ためになるということ

 (講演日 2008年10月17日)

 

 

 

 わたしの学生時代の愛読書は岩波文庫版『論語』であった。

 他の学生がやれディスコだ、やれ合コンだ、とてんやわんやでハメを外している時期はわたしはひたすら『論語』を読んでいたのだ。

「 子、曰く・・・」

 さて問題はその結果である。『論語』をわたしは「ためになる」と思って熟読したのであるが、本当に「ため」になったのであろうか。わたしには疑問である。現在のわたしのアタマの中にはほとんど『論語』の知識は忘却され消去されている。 これではディスコで踊ってはしゃいでいたほうが良かったのではないか。

 わたしは現在もしかしたら本当にディスコで踊っていたほうが「良かった」のではないか?と後悔している。ジュリアナ東京のお立ち台で扇子を振り回して踊り狂っていたほうが『論語』を読むより「人生にとって良い経験」であったのではないかと。

 さて『論語』は孔子のお言葉集であるが、中国にはもうひとつ大きな思想の潮流がある。それは「老荘思想」だ。特に老子の考えをさらに発展させた荘子に現在のわたしは大いに興味がある。

 さて古典というものは「いにしえの典型」という意味だ。つまりいつ、どこでも通用する時代を超越した書物という意味である。日本においては高度成長期に『論語』を読むことは大いに有意義なことであっただろう。その時代、努力すればしただけ、その報酬は的確に自分に帰ってきた時代であったからだ。

 しかし現在、いまだに低迷を続ける長期不況の日本の状況はもう高度成長期の常識は通用しない。いくら努力しても、リストラの恐怖から逃れることのできるサラリーマンはいない。巷では「勝ち組み」だの「負け組み」だのといった下世話な流行語が蔓延し、小便臭い学生がしたり顔で「コネも実力のうち」などとのたまう現代社会は「努力」だけでは通用しないのだ。アタマのスイッチを切り替えなくては21世紀をサバイブすることはできぬ。

 さて話を戻す。「ためになる」ということはどういうことか?「精神的に成長する」「物質的に豊かになる」ということであると思われる。しかしそのことばかりにこだわっているとアタマが硬直化してかえって「ためにならない」。これはわたしが経験から得た事実である。そこで「ためにならない」ことをあえてやってみる。すなわち『論語』を捨て「ディスコ」に行くのだ。すると踊っているうちに今度は不思議とまた『論語』が読みたくなってくる。

 老荘思想のひとつに「無用の用」というものがある。すなわち「用は無用によって支えられ、無用は用によって支えられる」という意味だ。簡単にいうと無駄なことが有益となり、有益なことが無駄になったりする、という意味であると思われる。

 「禍福はあざなえる縄のごとし」

 このあまりにも有名な諺の「禍福」の部分を「用と無用」に置き換えてみたまえ。つまり人生というものはがむしゃらに努力してもさほど変わらないし、少々、怠けていてもさほど悪くならない、これがわたしなりの解釈である。

 これは一見すると「ニヒリズム」に接近するかもしれぬ少々やっかいで扱いづらい考えであるが、現代のような低調な時代を潜伏して生きるには有効な考えであるのかもしれぬ。時代が変転し、また好況になったら、必死に努力して出世するなり、お金を稼ぐなりすればよいのだ。

 とこのようなことを言ってもわたしはあくまで「現実主義者」「合理主義者」である。これは持って生まれた資質であるから変えようがない。

 学生時代、「人間学」という講義で「胡蝶の夢」の話が教授の口から出た時、真っ先に噛み付いたのがわたしである。「荘子は夢で蝶になったことを疑っている。しかし夢のなかの蝶は自分が荘子ではないのか?と疑っていないではないか。」
 この指摘に教授は押し黙っただけであった。あとで知ったことであるがこの「胡蝶の夢」への批判的指摘は精神分析学者のジャック・ラカンも指摘していることであるという。

 つまりわたしのスタンスはあくまで現実的地盤を維持しつつ 、その現実をいろいろな角度から見てゆさぶりをかける、というものだ。これによってアタマの柔軟性が保たれることであろう。
 物事に善いも悪いもない、あるのは「見方」だけだ、などというもっともらしい話を寺の坊主がすることがあるがわたしの場合はもちろんそんな極論は吐かない。ただ「ものごとはいろいろな角度からみなければならぬ」これは重要な考えであると思う。そういうものの見かたをすれば「無用の用」の思想の真髄がわかってくることであろう。

 結論する。「ためになること」ばかりにしがみついていてはダメだ。もっと心をオープンにして一見「ためにならないこと」も考えたり、やってみたりする、これが現在のわたしの基本スタンスである。

 

 (黒猫館&黒猫館館長)