平成仮面ライダーの光と影

 

 

 

 

 

 西暦2000年1月「仮面ライダークウガ」から始まった「平成仮面ライダーシリーズ」も2009年で10年を迎える。「クウガ」「アギト」「龍騎」「555」「ブレイド」「響鬼」「カブト」「電王」「キバ」と多種多様な作品的試みでわたしたち視聴者を楽しませてくれた東映のスタッフ、そしてキャストのみなさんに心から拍手を送りたい。


 しかし特撮ファンの間で「平成仮面ライダー」がいつもすんなり受け入れられてきたか?と問うと実はそういうわけではない。「アギト中盤」から始まって「龍騎」でピークに達した「平成仮面ライダーバッシング」が主にネットの世界で嵐のように吹き荒れた事実を特撮ファンは忘れてはならないだろう。そしてそのファンの批判の中心にいたのはいつも「メインライター・井上敏樹」(注1)であった。


 なぜ井上敏樹がかくも批判にさらされたのか?と問うてみれば、その答は特撮ファンの間で一致している。井上敏樹の描く仮面ライダー世界はあまりに殺伐としていて、ライダー同士の内ゲバは日常茶飯事、裏切り、男女関係のもつれなど、従来の「クウガ」までの仮面ライダーファンにとってはおおよそ受け入れがたい作品内容に起因することは明白である。


 では井上敏樹は特撮界のいわば「邪道」であり、「永久追放」に等しい罪状を持つ者として特撮ファンは彼を断罪しても良いのであろうか?わたしの考えでは「否」である。井上敏樹の描くライダーは「昭和ライダー」「平成初期ライダー」(注2)と大きく作風が異なっているとはいえ、断罪に価するものではない。


 なぜか?


 誤解を恐れずに言い切れば、その答は原作者の石ノ森章太郎にあると言ってもよかろう。


 漫画家・石ノ森章太郎、彼は漫画を描くだけではなく自ら映画作品に出演したことがある。その出演作品とは(仮面ライダー20周年記念作品)「真・仮面ライダー」(注3)という「東映Vシネマ」と呼ばれるビデオ映画に置いてであった。

 

 「真・仮面ライダー」の世界はきわめて暗鬱な作品世界として構築されている。それは今までの仮面ライダーではほとんど映されなかった「改造手術」の現場であり、敵組織「財団」の日本政府との癒着であったりする。そして核心的なことは仮面ライダーが「怪人バッタ男」として登場することである。さらに「真・仮面ライダー」では男女の性交のシーンがてらいもなく描写され、そのあげくに、今までタブーとされてきた「仮面ライダーと人間の女性の子供の誕生」の問題にまで踏み込んでゆく。要するに石ノ森章太郎の漫画版が描く「仮面ライダー」にダイレクトに直結する、凄まじく凄惨かつ残酷なドラマであり、その底で現在の井上敏樹の描く「平成仮面ライダー」に通抵するものが感じられるのである。この点でわたしは井上敏樹を石ノ森章太郎と極めて感性が近いクリエイターであると考えている。


 さてわたしは「真・仮面ライダー」のこういう作風は同時期の「仮面ライダーブラック」(注4)に対する原作者・石ノ森章太郎なりの反発であったのでは?とにらんでいる。「仮面ライダーブラック」は敵組織ゴルゴムと仮面ライダーブラックの戦いを極めて明快なタッチで一話完結で描きあげた作品であり、1980年代を席巻した「メタルヒーローシリーズ」(注5)的なエンターティーメント性に重点が置かれた作品であった。そして作品としての感触は過去の昭和ライダーより「宇宙刑事シリーズ」(注6)の延長線上にあることは特撮ファンの眼から観たら明白である。そして言うまでもなく「ブラック」のメインライターは上原正三(注7)である。



 ここで話が転換するが、「仮面ライダーブラック」と同時期に上原正三は「北斗の拳」(注8)のメインライターを努めていたという事実がある。しかし上原正三は「北斗の拳」メインライターを極めて短期間で降板している。上原正三はその回想録の中で「北斗の拳」に言及して「悪人とはいえああいう殺し方をする主人公(ケンシロウ)は好きになれない」と語っており、残忍に悪人を殺す「北斗の拳」の作風に異議を申し立てていたようである。


 それでは「性善説の脚本家」=上原正三、「性悪説の漫画家」=石ノ森章太郎という位置づけが妥当か?というと実は話はそんなに単純ではない。
 特撮オールタイムでベスト3に必ず選ばれると言われる有名エピソード「怪獣使いと少年」(帰ってきたウルトラマン)(注9)で上原正三はまるで怨念をぶちまけたような差別・イジメ・人種問題に充ちあふれたどす黒い作品を執筆した。後年、上原正三は「怪獣使いと少年」に触れ「あまりに本音を出しすぎたので、わたしとしては好きな作品ではない」と語っている。


 つまり上原正三のスタンスは「大人の本音を子供番組にストレートにぶつけてはいけない」というもので、これが初期戦隊や宇宙刑事の基調低音になっていたと思われる。


 上原正三を「師」としてリスペクトしているらしい荒川稔久(なるひさ)(注10)はそのような意味で上原正三の「正当な後継者」であるように思われる。

 (「クウガ」の五代雄介の有名なセリフ

「・・・そうだよ。奇麗事だよ。だからこそ現実にしたいじゃない。 本当は綺麗事が一番いいんだもの 」(注11)

というセリフはまさしくウエハラ・イズムを象徴している。)

 しかし荒川稔久には「内に秘めた闇」(リアル太平洋戦争という極限状態で味合った苦汁)が存在しない。荒川稔久が今後、「より深い」エンターティメントを作り上げていくには「自分の中の「闇」をみつめ、それをどうエンターティメントとして昇華させていくか?」だとわたしには思われる。

 
 さて石ノ森章太郎とその後継者と目される井上敏樹のラインのほうであるが、これはこれで立派な作風であると思う。「仮面ライダー ザ・ファースト」(注12)はまさしく石ノ森章太郎がやりたかった仮面ライダーなのであろう。しかし「ザ・ファースト」的な「大人の本音」を子供番組に持ち込んではいけない、とわたしの見解である。この点で井上敏樹が現在「仮面ライダーキバ」でやっていることはわたしにとって到底受け入れがたい。


 さて総括すると、今後の特撮界において、上原正三→荒川稔久のラインと石ノ森章太郎→井上敏樹のラインの対立が今後も続いてゆくだろう。両者が共存してゆくためには日曜朝=荒川稔久脚本、大人向け劇場版映画=井上敏樹でやったら良るのがベストな選択であると思いたい。
 

 さらに言うならば最近になって「電王」の小林靖子(注13)というどちらのラインにも属さない新鋭が出現して、ますます面白くなってゆく東映特撮(特に来年のディケイド)にわたしは期待深々なのである。
 

 かなり長くなったが、2008年12月現在における「平成仮面ライダー」に対する一特撮マニアとしてのわたしの考察は以上である。

 

  

 

【脚注】 

(注1)=1959年生〜。脚本家。
(注2)=「仮面ライダーブラック」「ブラックRX」「真・仮面ライダー」「仮面ライダーRX」「仮面ライダーJ」の5作品を指す。
(注3)=1992年。オリジナルビデオ作品。
(注4)=1987〜1988年。全51話。
(注5)=1982年の「宇宙刑事ギャバン」から1999年の「鉄腕探偵ロボタック」まで続くシリーズ。
(注6)=「宇宙刑事ギャバン」「シャリバン」「シャイダー」の三部作。
(注7)=1937年生〜。脚本家。
(注8)=テレビアニメ。1984年〜1988年。全152話。
(注9)=「帰ってきたウルトラマン」33話。
(注10)=1964年生〜。脚本家。
(注11)=「仮面ライダークウガ」第41話「抑制」より。
(注12)=劇場版映画。2005年。
(注13)=1965年生〜。脚本家。

 

(黒猫館&黒猫館館長)
(スペシャルサンクス・彩華さん)