福田恒存を読む

 

 

 ある友人Aがいる。

 この友人Aは学生時代から「保守主義者」を名乗り「福田恒存」という思想家に傾倒しているらしい。彼の「福田恒存熱」現在はでも一向に衰える気配はない。

 もちろんわたしは「保守主義」には全く興味がない。

 友人Aはそんなわたしに「福田恒存」を読め、という。『私の国語教室』か『人間・この劇的なるもの』がお勧めであるそうである。
 それならば「福田恒存」とは何者か?だけでも知るために一冊読んでみるか、というわけで今回の読書に至ったわけである。

 わたしは「正字正かな問題」に抵触するのが嫌だったので、『私の国語教室』は却下して『人間・この劇的なるもの』(新潮文庫・改版)を読んだ。この新潮文庫版では昨今人気者らしい評論家・坪内祐三が本書を激賞している。「ぜひ若い人に読んでいただきたい」。

 さて一週間あまりで『人間・この劇的なるもの』を一読してみたがどうも読後感がスッキリしない。

 「個性」「自由」「個人主義」「生」などの現代社会では一般的に「是」とされている概念に対して福田恒存が「否」を突きつけてゆく、というのが大体の筋なのであるが、全体的な印象は散漫で一般的な評論というよりはニーチェやキルケゴールなどのアフォリズム集を連想してしまう。

 友人Aにこのことを話したら、「福田恒存」は「裏・実存主義者」で「ヘーゲル・マルクス的体系主義に反抗していたから、こういう構造になっている」とのこと、まさか保守主義者Aの口から「実存主義」が出てくるとはいかさか驚いてしまった。

 さて肝心の本書の内容であるが、先述した「個性」「自由」「個人主義」「生」に対してシェークスピア(福田はシェークスピアの翻訳家でもある。)的な「劇的なるもの」である「役割」「宿命」「全体主義」「死」を対置させて、後者によって前者を裁いてゆく。

 つまり人間は個性という欺瞞に騙されることなく、社会における自らの「役割」を選び取ることによって、社会に自分の身を献じ、自由を捨てあらかじめ定められた「宿命」としての生を選択し、社会という「全体」の中で自ら滅んでいくこと=「死」を選び取ること、これが「人間・この劇的なるもの」の正体であると説く、これが福田恒存流の人間の生き方であるらしい。

 わたしとしては、なんだか壮大に権威的な親父のお説教というか、現代の民主主義的モラルに横から淡ツバを吐きつけるような屈折した考え方に思われた。

 しかし部分的ながら納得できる箇所もある。全体としての社会から切り離された個人というものは存在せず、個人は全体への「帰属」によって存在する、というのは放埓で自分勝手な若者たちにとっては良い薬となる考え方であろうし、「人間は自由の刑に処されている」というサルトルの言葉を借りることなく「自由」の持つ欺瞞性を暴いているところは割目して見る箇所であろう。そして生に対する死の優位を説く箇所などはあたかもハイデッガーの哲学を思わせる。
 
 なるほど本当に読んでみれば福田恒存が「裏・実存主義者」という友人Aの指摘に納得できるものがある。

 しかしわたしは「正字正かな」を使うつもりはないし、福田恒存の民族主義的発言には賛成しかねる。故にこれ以上「福田恒存」の本を読む気はない。

 『人間・この劇的なるもの』という本も全面的に賛成できる本ではないが、読めばなんらかの薬になることは間違いないと思う。わたしも現代の若者諸君に坪内祐三と同じく『人間・この劇的なるもの』をお勧めしたい。ただし少々毒が強い本なので気力が萎えている時は本書を読まないように。

 一昔前のビートたけしの本にも似た「劇薬」とも言える本である。

 

(黒猫館&黒猫館館長)