心配について

 (講演日=2011年7月15日

 

 

 

   1 

 わたしは心配性である。
 あれも心配だしこれも心配だ。いつもそわそわしている。



 「もしかして癌にかかっているのではないか?」
 「じぶんのスクーターが厨房の自転車と激突したらどうしよう?」
 「警察に監視されているのではないか?」
 「ミクシィでマイミクA氏の動向が気になる。もしかして嫌われているのでは?」
 「昨日送った書籍小包は無事相手に到着しただろうか?」
 「ブックオフで万引きと間違われたらどうしよう?」
 「東京で電車に乗ったら痴漢冤罪事件に巻き込まれるのでは?」
 「放射能は本当に基準値を超えていないのであろうか?」
 「将来が漠然と不安である。ホームレスに堕ちなければ良いのだが。。」
 「最近、枕に髪の毛が沢山落ちている。もしかして脱毛しているのでは?ちゃんとカロヤン使ってるのに!!」
 「2ちゃんねらーがじぶんのHPを炎上させるのでは?」
 「蔵書が湿気のせいで紙魚(しみ)が出始めているのでは?」
 「もしかしたら女装が親にバレているのでは?」



 ・・・書き出したらキリがないのでこの辺で止めておく。
 こういうことをわたしは毎日心配している。そして一旦心配が始まると文字通り「いてもたってもいられなくなり」頭を抱えてしまうのだ。
 そうなったらもうなにも手につかない。仕事も勉強も趣味も遊びもできなくなってしまうのだ。
 これでは人生が楽しいはずはない。

 わたしは幼少期から厭世癖の持ち主であったが、その原因はあまりに過敏な心配性にあるのかも知れない。


 2

 さらにこの心配を「避ける」ために「おまじない」が登場する。

 わたしは寝る前に神棚に拝みに行かなければ心配だし、トイレから出たらスリッパを左に寄せなければ心配であるし、デジタル時計で「42」という数字を見ないように心がけねばならないし、道路でマンホールの蓋の筋を数えるのを避けるため、なるべくマンホールを見ないようにしなければいけない。

 そういうような理性的に考えれば「なんとバカバカしい」と思われるような「儀式」をわたしは日夜行っている。本当はこんなことはナンセンスな行為であるとわかっているのだ。それでも「儀式」をしなければ気がすまない。
 
 もしかして「儀式」を怠ったらなにか悪いことが起こるのでは・・・?

 もしかしたら、わたしは「儀式」という未知なる力で「未来に起こるであろう心配が的中すること」を祓っている、と信じこんでいるのではないだろうか。そう考えるとこれだけわたしがしつこく「儀式」を行う理由もわかってくる。

 しかしいくら「儀式」を行ったところで新たな心配は次から次へと登場してくる。全く労力と頭脳の無駄使いである。こういうことをしていたのでは人生が楽しくないばかりか、精神的に病み始めてしまう。
 


 3

 そこでこういう手を打ってみる。
 わたしは運命論者ではないが、ここは「なるようになる」と鷹揚に構えてみるのも良いのではなかろうか。

 決して「なるようにしかならない」ではない。物事は「自然と良い方向に向かっている」と思ってみるのだ。そうでなくては原始時代から人間が進歩していないではないか。

 「物事はすべて巨視的な視点で見れば良い方向に進んでいる。」

 このような素朴な楽観主義でしか心配は打破できないのではないか。無理に心配を抑えようとしても、ゴムのような反動でまた心配が襲いかかってくる。

 松下電器の創始者・松下幸之助はその著書『人生心得帖』で「すべては良くなってゆく」と説いた。
 「すべては良くなってゆく。悪いほうに物事が転ぶはずはない。」こういう強烈な「自信」を持つことが、雨あられのように襲ってくる「心配」を撥ね返す唯一の方法のように思われる。

 しかし「自信」を持つことは難しい。
 「自信」を持つためには成功体験の積み重ねが必要不可欠である。しかし誰もがいつでも成功ばかりしているわけではない。
 情け容赦のない「失敗」、これによって「自信」は削がれてゆく。そしてそういう自信喪失体験によってこころに産み出される「負い目」そこに「心配」が悪霊のようにつけこんでくるのだ。


 4

 それでも「自信」を持たなくては荒波のような人生を泳いでいくことはできないであろう。
 そこでわたしからきわめて簡単に「自信」を持つ方法を提案したい。
 その方法とは「わたしはまだ生きている。」という認識を持つことだ。

 この大宇宙の片隅の辺境の惑星で生を受けたという奇跡、母親の胎内から無事に出産されたという生命力の強さ、さらに時には事故や事件や天災や病気に遭遇した時もあっただろう、しかしそれにも屈しないで「まだ生きている」という自分の強運さを再確認してみるのだ。

 そうすればこころの奥底からじわじわと「自信」が湧き出てくるではないか。

 小説家・浄土真宗研究家である五木寛之はその著作『生きるヒント』(新潮文庫)の中で「本当によく頑張って生きてきたね。」と読者を抱擁した。 そのような自分に対する「赦し」を行うことが「自信」に繋がる唯一の道なのではないだろうか。

 「自分をいたわる、そして最終的に自分を赦す。」そのような自分自身との「和解」それが「大人になる」ということであるように思われる。


 5

 心配は生きてゆく限り、絶えることはないだろう。
 しかし「自信」を持っていれば、すくなくても心配に押しつぶされて精神を病んでしまうことはない。

 最近のわたしはそのように考えて、「心配」という魔物との持久戦を戦ってゆくつもりである。



(了)

 

 

(黒猫館&黒猫館館長)