湯川書房・湯川成一への追悼

(講演日・2009年12月29日)

 

 

 「もしもし・・・湯川書房さんですか?」

 2007年。薫風香る春四月、わたしは秋田市八橋公園のベンチから大阪の限定本出版書肆「湯川書房」に携帯電話を掛けた。
 それはその年の夏に100部限定出版される予定の車谷長吉句集『蜘蛛の巣』の予約を一刻も早く入れるためであった。なにしろたった百部しか発行されない書物である。一刻の遅れが命取りになるやもしれぬ。

 「はい、こちら湯川ですが、、、」

 温厚だが重厚な厳しさを持った声が電話口から聞こえた。この人こそわたしが始めて口を利くことのできた伝説の人・湯川成一氏であった。

 「あの、『蜘蛛の巣』注文したいんですが、、、」

 「わかりました。住所と名前おっしゃってください。」大阪の古書業界では「前金」が原則である。しかしこの湯川成一氏の「湯川書房」は違っていた。後払いで十分結構だという。電話番号も訊かれなかった。
 わたしはこの時、直感的に湯川成一という人物の大きさと温かさを感じた。
 挨拶をして電話を切る。しかしこの会話が湯川成一氏との最初で最後の邂逅となることは、その時のわたしに知る余地は無かった。



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 「湯川書房」そしてその主・湯川成一。
 戦後日本を代表する限定本出版書肆とその主と言えば良いのであろうか。

 もちろん「作品社」の田中貞夫や「書肆ユリイカ」の伊達得夫など戦後日本の出版界における伝説的な出版人はまだ限りなく存在している。
 しかしわたしが古書を蒐集しだしてから、ナマで触れることの出来た出版書肆はなんと言っても「湯川書房」であった。

 1994年。
 大学を出たての古本小僧だったわたしは神保町のある古書店のガラスケースに高柳誠『卵宇宙・水晶宮・博物誌』(限定50部)を観てため息をついた。まるで蝶の標本のように蝶番のついた真っ白い函、そしてその函の中の本の真ん中には柄沢斉の驚異的なほど細密に印刷された蝶の銅版画が刷られている。
 わたしは心の底からこの本を欲しいと思った。
 しかし値段は「14万円」・・・。
 とても20代の駆け出しの古本小僧に手が出る値段ではなかった。

 これがわたしと湯川書房の衝撃的な出会いである。わたしにとっての湯川書房はあの『卵宇宙』から始まったのだ。

 その後、色々な場所で色々な湯川書房の本を観た。
 白い大きな紙を大胆に使い本格的な洋装本を志向した辻邦生『北の岬』(限定200部)、まるでオブジェのような立体的装釘本・山本六三『夢の破片』(限定100部)、和紙を大胆に使い洋装本と和装本の折衷を目指したと思われる白洲正子『比叡山回峯行』(限定100部)、実に様々なヴァリエーションで同一のパターンに陥ることもなく、愛書家を楽しませてくれる「湯川書房」、わたしの「湯川書房」への憧憬は日に日に強まっていった。もちろん本は高すぎて買えなかったけれども。


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 そしてなんだかんだで時が過ぎ、わたしは東京から実家のある秋田へ帰郷した。いつの間にかわたしも30の坂を越えていた。経済状況も20代の頃よりは豊かになった。わたしはさあ!これからどんどん湯川書房の本を買うぞ!と意気込んでいた。
 あの素晴らしい装釘の本をどんどん自分のものとしてゆくのだ。
 わたしの「湯川書房」への夢は広がった。

 車谷長吉『蜘蛛の巣』(限定100部)もそんな時期の買い物である。時は2007年。しかし次の年の2008年。信じられないニュースが飛び込んできた。

 なんと湯川成一氏が死去されたというのだ。享年71歳。死因は肺がん。まだまだ早すぎる。わたしは落胆した。そして悲しんだ。またひとり偉大な出版人が姿を消したことを。


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 「本の造本は年々悪くなってゆく」。
 晩年の湯川成一氏はそのように漏らしていたという。
 インターネットが普及し、活字文化が衰退してゆく現在、これは当然の現象であるのかもしれない。しかしそのような風潮に反して一冊一冊手作りで自分の子を慈しむように限定本を作り続けた湯川成一氏にわたしは古書コレクターの端くれとして心から敬意を表したい。恐らくもう日本に湯川成一氏のような偉大な出版人は現れないだろう。
 だから。
 だからだ。
 わたしは湯川書房発行の書籍を湯川成一氏の遺書として後世に紹介してゆきたい。それはあたかも「本」が貴重品であった古き良き時代の繁栄を細々と伝道するがごとく。



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 さあ、もう就寝の時間だ。
 わたしはいつものように湯川書房の本を読みながら寝るとするか。
 本はそうだな。車谷長吉『車谷長吉恋文絵』(限定100部)が良いだろう。車谷氏が若き時分に綴った数々の恋文、これを眺めているだけでも穏やかな心になれる。そして、この本を装釘した湯川成一氏の掌の温かみまで伝わってくるようだ。

 おやすみなさい。
 湯川さん。
 あの世に行っても存分に本作りを楽しんでください。

 それでは。

(黒猫館&黒猫館館長)