切手収集という宇宙 

(講演日・2010年2月23日) 

 

 

 

 独自のセンスで瀟洒な小部数限定本の発行を手がけてきた「月兎社」主宰の加藤郁美氏が執筆した『切手帖とピンセット』(国書刊行会)という本が静かな話題を呼んでいるという。
 東京神保町の東京堂書店でも定価が高い本にも関わらず、じわじわ着実に売れ続けているらしい。
 一体どうして「切手収集」という趣味を扱ったこの本に人々が魅了されているのであろうか。

 切手収集という趣味は日本では昭和30〜50年代がピークであった。現在40歳以上の方なら必ず一度は切手に興味をもたれた時期があると思う。あの時代はまさに子供の間では切手収集は「趣味の王様」であった。

 しかし世界的に目を転じてみると、切手収集が「子供の趣味」と思われている国は日本ぐらいであろう。ヨーロッパでは一枚数億円の切手が常時取引されているというし、英国王室の切手コレクションは有名である。ルーズベルトやチャーチルが切手収集家という趣味人としての側面を持っていたことも見逃せない事実である。
 要するにヨーロッパでは切手収集は子供向けの児戯ではないのだ。日本で言えばゴルフやマージャンのような「大人の趣味」として確立されている。



 さて切手収集といえば誰もが必ず思い出す切手が「見返り美人」「月に雁」であろう。特に「月に雁」は漫画・『ドラえもん』に登場したことも一因であるらしく、一般での知名度は異常に高い。
 「見返り美人」「月に雁」は「切手趣味週間」というシリーズの「記念切手」である。「記念切手」はなんらかの国民的行事に合わせて発行される期間・部数限定の切手である。「国立・国定公園切手」「国宝切手」「相撲切手」「近代建築切手」など記念切手の美しさに魅了された方も多いと思う。ごく最近では上の図版のようなガンダム・エヴァンゲリオンなど「アニメヒーロー・ヒロイン切手」も登場した。切手収集家の間では記念切手は絶大な人気を誇る。

 しかし切手収集の世界において真に玄人の世界の切手とも言えるものが「普通切手」だ。「普通切手」は文字どおり通常の郵便に使用される切手で発行部数に限りがない。そのためエラーや色違い、細部の異動などが出現しやすく、恐ろしいほど奥深い世界になっている。日本最初期の切手とされる「竜文切手」「小判切手」ももちろん普通切手である。

 さて切手収集という趣味はただ単に集めるだけが能ではない。「ストックブック」という擬似アルバムから自分で白紙にレイアウトを考えて創作する「切手アルバム」の完成を持って切手収集は完結する。もちろん「切手アルバム」は高い技術と鋭いセンスが必要な極めて高度な創作物であることは言うまでもない。

 他に切手収集にはエンタイアというジャンルもある。これは使用済みの封筒・葉書などを扱うジャンルである。日本では旧満州や植民地で使用されたエンタイアの人気が高い。外国での一例をあげれば沈没前夜のタイタニック号から各国に出されたエンタイアが恐ろしいほどの高値を呼んでいるという。

 

 さてわたしは巷では古書蒐集家と思われているらしいが、実は切手収集家でもあることをカミングアウトしておこう。わたしの専門は中国切手である。中国では文化大革命や日中戦争など動乱の時代が長かったので切手に非常にバリエーションが多い、そのため中国切手はお宝の宝庫と言って良いだろう。

  
 さて『切手帖とピンセット』という本の流行と共に再び人気が再燃しそうな「切手収集」、わたしはこの趣味を子供の趣味としてではなく、江戸川乱歩の傑作小説「押絵と旅する男」のような隠微でデカダンな大人の趣味として復活することを切に祈るものである。

 たった数センチ四方の額面の中に繰り広げられる妖異なパノラマ、それをピンセットという医療器具にも似た怪しい道具で愛撫する・・・これが官能的な大人の趣味でなくてなんであろうか。

 わたしはこの項の読者諸氏にも切手収集を広く薦めるものである。

 

 (黒猫館&黒猫館館長)