人生の伴侶

 (講演日・2010年2月19日)

 

 

 先日、近所のブックオフでカズオ・イシグロ『わたしたちが孤児だったころ』(早川書房)を入手。単行本ハードカバーで100円。
 
 カズオ・イシグロの小説はわたしにとってどれをとっても外れがない。近未来社会におけるクローン人間の悲劇を描いた『わたしを離さないで』、ひとりの老執事の生涯と英国貴族社会の没落を絡めて描いた『日の名残り』(ブッカー賞受賞作)、太平洋戦争末期の老画家の運命を戦争の暗い影に投影させて描いた『浮世の画家』、など、どの作品も感慨深い思い出に満ちている。

 その理由はカズオ・イシグロの小説には一貫して重い喪失感がトーンを為しているからだろう。10代の時分から鬱の気質があったわたしにはこの重さとそれに籠められた悲哀が第二の皮膚のようにしっくりとくる。
 カズオ・イシグロはまさしくわたしの人生の伴侶となった。

 実を言えばわたしは読書が苦手である。本を読む速度も遅い。それに合わせて学生時代から自分にしっくり合う作家というものを見つけることができなかったので読書はわたしにとって苦痛な作業であった。

 それがこの歳になってからカズオ・イシグロという一人の作家に没頭することになろうとは夢にも思わなかった。長い長い彷徨の果てに自分の居場所を見出したというべきか、わたしは今ではカズオ・イシグロの小説を読んでいなくては落ち着かない。

 わたしは幸運な人間であるのだろう。世の中には生涯ひとりの作家も愛することもなく年老いてゆく人々が沢山いるに違いない。
 だから、たったひとり。
 たったひとりで良いのだ。
 人生の伴侶というべき作家と出会うのは。



 さて。
 速読より熟読。
 濫読より精読。

 それがわたしの読書のモットーである。二度、三度読むごとに新たな意味が見えてくる。それが見えてこないような作家は所詮二流の作家である。

 読者の諸兄諸氏よ。
 もう自分にとってのこの作家というべきものと出会っている方はより深い精読を薦める。
 まだ自分にとってのこの作家と出会っていない方は一刻も早く見つけ出そう。
 そしてとにかくその作家の「すべて」を読むのだ。貪るのだ。知り尽くすのだ。そうすれば、「一芸は百芸に通ず」の諺どおり、読者の諸兄にとっての第二、第三のすばらしい作家が現れてくるにちがいない。

 優れた作家を人生の伴侶として持つことは、人生という過酷な戦場を駆け抜けてゆく戦友を持つことだ。ひとりの戦友をもったなら人生は遥かに違う。

 さてこれから『わたしたちが孤児だったころ』を読みながら寝るとするか。わたしにとって人生の伴侶とも言うべきカズオ・イシグロの本を読んでいる時間はなにものにも代えがたい至福の時間なのである。

 

 

 

(黒猫館&黒猫館館長)