おたくと食についての考察・序論

 

 

 

 

 

 おたくとファッションについては良く論じられる。
 しかしおたくと食についての論はほとんど見たことがない。わたしとしては「食」はおたくを理解する上で非常に重要なものであると思っている。

 
 さていきなりなぜこんな話を突然わたしが切り出したのかというと、先日、東京・神保町で某友人に会った時のことである。その友人とわたしは二時間ほどカラオケ館パセラでカラオケを歌った。そして外に出るともう6時。さあ、なにか食事しようと思って、わたしは神保町名物・カレーを食べたいと思い、彼に提案した。すると彼は「カレーは値段が高い」というのである。しかし値段が高いと言っても800円程度のカレーである。結局、彼は吉野家・わたしはカレー店で分かれて食事をすることにした。食事後にまた落ち会う場所を決めて。

 さてこの彼はカラオケではアニソンしか歌わないレッキとしたオタクであるが、同時に40代の社会人でもある。40代の社会人の、しかも滅多に会わない人間と会った時の夕食が「吉野家」で良いのであろうか。わたしとしては非常に疑問である。

 さておたくというと必ずついて回るのが「吉野家」のイメージである。これはTVアニメ番組「うる星やつら」のサブ・キャラクター「メガネ」が必ず牛丼を食べている場面があったり、最近では「立喰師列伝」という映画からの影響であるだろう。ちなみにこの「立喰師列伝」とは「立ち喰いのプロ」要するに「無銭飲食」の常習犯をめぐる映画である。無銭飲食とは、これは立派な犯罪者である。犯罪者にあこがれるおたくが多いとは断言できないが、「立喰師列伝」のような映画のキャラクターに憧れるオタクの心理とは一体いかなるものであろうか。

 吉野家などのジャンク・フードの店で「できるだけ安く食事代をあげる」これがわたしがリアルで知っているおたくたちの生活の流儀であるようだ。しかし決して彼らは「貧しい」わけではないのだ。高額なフィギュアやDVDは惜しみなく買い続ける。しかし夕食は「吉野家」。この異常に低いエンゲル係数はなにを意味するのか。

 もしかしたらおたくたちはガンダムなどのロボットと自分を重ね合わせているのかも知れない。要するに「食事ではなく単なるエネルギー摂取」が彼らにとって重要なのだ。ロボットなどの無機物への同一化への憧れ、これは現代の超高度物質文明が生んだ奇妙にSF的な生のありようであるのかも知れないと推測できる。
 おたくが膨大な知識の海を彷徨っているうちに有機物としての自分の肉体を忘却する、あるいは嫌悪し始める、その結果その肉体を維持するのに必要な「食」を軽視し始める、ということは十分に考えられる。拒食症・過食症の少女たちの心理の根底にあるものは「成熟拒否」であると言われているが、同じことが現代の若いおたくたちにも通じるのかも知れない。もちろんわたしはおたくに「成熟しろ!」と強制するような頑迷な「大人」ではない。「幼形成熟」(ネオテニー)から人類の始祖が生まれたという説もあるぐらいだから、現代のおたくたちの食の在り方にも考えさせられるものがある。

 さて、ここで断っておくがすべてのおたくが食に無関心であると主張するつもりは全くない。中にはグルメおたくというべきおたくもいるだろう。古本マニヤからグルメマニヤに転じた唐沢俊一などが良い例である。そういう例外的な例についても、一節も持って論じるつもりである。

 さてわたしはいずれ「衣食住」とおたくの関連について論じた三部作の論文を仕上げたいと思っている。この「おたくと食についての考察」はその根幹を為す最も重要なものだ。なぜなら衣と住がなくても人間は生存可能であるが、食なくしては人間は生きられないからだ。

 
 最後に、なぜそこまでおたくにこだわるのか?と人は問うだろう。
 
 その答はいたって簡単だ。

 私自身が「かっておたくだったから」、それが理由だ。


 それゆえにこの論文はわたしの若き日々への鎮魂歌(レクイエム)として捧げられるものである。

 

 黒猫館&黒猫館館長