目は「獣拳戦隊ゲキレンジャー&仮面ライダー電王」。
 館内を走り回るチビッコたちに囲まれてドシンと真ん中の席に堂々とひとりで座ってたっぷりと2時間堪能する。

 映画の内容はネタバレになるので書かないがさすが映画版、豪華である。特にゲキレンジャーは香港ロケしたそうである。凄い。

 家族連れ、カップルが目立つ中でヲタクっぽい小太りな青年がひとりでポツンと座っていたのが印象に残る。

 「ひとりで特撮ものを観に行くのは恥ずかしい」。とか言うヒトがたまにいる。
 わたしに言わせればそんな生半可な根性なら特撮ファンなど止めてしまえ。
 特撮歴30年以上のこのわたしが言うのだから間違いない。

 観たければポケモンでもケロロ軍曹でも仮面ライダーでも堂々と観ればよいのだ。
 他人の視線など蹴飛ばしてしまえば良い。

 と少々過激なことを書いたが、やはり「夏」に「夏休み映画」を観るのは良い。風情がある。わたしはこのまま70歳になっても80歳になっても「夏休み映画」をひとりで観に行くことであろう。

 

 

 

岡本太郎との再会

 

 本日の夕方、ゲオの古本コーナーで岡本太郎の『自分の中に毒を持て』(初版)を拾う。状態はまあまあで100円。新書版。わたしがこの本を初めて読んだのはハードカバーの後版であった。
 この本でわたしは太郎と出会った。いや出会ったでは生ぬるい。太郎に生っちょろいわたしの根性を叩き直してもらったのだ。

 読書とは活字を眼で追うことではない。読む前の自分が読んだ後に変わる、これが読書である。わたしは『自分の中に毒を持て』を初めて読んだ時、魂が震えるのを感じたものだ。
 「人生は積み減らし」「芸術は綺麗であってはならない」「弱い人間ほど闘う力を持っている」などなど、アタマをハンマーでガーン!と一発やられたような言葉の数々。

 わたしは確かに太郎と出会って変わった。

 その後、家の書庫から『岡本太郎著作集全9巻』を引っ張り出し、『今日の芸術』や『黒い太陽』、『アバンギャルド芸術』などをむさぼり読みわたしはますます太郎世界の深みにはまってゆき、先年などは壁画「明日の神話」を観るために東京まで出向いたものだ。
 今年は大阪まで行って「太陽の塔」に登ってきたいと思っているぐらいだ。

 しかしそのようなわたしでも太郎原体験は『自分の中に毒を持て』だ。この本はわたしにとって永遠のバイブルである。諸君の中でもこの本を読んだことがない方がいたらぜひ読んでほしいと思う。しかし誰にでも合う考えが書かれているわけではない。中には太郎の思想に反発する方もいるだろう。しかしそれが読書というものだ。

 たった一冊の新書版の本で人生が変わってゆく。なんという不思議で面白い縁というものであろうか。太郎と出会わなかったらわたしは一生「芸術」とは無縁であったろう。

 最後に『自分の中に毒を持て』で最も印象的な言葉をひとつ抜き出す。

 「芸術とはまさに血みどろなのだ。最も人間的な表情を、激しく、深く、豊かに打ち出す。その激しさが美しいのである。高貴なのだ。美は人間の生き方の最も緊張した瞬間に、戦慄的に立ち現れる。」(191p)

 ハードカバー・新書版の二種の『自分の中の毒を持て』はこれからもわたしのとって、あまりにも大切な一冊である。

 

 

 

 

一日150円貯金計画

 「チャリン!」
 と響きの良い音をたてて10円玉が貯金箱に吸い込まれてゆく。今日もだいぶ貯まってきた。
 これはわたしの「一日150円貯金計画」の風景である。

 一日に150円貯金していれば一週間で1050円、一ヶ月で4200円、一年間で50400円、凄い金額である。銀行の利子は一年間に0.2%程度だから一年間でも2000円程度である。この50400円という金額の大きさが改めて実感できるだろう。

 また「一日150円貯金計画」を実践するようにしてから、小銭を大切にするようになった。例えば外出時はペットボトルにミネラルウォーターをつめて缶ジュースを買わないようにしている。これだけで一日300円程度は軽く浮いてしまう。またレンタル店ではDVDではなくVHSを借りる。DVDは一枚240円、VHSは一本100円(一週間レンタル・ゲオの場合)だから140円浮く計算になる。これだけで一日のノルマである「一日150円貯金計画」のノルマは達成されてしまう。

 「小銭のありがたさ」。
 このことが如実にわかってきたのも「一日150円貯金計画」を実践し始めてからである。

 たった一円。
 たった10円。

 しかしその一円や10円を稼ぐことの大変さが「身に沁みて」わかってきた。
 小銭のありがたさを実感すれば、小銭をバカにしなくなる。そうすれば大きな金額を扱う時はさらに慎重になるだろう。

 「チャリン!」

 この貯金箱で10円玉が弾ける音はまぎれもなくわたしの資産が増えてゆくことである。素晴らしいではないか。
 さてこの様々な善い効果のある「一日150円貯金計画」諸君も実践してみてはいかがかな。
 
 「お金」というものを見る眼が違ってくる。
 これは確かである。

 

 

 

 

にがいコーヒー

 

 本日は夕方に喫茶店に行く。
 「マンデリン」というコーヒーを注文する。

 ・・・ゴクリ・・・

 「にがい。」

 この味が人生の味なのだ。
 あくまで苦く、そして苦いゆえに芳醇であるこのコォヒィの味・・・
 まさに「人生の味」だ。

 やはりコーヒーは大人の飲み物なのだ。子供にはこの苦さの味を理解できないであろう。

 コーヒーの苦さを味わえるようになれば「大人」である。それと同時に「人生の苦味」というものもわかってくる。
 苦いからこそ、人生、甘いだけの人生など味気なし。

 そんなことを思いながら夕暮れの街を眺めていたわたしであった。

 

 

 

原付ライダー誕生

 

 

 (↑ホンダ・スクーター・ディオ↑)

 

 長年「仮面ライダー」に憧れていたわたしにとってはこれ以上の喜びはない。というのはようやく念願の「バイク」が手に入ったからだ。もちろん中古車ではない。バリバリの新車である。昨年7月に教習所に通いだし、11月に卒業、免許所得したのであるから、なんと発起してから一年ぶりに念願が成就したことになる。

 といっても実はバイクはバイクでも「原付(50CC)」である。当初は250CCのマニュアル車が欲しかったわたしであるが、家族に「危険だ!!」と猛反対され、「原付で、一年間無事故・無違反だったら250CCのマニュアル車を買っても良い」という条件で原付にしたのである。

 しかし「原付」というと正直軽くみていたわたしであるが、意外とボディは大きい。下手をすると転げてしまう。倒れたらとてもではないが自力で起こすのは困難である。原付とはいえ「バカにできない」のだ。

 それにしても「バイク・車」といったメカが男性に人気がある理由がなんとなく実際に乗ってみてわかった気がする。なにかメカに対するフェティシュな感覚を刺激されるのだ。「オトコノコ感覚」とでも言おうか。メカに対するフェチシズムが「バイク・車」だけではない「ガンダム」といったロボットモノアニメの人気にも結びついている気がする。ここらは非常に不思議で興味深い。

 いずれにせよ自分が死んだり、他人をはねたりしたら大変なことなので、「安全運転」にだけは重々注意して運転することにする。

 「仮面ライダー」も「月光仮面」も安全運転を心がけているに違いない。そうだ。まさしくそのとおりだ。「安全」に注意してわたしは街の「平和」をバイクに乗りながら守る所存である

 

 

 

 

門番を置く

 

 先日、わたしが某友人Xと秋葉原で会った時のことである。

 とある喫茶店でわたしは某友人Xを待っていた。しかしXはいつまで経っても登場しない。そこでわたしはかばんから読みかけの邱 永漢著『金儲け論語31講』(三笠書房)を読み出した。とするとそこでXが登場した。

 Xはわたしの読んでいる『金儲け論語31講』を見るとニヤリ!と不敵に笑い、「おまえさー、こんな大衆向けの本読んでるのか?」といきなり論争を吹っかけてきた。

 ちなみにXは「厳格な保守主義者」を自称する人間であり、付き合いだしてから約20年、いまだに話がわたしとは噛みあわない。Xは「従軍慰安婦の存在」を否定し、「三島由紀夫の割腹」を肯定する人間なので、いままで何度、口論からケンカに発展しかけたかわからない。

 その時も「大衆向け」という言葉にわたしは虫唾が走ったのであるが、なんとか押さえた。しかしXはなおも続ける。
 「株だの、ファンドなどで儲けようというのはダメダメ。大切なのは一生懸命ひたすら働くことだ。」

 経済の専門家でもないXがしたり顔でこういうことを言うものだから、わたしは口先まで反論が出かけた。「この野郎・・・わかったふうなこと言いやがって・・・」
 しかしその日は東京滞在の最終日、下手にケンカにでもなったらまずい。わたしはにが笑いしながら言った。「ふ・・ふ、、まあそういう意見もあるがな。」

 とその日はそれでうまく収まったのである。わたしが折れたおかげで。しかし秋田に帰ってきてからの後味の悪さはどうだ。まるでXに頭の中身を土足で踏み荒らされたようだ。

 1996年から始まった「金融ビックバン」、そして「規制緩和」。この流れは2000年代の第二次「金融ビックバン」へと続き、もはや、高度成長期にやっていたことを繰り返していてはとてもサヴァイヴ(生き残り)できない。
 株、ファンド、国債、社債、などありとあらゆる方法で金銭を獲得し、儲けた金銭をガッチリと税務署から守ってゆかなくてはとても一般市民に生き延びる道はない。

 こういう考えにあえて「NO」を言ってみるのが、X流の「逆説」であり、「保守主義者」たるものの面目であったのだろう。

 ゆえにわたしはあの喫茶店のあの場所ではっきり「それは違う」というべきであったのだ。たとえそのことでXとの仲が紛糾してXと仲たがいすることになろうとはっきりと言わなくてはならなかったのだ。

 これが「自分の考えを保持する」ということであり、「オトナ」である第一歩である。「自分の考え」をしっかり持っていればXのような「自称保守主義者」と仲たがいしてもあとあと「もっと話の会う」新しい友人が現れてくるだろう。

 わたしは臆病風を吹かせてXとの「ぬるま湯的関係」を温存することを選んだのだ。全く情けないと思う。

 そこで私から諸君への提案であるが、自分の頭の入り口に「門番」(具体的なイメージとしては「東大寺金剛力士像」や「地獄の番犬・ケルベロス」など。)を置くことを提案したい。この門番は「それは違う!」と感じた「他人の意見」にガブリと残酷に噛み付くのだ。

 ものごとを「なあなあ」にして飲み込んでは決していけない。その「なあなあ」が様々な精神病理の発生源である「ルサンティマン(内向的復讐感情)」の種となる。「ルサンティマン」をテーマにして論文を書いて大学に提出したこのわたしが言うのだから間違いない。

 「苦笑いしながら」なあなあ、「相手を怒らせたくないから」なあなあ、そんなものは殴り飛ばしてやれ。大切なことは「違う!」意見がきたらピーンと反射して相手に反論する鋭敏さだ。

 「自分の心に門番を置く」、これはわたしの課題でもあり、読者の諸君への「より居心地の良い生活設計」への提案でもある。

 

 

 

 

横浜黄昏

 

 横浜に行ってきた。
 理由などない。わたしはなんとなくスランプに陥ると横浜に行きたくなるのだ。

 無論、横浜行きの目的は「観光」である。「観光」とは、「国の光を観る」、つまり、その国の人々が「イキイキと生活している様子」、これが「光」の原義であるらしいのだが、その「光」を観ることで「癒し効果」や「退屈な日常からの脱却」を計るのが、「観光」の本質であるらしい。

 しかし山下公園では退廃的なポーズで寝そべっているホームレスの群れを見てうんざりしたり、また、いつの間にか閉鎖されていた「横浜タワー」を見てショックを受けたり、どうも「観光」した気がしない。

 好景気などと言われているが、実際はこの国は衰退に向かっているのでは??と思わせられてしまう今回の横浜旅行であった。

 しかし以前より活気がなくなったとはいえ「中華街」の中華料理は美味い。「激辛チャーハン」と「巨大ギョーザ」を食しながら、明日の体重のことを心配しながらも楽しいひと時であった。

 できたらランドマークタワーにも行きたかったのであるが、それはまた別の機会に。

 つくづく横浜はどんなに衰退しようとやはりわたしの「魂の故郷」であるのだ、と痛感した今回の横浜行きであった。

 

 

 

 

稲川淳二

 

 最近はビデオで「稲川淳二」の怪談ビデオを観ている。「稲川淳二」というとお笑いタレントの感が強いが昨今は精力的に怪談を語って「怪談タレント」になってしまったらしい。
 特にわたしが気に入った話は「北海道の花嫁」「肩叩きゲーム」「電話ボックスの彼女」「サーファーの死」などである。ただしあの語るたびに死人が出るという「生き人形」の話はあまりに洒落にならないので、とてもお気に入りということはできない。

 稲川淳二の怪談は昨今のホラー映画やはたまた「ホントにあった怖い話」系の話とも違っている。落語の怪談話に近いといおうか。「怖いだけではなく、味がある」のだ。これは稲川の語り手としての力量と小耳に挟んだ「怖い話」を巧に脚色する文学的才能の賜物であろう。

 稲川は自身のホームページで言っている。「怪談の根底にあるものは人間愛。」わたしは必ずしも怪談に対してこういう考えを持つものではないが、稲川の怪談の基本コンセプトとして十分に納得できる。確かに稲川の怪談を聞くと不思議と心が落ち着くのだ。

 松谷みよ子らが推奨している「民話の怖い話」はあまりに教育色が強いのでわたしは好きではない。しかしわたしはもう昨今のスプラッター・ムーヴィーのような血飛沫が飛び散るだけの映画を愛好するような年齢でもない。

 そんな時、わたしの心に稲川の怪談は「すっぽりと」入ってくるのである。

 ほら・・・こんな話をしているうちに貴方の後ろになにかいる・・・

 怖い。

 

 

 

 

古書についての講演

 

 某クラブから「古書についての講演」を依頼されている。

 わたしとしては「現代詩集について」という題目はどうか、と打診した所、そのテーマでは「固すぎる」と却下。

 それで一から考え直したのであるが、結局、題目は「古本人生泣き笑い」で決まりそうである。古書の世界の奇妙さ、暗さ、おかしさ、コレクターの密かな愉しみを「ユーモラスに」語ってくれればOKだそうである。

 「古書の世界をユーモラスに」とは簡単そうだが難しい。そうそう笑いがころがっている世界ではないのだ。古書の世界とは。むしろ暗く悲惨な話のほうが多い。バブル期に食費がなくて餓死したコレクターであるとか、蔵書を売りしぶったため病気の治療が遅れて、結局手遅れになったコレクターであるとかそういう話ならゴロゴロ転がっている。

 しかし講演するからには、あまり深刻にならず「エンターティメント」に徹して、なるべく「ユーモラス」に古書を語りたいものだ。

 「講演」とは「講義」ではない。あくまで娯楽である。古書の世界の「明るい面」をチラリと見せてやるだけで良いのだ。そしてまんまとコレクターへの道を進みだす者がいたら、しめたものだ。その者はやがて古書の世界の「暗黒面」を垣間見て愕然とするだろう。

 どんな世界にも「楽しい面」と「暗黒面」はある。これがわたしの講演「古本人生泣き笑い」という題目の真意である。

 

 

本当にヤバイもの

 

 

 

 『放送禁止映像大全』という題名の本をブックオフで本日拾う。100円也。天野ミチヒロ著。三才ブックス発行。「大全」とは言っても全253ページ。

 なんでもこの本は、現在では視聴不可能な作品ばかりを精選して紹介してあるそうである。
 それにしても「ギニーピック」シリーズにしても「オールナイトロング」にしろ、発売時に即日ビデオレンタルしていたわたしから観れば「なにをいまさら・・・」な紹介作品が多い。「追悼のざわめき」は中野武蔵野ホールで観たし、「恐怖奇形人間」は大井武蔵野館で観た。この本で紹介されている映画でわたしの観ていない作品といえば「ノストラダムスの大予言」(完全版)ぐらいか。

 とはいえ「吸血姫美夕」の第二話がなぜ欠番になったのかの理由を知ることができたし、「ポケモン」の38話が「光線兵器による攻撃」である、という説が存在していることを知ったのも収穫であった。

 まあ、それなりの資料的な価値のある本であるのだろう。この本に収録された映像作品はどれも抜群に面白いことは、実際に観ているわたしが保証済みである。ぜひ現代の若者諸君にもなんとか努力して観ていただきたいものだ。

 それにしても、やはりなんとなく「ヌルイ」感覚は拭えない。
 
 「もっとホントにヤバイもの見せてくれよッ!!」と不良少年のように暴れたくなる衝動に駆られてしまった一冊であった。

 

 

 

脱毛の秋

 

 近年復刻されて再び脚光を浴びた伝説的エロティシズム研究雑誌『血と薔薇』を出版した天声出版の名編集者・矢牧一宏へ捧げられた追悼文集『脱毛の秋』(社会評論社)を再び読み返したくなってきた。

 と言っても別に『脱毛の秋』は脱毛のメカニズムについて科学的に評論した本ではない。矢牧の人柄を惜しんだ作家・著名人の追悼文を集めた本である。

 それにしても『脱毛の秋』とはなんという的を射た題名であろうか。「秋」という季節の物悲しさ・憂鬱さを見事、四文字で表現している。
 
 科学的な根拠は不明であるが秋に人間の頭髪の脱毛が増えるのは事実である。男性の場合はさらに憂鬱な事項が加わる。秋になると「髭」の伸びるのが早くなるというのだ。頭髪の脱毛は増え、夕暮れ時にはうっすらと髭が濃くなる、秋とはなんというメランコリーな季節であろうか。

 スポーツの秋、読書の秋、などと言われるが、それは憂鬱を紛らわせるためにスポーツや読書をやれという意味であるのかもしれない。

 昨日の深夜、学生時代の友人から電話がかかってきた。頭髪が薄くなって困っているというのだ。聞いているだけでこちらまで憂鬱になるような電話である。人間四十歳も過ぎれば頭髪も薄くなる、とその友人を励ましながら、こちらも憂鬱になった。青春時代を共に過ごした友人の髪が薄くなる、それはこれから人生の冬へと向かうわたしの年代の人間の心境を暗示しているようである。古来から「青春」には「白秋」が対置された。わたしの頭髪にも白いものが多くなった。人生の秋を迎えて、これからどう生きたら良いのか。

 さてこのように暗くなっていても始まらない。今週末にでもわたしは箪笥から革のジャンパーを取り出して繁華街に繰り出すことにしよう。サムエル・ウルマンは言った。「青春とは心の持ちようである。」それならばせめて週末だけでも、わたしはあの夜も昼もミラーボールがぐるぐると回っていた80年代の気分を反芻しようと思う。青春が遥か遠くに過ぎ去ってもなお、忘れたくない心情がある。それを再生させるのだ。

 先日、某古書店主に二十代の青年と間違われた。わたしとてまだまだ捨てたものではない。

 

 

 

ガンダムによるブラウン管への介入開始。

 

 本日は待望の「ガンダムOO」開始の日。
 スクーターを飛ばして、ようやく自宅につけてテレビをつける。

 PM6時。

 まずOP。
 「ラルク・アン・シェル」だ。あまり好みではないが、それほど外してもいない。

 CMもなしに本編に入る。
 いきなり「軌道エレベーター」登場。おなじみの「コロニー」は登場しない。華やかな宴会が開かれている。と、その時、テロリストらしきMSが登場するも主人公機に破壊される。

 ここでテレビが映り「犯行声明」?
 怖そうなオジサン出現。

 「ガンダムによる全戦争への武力介入を開始する。」とこれだけ。あとは謎。

 総じて楽しく観られた。高河ゆんのキャラデザもオーソドックスで好感が持てる。あとはストーリーが破綻せずキチンと1年間続くことを祈るのみ。

 

 

 

アミ・小さな宇宙人

 

 昨日、現在では11ヵ国語に訳されて、ニューエイジの必読書共言われているらしい本『アミ 小さな宇宙人』(徳間文庫)を読了。
 感想は正直「素晴らしい内容である。しかし本書の位置づけが難しい。」
 納得できる点は大いにある。「愛は宇宙の基本法」「科学と霊性は同一」「UFOは宇宙人の救済計画」「神は愛そのもの」。

 キリスト教の嫌いなわたしとしては、このスピノザの汎神論的世界観はじつにしっくりとくる。読了後の感触も良い。

 ただ唯一納得できない点はこの『アミ 小さな宇宙人』が「実話」とされている点である。地球人の少年がUFOに乗って他の惑星を観て来たなどという話は根っからの現実主義者であるわたしには到底理解できない。この点で一片の「胡散臭さ」が本書から滲み出てくる。

 この「一片の胡散臭さ」が本書の「良い雰囲気」を阻害していると言ったら言い過ぎであろうか。純粋なファンタジー小説としたならわたしは素直に楽しめたであろうと思う。

 しかしそういう点を含めても、本書はまさに「現代版 星の王子さま」ともいうべき傑作小説であることは間違いない。『星の王子さま』同様本書も「子供向けを装った大人のためのファンタジー」である。

 未読の方にはぜひ読んでいただきたい。良い影響を受けたら人生観が変わるほどの衝迫力と人間に対する優しさに満ち溢れた傑作小説である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(黒猫館&黒猫館館長)