名曲喫茶室フランソア 

(2007年陽春関西周遊旅行のおもいでと共に)

 

 

 陽春・春四月の京都。

 その日はわたしの関西旅行最後の日であった。大阪梅田・大阪なんば・奈良と周遊したわたしは関西旅行最後の宿を京都河原町のビジネスホテルに求めた。もちろん安宿であるから素晴らしいサービスなど期待していない。しかしそれなりの清潔感のある部屋とボリュームのある朝食でわたしは十分に満足して朝10時のチェック・アウトを済ませると、京都の街へ躍り出た。

 朝の陽光がまぶしいほどにきらめく。光に満たされた京の街の住人たちを横目で見ながらわたしは河原町奥に歩を進めた。
 ご存知ない方のために説明すると、「京都河原町」とはJR京都駅から北東方面へ徒歩30分程度で到着する京都一番の繁華街である。さらに東へ進めば祇園・清水寺も控えている、まさに京都では最高の立地条件を誇る場所である。

 鴨川を横目に観ながら、わたしは関西旅行最後の目的地である「名曲喫茶フランソア」を求めて路地へと歩を進めた。

 さてわたしが始めてフランソアを知ったのはインターネット上の情報からである。京都に喫茶店としては初めて国から「有形文化財」の指定を受けた喫茶室がある、と知ってからフランソアはわたしにとって憧れの喫茶室であった。

 しかし北国に住むわたしにはそう簡単に京都に行くことはできない。そうこうしているうちに時は過ぎて2・3年はゆうに経ってしまった。そんな時、降って湧いたのが関西周遊旅行の企画である。わたしはこの機会を逃したらフランソアに行くことは極めて難しくなるだろうと思い、即座にフランソアを旅行の日程に取り入れたのである。

 鴨川の横にある「高瀬川」という小さな川のほとりをテクテク歩く。しかしそれでもフランソアは登場しない。わたしがなんとなく不安を感じ始めた時、その喫茶室は突如現れた。

 白い漆喰が上質に光るモダンな建物、これこそが「名曲喫茶フランソア」そのものであった。










 さて、ここで「名曲喫茶室フランソア」について全く存じない人のために「フランソア」の概要を説明しておこう。

 正式名称「サロン・ド・フランソア」

 東京にお住まいの方なら先年惜しまれつつ閉店した「中野クラシック」という店をご存知であるかもしれない。
 「フランソア」もまた近年続々と閉店してゆく「名曲喫茶室(クラシック音楽をレコードで演奏しながら客にコーヒーや紅茶を出す店のこと)」である。

 「フランソア」の創業は昭和9年、当初からフランソアは名曲喫茶としてスタートした。創業者は立野正一氏。大正デモクラシーの残り香がいまだ漂う自由な気風の時代におけるフランソアの輝かしい出発である。
 フランソアには旧京都大学学生や画家・小説家たちが集まり、日本では数少ない「サロン(文化人・知識人たちの集いの場)」として興隆したという。

 特に戦時中帰国した洋画家・藤田嗣治が立ち寄ったという事実は有名であり、近年では小説家・大江健三郎もしばしばフランソアを訪れることがあるという。
 フランソアの初代主人・立野正一氏は文化を尊ぶ自由人であり、志賀直哉や武者小路実篤らの白樺派の小説をこよなく愛し、さらにそこから白樺派のメンバーが精神的支柱とした画家・フランソア・ミレーへの愛着を深めてゆく。
 このフランソア・ミレーが名曲喫茶室「フランソア」の名前の由来である。

 さて、京都・高瀬川沿いでフランソアを発見したわたしは即座にフランソアに入店した。薄暗い店内。朝10時であるからか客もまばらである。室内には快適なクラシック音楽が静かに流れている。
 入り口に面した場所にあるアール・ヌーヴォー調のステンドグラス、ゴシック様式の椅子・テーヴル類、さらには壁に掛けられたピカソやシャガールのリトグラフ、すべてがフランソアの主人の趣味の良さを雄弁に語っていた。
 やがて奥の厨房から黒服の婦人が現れる。断言はできないが恐らくこのひとが現・フランソア主人である今野香子氏だろう。
 わたしは今野氏にケーキセット(1000円)を頼んだ。

 改めてわたしはフランソアの店内をまざまざと眺めてみる。黒光りする壁の木がこの店の持つ「歴史」を物語っているようだ。
 さよう、フランソアの歴史とはまさに苦難の歴史であった。


 さて昭和一桁の時代において、文化人・知識人・自由人たちのサロンとして隆盛を誇ったフランソアに転機が訪れる。
 太平洋戦争である。
 軍部による国内の文化弾圧はフランソアにも及び、フランソアはクラシック音楽を流すことを禁止され、コーヒーの代わりに番茶を出して戦争時代を凌いだという。この時代の名前を「都茶房」という。
 しかし反骨精神に溢れる主人は特高警察や憲兵の監視の眼を盗んで、戦争中でも時折クラシック音楽を流し、コーヒーを客にさし出し、真に美しいものを愛する文化人・知識人たちを楽しませたという。今だからこそこんなことが簡単に書けるが、戦争中にこれがどれほど危険な行為であったのか想像だにすることはできない。

 そして終戦。

 「都茶房」はミレー書房と名前を変えて名曲喫茶に戻った。ミレー書房は当時ではめずらしかったマルクスの『資本論』などを積極的に取り扱い、読書人・文化人たちの集いの場所となったという。やがてミレー書房は本来の名前であるフランソアに再び名前を変える。当時の主人が「三月書房」と呼ばれる書店を立ち上げるために独立したせいである。ちなみに「三月書房」は現在でも限定本出版書肆・湯川書房の本などを積極的に取り扱い、読書人・愛書家たちに親しまれている。

 由緒ある店というものはすべて「由来」をもっているものだ。わたしが東京に出向いた時は必ず食するカレー店である新宿中村屋カレー部門はインド独立革命の志士、ラス・ビハリ・ボースと当時の中村屋の娘が恋に落ちたことがその創業の由来であるという。

 フランソアはまたそのような「由来」を持つ店である。わたしはフランソアの薄暗い店内の中で戦前・戦中の日本の暗黒を思った。そしてその暗黒に屈することなく闘い続けたひとたちのことを思った。フランソアの「歴史」にナマで触れ、その歴史によって育まれたあくまで渋く、そして芳醇なコーヒーの味を味わったのである。

 ケーキセットを食し終わったわたしはフランソアを後にして、帰路につくべく大阪・伊丹空港に向かった。伊丹空港で見た夕日は今までわたしが見たどんな夕日よりも真っ赤に燃えていたことが強烈な記憶として残っている。

 真に美しいもの・また真に価値あるものはどんな悪意や暴虐にも屈することはない。そのことをわたしはあの薄暗いフランソアの店内で学んだようだ。わたしもまたフランソア創業の精神に共鳴する者である。

 折りしも21世紀初頭、現代の日本には太平洋戦争前夜にも似た緊迫した情勢を呈しはじめている。

 しかしわたしはフランソアによってさらに筋金を入れられた反骨精神を武器にこの危険な時代をサヴァイヴ(生き残り)してゆくことにする。

 それがわたしが今回の関西周遊旅行で得たわたしの最も大きな収穫である。

 

 

 

(講演日2007.5.5)
(黒猫館&黒猫館館長)