わたしの読書論

(講演日 2011年5月31日)

 

 

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 自動ドアが「ぐわーん」と奇妙な音を立てて開く。わたしは今日もブックオフ秋田新国道店に足を踏み入れる。
 すると相変わらず本の山、山、山である。単行本、文庫本、新書版、漫画、雑誌、画集、ムック、ハウツー、さらにはエロ本。
 わたしは本の山を前にして途方に暮れる。

 「じぶんが死ぬまでにいったいどれだけの本を読めるのであろうか。その量は実に微々たるものではないのだろうか。・・・」



 
 さて「わたしの読書論」などという大そうな題名で文を書き始めてしまったからには最初に結論を提示しておこう。

 「嫌なら本など読まなくても良いのだ。」

 なにやら身も蓋もない結論のようであるが、わたしはようやく最近この 結論にたどり着いた。本などというものは「読みたい」から読むものであって、なにも顔をしかめて嫌々読むものではない。

 それでも世の多くの人はなにやら不安そうである。
 「最近、本読んでないな〜・・・なにか読まなくては・・・」と夏目漱石の『こころ』などをいきなり読み出して数ページで挫折した人をわたしは現実に知っている。

 こういう人はなにか勘違いしている。こういう人にとっては「本は読むべきもの」であって「読みたいもの」ではないのだ。
 おおよそ「べき」で始まる「お勉強」が長く続くはずはない。『こころ』を途中で挫折してしまったのは当然のことだ。




 さて大人になって本を読まなくなってしまった人でも幼少期は本を良く読んでいた人は多いと思う。

 わたしなどはポプラ社の『少年探偵団』シリーズを夢中になって全部読み通した後、大人向けの角川文庫の江戸川乱歩ものは全部読んでしまった。あのおどろおどろしい宮田雅之の切り絵がカバー絵であった時代である。
 さらにわたしは横溝正史の『八つ墓村』だとか『獄門島』だのを読み散らかした後、『新青年傑作選』で大下宇陀児だの橘外男だののグロテスク極まりない小説群をむさぼり読んで嬉々としていた。
 親から見たらなんと嫌な小学生であっただろうか。

 しかし問題は中学校に入学してからである。
 あの全く持って忌まわしい「受験勉強」が始まった。わたしは嫌々ながら教科書を開いて「お勉強」したものだ。
 わたしの「お勉強」は高校に入ってさらに加速していく。
 有名私大に入るための死に物狂いの「お勉強」が続いた。当然、探偵小説など読んでいるヒマはない。

 その「お勉強」の甲斐があってか、わたしはなんとか東京でも有名私大と言われている大学に入ることができた。
 しかし大学に入ってからのある日、わたしは愕然とした。
 「本が読めない」のだ。いや、「読みたいと思わなくなってしまった」のだ。いったいわたしの頭脳になにが起こったのか。




 さて先述のとおり本などというものは「読みたい」から読むものである。「読むべき」で読むものではない。しかし受験勉強は違う。「勉強すべき」で勉強するものだ。実はここに巧妙な陥穽がある。多くの人はこの陥穽に気づかない。

 多くの人は受験勉強のカラクリに騙されてしまったのだ。国語のお勉強と同じく「本は読むべきもの」と錯覚してしまったのである。その結果、多くの「本の読めない大人」が量産されていく。なんという悲惨な事態であるか!嗚呼!!


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 ここでわたしから提案があるとすれば、一旦「本についての先入観」をすべて捨ててみてはいかがであろうか、ということである。
 別に夏目漱石の『こころ』を読む必要はないのだ。赤川次郎であろうが渡辺淳一であろうが面白ければ読んでみたまえ。
 しかし奇妙なことに日本という国には赤川次郎や渡辺淳一の本をバカにする人が大勢いる。本を読みたいと思うなら、絶対にそういう連中の声に耳を貸してはいけない。
 いやらしい権威主義こそ読書の最大の敵である、とわたしはここで強調しておこう。

 さらに活字に慣れてきたらベストセラーの本を読んでみるのも良いと思う。ベストセラーとは多くの人に読まれている本だ。読みにくい本ならベストセラーになりようがない。





 さてわたしは大学に入ってから本に再入門した。まず最初に手にとったのが岩波文庫である。わたしはイマニエル・カントの『純粋理性批判』を読み出して10ページでギブアップした。いったい何が書いてあるのかさえもわからない。次にショーペンハウエルの『自殺について』を読んだ。これはすらすら読めた。ニーチェの『善悪の彼岸』も面白く読んだ。調子にのってわたしはキルケゴールの『死に至る病』を読み出した。
 これがまたなにが言いたいのか良くわからない本であった。
 無理やり読み進めたためにだんだん頭が痛くなってきた。しかしそれでもわたしは読み続ける!『死に至る病』を読了したころにはわたしの頭は朦朧としていた。無理やり本を読み続けたため、一時的な精神異常に陥ったのだ。わたしはもうあんな読書は絶対にしたくない。




 さてそれではどうして『純粋理性批判』と『死に至る病』はダメで『自殺について』と『善悪の彼岸』は良かったのか。
 それは端的にいえば「相性」の問題だと思う。
 わたしの場合、ショーペンハウエルとニーチェに相性が良かったのだ。カントとキルケゴールはわたしにはむいていない。

 さてこのことは重要である。
 わたしの知り合いの読書家がこう言っていた。
 「村上春樹の文章って奇妙だな。良くわからない。」わたしは言い返した。「大江健三郎の文章のほうがよっぽど奇妙だと思いますけど。」読書家が続ける。「いや、大江はわかるんだ。僕には村上春樹はよくわからない。」

 この読書家にとって大江健三郎は相性が良く、村上春樹は相性のよくない小説家なのであろう。

 つまり本を読む時は「相性」というものが非常に大切なのである。相性の良い小説家の本なら自然と「読みたい」と思うだろう。相性の良くない小説家ならばそうはいくまい。

 この点で「本を選ぶ眼」というものが重要であることがわかってくる。いかに「じぶんに合った本を選ぶか。」
 あのブックオフなり新刊書店なりの本の山から自分に合った一冊を見つけ出す、これがまさに現代の読書人を待ち受ける最大の障壁であるのかも知れない。




 さて諸君が幸運にも「自分に合った作家」を見つけ出すことができたなら、ひたすらその作家の本ばかり読んでいても良いのだ。読書は受験勉強ではない。偏読大いに結構!とにかくその作家の真髄まで極めつくすのだ。そうすれば「一芸は百芸に通ず」ぼ諺どおり、諸君に合った作家がどんどん増えていくだろう。




 さて長くなった。
 そろそろ総括する。

 真に面白い本を読むことは恐るべき快楽である。セックスの快楽など読書の快楽に比べたら微々たるものだと思う。
 わたしは諸君にそういう快楽をできるだけ多く味わってほしいと思う。そのための合言葉は「読むべき」で本を読むな!「読みたい」本を読め!この一語につきる。

 それでは諸君、良い読書の旅を!!


(了)

 

(黒猫館&黒猫館館長)