わたしのヒロシマ・ノート

(この講演の初出は2005年「黒猫館平成日記」に発表された。今回の講演は初出原稿を全面的に改稿した決定稿である。)

(講演日・2009年8月6日) 

 

 

(↑嵐の中の母子像↑)

 

 

 

 

 

 「永遠のみどり

 ヒロシマのデルタに若葉うづまけ
 死と焔の記憶に
 よき祈よ こもれ

 とはのみどりを
 とはのみどりを

 ヒロシマのデルタに青葉したたれ」

原民喜『原民喜詩集』細川書店より引用。

 1945年8月6日。広島に原子爆弾投下。広島市はほぼ壊滅。死者20万人以上。この街には今後、永久にいかなる植物も生えることはないと伝聞された。

 そして2009年8月6日快晴。広島市には鉄道自殺で夭折した被爆詩人・原民喜(1905〜51年・享年46歳)の願いと同じく青葉が甦った。

 この青葉が将来ふたたび死と焔に包まれぬがために。





                          ※                             ※




 蝉の声が庭でミンミン鳴いている。
 朝起きたわたしはアイス・コーヒーを、ダイニング・チェアに座りながらゴクリと飲み干す。
 その瞬間サイレンが鳴った。
 今年も8月6日がやってきたのだ。
 遠い記憶の中にわたしは沈殿してゆく。・・・




 わたしは十年以上前に広島に行った。
 なぜ?答は簡単だ。「現実」を見るために行ったのだ。子供であるならば、あまりに怖いものや悲惨なものはみなくてよい。
 しかし大人は違う。ありとあらゆる「現実」を直視せねばならぬ。
 それゆえわたしは広島の原爆とは実際どのようなものであるのか、ということをこの眼で確認するために広島に行ったのだ。

 まず広島駅につくと昔なつかしい「路面電車」が走っていた。
 わたしはこの電車に乗り一路「原爆記念公園」へと向かった。



 記念公園に到着すると右手に見える大きな建物「原爆資料館」に入る。
 わたしはその場所でおおよそ今までの自分の生涯からは想像を絶するものを見た。

 熱線によって階段に焼き付けられた人間の影。
 原爆後遺症で死んだ子供たちのの大量の髪。
 丸木位里の「原爆の図」さえ凌駕するようなあまりに恐ろしい被爆者の描いた無数の絵。

 わたしはアタマがふらふらし始めた。
 それは同情やら悲惨などといった人間的情緒のレヴェルを遥かに超えた、異様な世界をむりやり見せ付けられた気がしたからだ。

 わたしは原爆資料館を出ると木立にもたれた。
 押し上げてくる吐き気をこらえながらつくづくと思ったものだ。

 「核とは神の領域のものだ。決して人間がもてあそんでよいものでははない・・・」と。




 そしてわたしは資料館の前にある「嵐の中の母子像」を見た。
 わたしは圧倒された。
 過去にも先にもこれほどまでの衝迫力で迫ってくる彫刻というものをわたしは見たことがない。
 右手に赤子をそして左手に幼児を抱きながら歩みつづける母親、これはもしかしたら人類そのものの象徴ではないのか。
 もし諸君のなかでこの「嵐の中の母子像」を見たことがないという諸君がいたら広島に行って実物を見てこられることをお勧めする。
 ほんものの藝術作品というものは写真で見たのではダメなのだ。
 「実物」を自分の眼でしっかり見据える。その時にその作品の本当の凄さというものがわかってくるであろう。





 そして最後に原爆記念碑に向かって黙祷する。
 先年心なき者によって碑文の一部が削られたというこの記念碑であるが「U」を逆さにしたその曲線はあたかもなめらかな鳩の背中を連想させる。

 こうしてわたしの原爆記念公園の見学は終わった。わたしの数少ない旅行体験でもこの広島への旅行は忘れられないものである。





 「現実」。

 それがいかに悲惨なものであろうと見据えてゆかねばならぬ。
 そしてその悲惨さのなかに「人間そのもの」を凝視せねばならぬ。
 そして「人間そのもの」から未来へ向かう希望を力強く汲み取るのだ。




 原爆記念碑には短歌が一首書き込まれている。その短歌を引用して本日の講演を締めさせていただく。



      「原爆忌めぐりきたりぬ
          埴輪なす鞍形の碑にあつき碑の色」
                 
                      三田賽一

 

 

(黒猫館&黒猫館館長)