東京残酷物語

(2011年1月20日)

 

 

 

 

 【本日の講演は食事中の方は読まないでください。】


 人間の記憶にはしばしば決して思い出したくない記憶が混じっているものだ。しかもそういう記憶に限って決して忘れることはできない。
 できたら忘れてしまいたいのだが、あまりに強烈な記憶なので忘れることができないのだ。

 今夜はそういう種類の話をしようか。・・・

 
    
                   ※                     ※


 T
 
 1990年代後半、当時20代の若者であったわたしは東京・麹町にある某財団法人でコンピューターの入力の仕事をしていた。無論、フルタイム(AM9時〜PM6時)である。
 この仕事というのが実に厄介なものであった。基本的には簡単な単純作業であるのだが、その単純作業が延々と続くのだ。「終わりが見えない」単純作業の繰り返しでわたしの神経は疲弊していた。
 もちろんだんだん神経病質になってくる。さらに長時間椅子に座ってばかりいたので腰を悪くした。わたしは現在でも喫茶店の椅子や食堂で、椅子の上に正座したり横座りする時があるが、これはこの時代の名残である。足がダルくて普通に椅子に座っていられないのだ。

 さらにわたしを悩ませたのがアパートの下のオヤジの件である。このオヤジはちょっと頭がおかしいらしく、夜中の3時ごろ長い棒のようなもので自分の部屋の天井、つまりわたしの部屋の床を突付くのだ。

 「ぼ〜ん・・・ぼ〜ん・・・」

 静まり返ったアパートに床を突付く音が虚ろに響く。その気持ち悪さといったらあったものではない。

 その上、夜明けの4時頃悪戯電話が鳴り響いたり、郵便物の不着事故があったりした。わたしの精神は除除に追い詰められた小動物のように異常な状態に入っていった。



 U

 その日は平日の朝7時30分であった。わたしは何度も何度もガスコンロの確認をしていた(これをやらないと不安で出勤できないのだ。)。
 ようやくガスコンロの確認が終わったらようやく出勤である。わたしはアパートから出ると足早に一番近い駅である小田急線登戸駅に向かった。

 小田急線登戸駅に到着する。
 駅前広場はまるでゴミためであった。新聞紙やら雑誌やら食いかけの弁当やらがあちこちに散乱している。
 さらに塀のそばに寄ると必ずと言っていいほど、前夜に酔っ払いが残していったらしい嘔吐物がぶちまけてあるのであった。

 この荒涼した世界の終末のような風景に鉛色の空が重なる。なぜかわたしの記憶では登戸駅から出勤する時の天気はどんより雲っているのであった。

 定期券を駅員に見せて駅構内に入る。
 この時、わたしは下腹部に異常を感じた。なんだか下腹部がごろごろ鳴っている。「過敏性大腸症候群」・・・医者なら簡単にそういう病名をつけるであろう神経性の下痢がその日もわたしを襲ったのだ。
 しかし登戸駅の最高で最低に汚い便所で用を足している時間はない。
 出勤前の確認作業でいつもわたしの出勤はギリギリであった。わたしは「なんとかなる!!・・・」と自分に言い聞かせつつ新宿行き急行電車に飛び乗った。



 V

 「飛び乗った」・・・といえば聞こえはいい。しかし実際は「押し込まれた」と言ったほうがよいだろう。東京近郊の私鉄はラッシュ時の乗車率は約150%以上。駅員がすし詰め状態の電車にさらに客を押し込める。もはや手も動かないほど圧縮された状態で電車が出発した。
 サラリーマンもOLも学生もみんな不愉快そうな顔で顔面をしかめてピクリとも動かない。いや動けないのだ。電車は登戸から成城学園前まで来た。この時、何人か降りる客がいた。
 わたしもこの時、成城学園前で降りていれば!・・・

 小田急線登り列車は成城学園前を出発すると下北沢まで止まらない。この時間約15分。この15分が魔の時間帯なのだ。どんなに気分が悪くなっても電車を降りるわけにはいかない。下北沢までじっと我慢するしかないのだ。

 祖師谷大蔵、千歳船橋、・・・だんだんわたしの下腹部の膨張感が大きくなってくる。しかし我慢できるだろう・・・わたしはタカをくくっていた。 今までだって何度も神経性の下痢には悩まされてきたんだ。しかし大抵はある限界を超えると便意を感じなくなるものだ。・・・そうかたくなにわたしは信じ込んでいた。
 しかしその日は違っていた。便意はますます激しくなる。
 場所はまだ千歳船橋駅近郊である。下北沢まであと4駅も残っている。(経堂・豪徳寺・梅が丘・世田谷代田)わたしの額を冷たい油汗がしたたり落ちた。

 「まずい・・・これは非常に・・・」

 やがて電車は経堂を通過する。この時点でわたしはぴょんぴょん飛び跳ねたいほど激しい便意を感じていた。
 それでも人生は無情だ!まだ3駅も残っているではないか。やがてスー・・・と便意が収まったかと思うと、次は前よりさらに激しい便意が来る。この地獄のような繰り返し!!

 わたしは叫びだしたい願望を抑えながら思わず電車の床にしゃがみこんだ。しかし都会の非情さよ!誰一人として声をかけるものはいない。
 もう自分自身との戦いであった。
 場所は豪徳寺近郊、その時、リミットが来た。・・・



                 ※                   ※

 W


 わたしは読者の諸君を不快にさせたくない。

 だから詳細には書かない。しかしわたしは電車内で大便を漏らしたのだ。電車内に異臭が立ち込める。それでも口を利く者は誰ひとりとしていない。
 わたしは頭を抱えながら「極限の恥の意識」とでも言うものと戦っていた。できたらこのまま地球の果てへ逃げ出したい。しかし電車はまだ梅が丘近郊をのろのろ走っているのであった。逃げ出すことさえできないではないか!

 やがてようやく電車が下北沢に止まった。動き出す乗客たち。
 わたしはベトベトのスラックスを引きずりながら電車を降りた。乗客たちが冷たい視線で「あっちいけ!」と無言の意思表示をしているのがわかる。
 下北沢構内をふらふら歩きながら、わたしの頭は空っぽであった。
 もうなにも考えられない。

 改札口から外へ出るとわたしはコンビニで新しいパンツを買った。
 そしてコンビニの隣の雑居ビルの便所で大便の付着したパンツをゴミ箱に押し込むと新しいパンツを穿いた。
 しかしそれでもスラックスのベトベトの便液が取れるわけではない。 
 わたしは不快に感じながらも、もう一度大便でベトベトになったスラックスを穿いた。

 わたしはコンビニの隣のビルから出た。
 もう出勤時間は遅すぎる。これから某財団法人に向かっても遅刻するだけだ。上司のイヤミが聞こえるようだ。それ以上にこの便臭を漂わせたスラックスで出勤するわけにはいかないだろう。
 わたしは下北沢のゲームセンターに入ってぼんやりと「ストリートファイターU」をプレイし始めた。

 ゲームのキャラ「春麗」をぼんやり動かしながらわたしは思った。
 「秋田へ帰ろうかな・・・」
 ほとんど誰もないない午前中のゲームセンターでわたしはぼんやりと自分の「青春」という人生のある季節の終わりを感じていた。



              ※                   ※

 X
 

 それから約一年後、わたしは精神的にぼろぼろの状態で東京から実家のある秋田へ搬送された。


 東京、それはある意味ユートピアである。
 欲しいものはなんでもそろっている。遊びたいなら遊ぶ場所は無限にある。しかしそのユートピアはサラリーマンたちの血と汗と涙に支えられているのだ。
 あたかも豪奢な繁栄を誇った古代ローマ帝国が残忍な奴隷制度に支えられていたかように。

 これから地方から東京に出て一旗上げようと思っている若い諸君にこれだけは言いたい。「東京で生き延びるのは生易しいことではないぞ。」
 もちろん「そんなことは十分承知!」というイキのよい若者がいるならば多いに結構。存分に東京に暴れに行ってほしいものだ。

 さて長くなった。今夜のわたしの話もここらで切り上げることにしようか。
 鉛色に曇った東京の空、荒廃した登戸駅前広場、そして毎日繰り返される咽かえるような満員電車、わたしは自分の「青春」の原風景をそのように見る。

 しかしどんなにみじめであってもそれがわたしの「青春」であったのだ。
 後悔はしていない。
 
 さらば、「東京」。
 そしてさらば、「わたしの青春」よ!!



(了)
 

 

 

(黒猫館&黒猫館館長)