おかえりなさい、めぞん一刻

(講演日・2007年11月14日)

 

 「うわ!なつかしいわっ!」

 2007年11月。

 コミックス、CD、DVD、ゲーム機器、その他雑貨の複合売買店舗「ゲオ」の店頭でわたしは思わず小声で叫んだ。その日、「新作DVDコーナー」に2007年5月に放映された「スペシャルドラマ・めぞん一刻」のDVDのレンタルが開始されたのだ。5月に放映された「スペシャルドラマ・めぞん一刻」のオン・エアを見逃したわたしはチャンス再び到来とばかりにパッケージからDVDを引き抜くと、即座にレジに向かって歩き出した。

 と言ってもわたしは「実写版めぞん一刻」を観るのはこれが始めてではない。今回の「スペシャルドラマ」の音無響子役は伊東美咲であるが、1980年代前半には「映画版・めぞん一刻」として石原真理子主役の作品も映画館で観ている。

 漫画・映画・テレビアニメ・そしてドラマと様々な媒体へと姿を変えて何度も再生する「めぞん一刻」、しかしこの作品は実はわたしにとって長年の「憎むべき敵」であった。

 

 

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 「ケッ!コイツ、日和(ひよ)りやがって!!」

 とわたしは吐き捨てるように言った。時は1987年春、青年漫画雑誌「ビックコミックスピリッツ」の紙上で「漫画版・めぞん一刻」の最終回を観たわたしの感想がこれである。

 最終回、主人公・五代裕作はヒロイン・音無響子と結婚、一子をもうけて一刻館へ帰ってくる。この原作者・高橋留美子にしてみれば「最高の最終回」であろう最終回にわたしは吐き気を催した。

 当時わたしは戦旗派という左翼団体に所属、日々過激な活動に没頭していた80年代ではめずらしい政治青年であった。ヘルメットを被り、国会議事堂前をパレードすることを「至高の行為」と考えていたわたしにとって、五代の生き方は全く考えられないばかりか、許しがたい日和見に思われたのだ。わたしは「ビックコミックスピリッツ」を破り捨てると、過激派たちの集う集会場に足を向けた。

 当時のわたしは高橋留美子原作漫画『うる星やつら』をテレビアニメ化した「アニメ版・うる星やつら」の大ファンであり、その過激な前衛性に傾倒していた。そんなわたしのとって、なおさらに同じ高橋留美子原作の『めぞん一刻』の結婚という保守回帰としかいいようのない最終回はまさに憎悪の対象であった。

 

  

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 それから20年の年月が過ぎた。
 本当に、本当に色々な出来事がわたしを通りすぎていった。移ろいゆく季節を何度も経験しながら、五代の最終回の姿がで再びわたしの中で甦る。
 政治も左翼もイデオロギーもすべてあぶくのような夢となって去っていった。
 いつの間にか「めぞん一刻」に対するわたしの憎悪も消滅した。

 そんな現在のわたしの心境と五代の最終回での幸福感が影絵のように重なる。五代と響子の後姿は、もしかしたら、かなえられなかったもうひとつの人生、としてのわたしの夢であるのかもしれない。

 20年目の秋の夜長、「ドラマスペシャル・めぞん一刻」を観ながら、わたしはこの20年の自分の記憶を反芻する。この20年わたしはなにをしていたのか。進歩したのか、それとも退化したのか。それともなにも変わらなかったのか。
 そんなわたしの苦悩を包み込むようにあの「一刻館の管理人さん」の笑顔が画面から溢れ出る。

 「おかえりなさい。」

 それはわたしから「一刻館」へ送られた言葉ではなく、「一刻館」の世界からわたしへ送られた言葉ではなかったのか。

 まるで五代の姿とわたしの若き日々とがフィルムのポジとネガのように不思議と重なリ始める。

 わたしと「めぞん一刻」はこの夜、ブラウン菅の中で和解した。

 

 

(黒猫館&黒猫館館長)