灰の部屋

 

「処世」

 

 

2006年3月18日 いじめに克つ
2006年4月10日 外に置く
2006年4月18日 突き破る
2006年7月1日 怒らない
2006年9月19日 よし!それやってみよう!
2007年1月13日 悪魔に生贄を捧げよ
2007年2月17日 金持ちケンカせず
2007年6月3日 一日150円貯金計画
2007年6月7日 ホームレスにならない方法

 

 

 

 

いじめに克つ

 

 はねかえす。
どーんとはねかえす。
いかなる悪意や中傷もはねかえす。

 とこれがいじめのるつぼである現代を乗り切る智恵である。わたしは中学時代いじめられっこであった。 その時の記憶はあまりに忌まわしいので思いだしたくないが、なぜいじめられたのか、そのことを分析する必要はある。

 恐らく中学時代のわたしは、西洋風の言葉でいうとなんらかのヴァルネラビリティ(攻撃誘発性)を表情や素振りから発していたのだと思う。ヴァルネラヴィリティとは噛み砕いて言うと「自分は攻撃されても仕方がないと思うマゾヒスティックな心」でありもっと粉々に噛み砕いて言うと「いじけた心」である。

 なにかというと相手の弱みを探しそれにつけこみたがるのが卑怯な人間というものである。卑怯な人間は他人の弱みにつけこむのである。「いじけた心」は卑怯な人間の絶好のターゲットになる。その時いじめが発生するのだ。

 それではいじめをはねかえすにはどうしたら良いか。 これが真の問題である。まず第一にできることはなにかに打ち込むことであろう。諸君が学生だったら学業に、諸君が社会人だったら仕事に打ちこむことをお勧めする。そのような「生きることに対する真剣さ」が「いじけたこころ」、つまり「弱み」を吹き飛ばしてしまうのだ。 「弱み」がなければ卑怯な人間につけこまれることもない。

 また物事に対して真剣になると自信がつく。自信がついたらしめたものだ。多少の中傷や悪意など簡単にはねかえしてしまうだろう。

 自信がつくとは自分を肯定することである。それゆえに「わたしはOK、あなたもOK」、これをわれわれの合言葉にしようではないか。自分もいじめられず、相手をいじめることもない。そのような社会こそいじめをはねかえす力に満ちたさわやかですがすがしい新しい社会である。

 

 

 

 

外に置く

 

これはある医師からわたしが実際に聞いた話である。

 末期ガン患者は本当の末期になるとモルヒネも効かなくなることがあるらしい。そこで襲ってくるのが耐え難い激痛である。文字通り患者はのたうちまわることしかできなくなる。

 しかしこの無間地獄のような苦痛から唯一逃れる方法があるという。それが「自分を自分の外に置く」ことであるそうだ。苦痛に喘いでいる自分からもうひとりの自分を引き離す、その時、痛みが嘘のようにすーーーーーと消えるのだそうである。

 しかしこんなことが人間にできるものであろうか。
なんとも荒唐無稽な話のようであるが痛みが脳内の電気信号であるとすれば、思考をコントロールすることで痛みを消去するということは全く不可能な話ではない。


 「外に置く」とは当世風の言葉で言えば「自分を客観視する」ということだろうがこんな手垢のついた抽象的な言い方ではなんの役にも立たぬ。もっと具体的に!だ。

 まず「自分の写真を見る」ことが「外に置く」ことの基礎訓練になるだろう。じーーーと写真を見ていると色々な言葉が明滅する。「世界は自分中心ではない。」「人間は自分に関わるもの」「世界内存在」などなど。

 そのようにすれば自分が大いなる大宇宙の一部にしか過ぎないことが理解される。同時に大いなる大宇宙と一体になってゆく自分・・・、その認識が完了した時、「外に置く」作業が完成するのではなかろうか。

 もちろんこれは仮説である。机上の空論に過ぎないかもしれぬ。まだまだ未整理な考えである。しかしもう人生の折り返し地点を過ぎたわたしには「外に置く」訓練は人生の必修科目だ。それは来るべき「死」を安楽に迎えるための。

 耐え難い苦痛によって自分の死を汚されたくない方々よ、一度はこの「外に置く」作業について熟考されることをお勧めする。安楽で安らかな死、それによって人生は美しく完成されるとわたしには思われる。

 

 

 

突き破る

 ビジネス、あるいは学問・藝術でも良い。
 成功する人間とそうでない人間はどこがちがうのか。

 ある日本人青年が米国の大富豪にこのような質問をしたそうである。

 「大富豪になるにはどうしたらよいのですか?」 その答は「収入の一割を貯金したまえ」というものであったという。

 「収入の一割を貯金する。」一見簡単そうであるが貯金の習慣のない人にはなかなか難しい努力であろう。しかしこうしたコツコツとした努力がビックな成功に繋がるという説は納得できる。

 しかしこうしたコツコツした努力だけではビックな成功は難しい。高原状態(スランプ)が長く続くことも予想される。

 さて人間にはコツコツ努力している人間にだけ一生に三回だけビックチャンスが訪 れるという。惰眠をむさぼっている怠け者にはチャンスが眼の前に到来していること
さえ気づかないであろう。
 このチャンスを絶対に逃してはならない。このチャンスという未知への扉を突き破ればその人は「成功者」となる。

 しかしここで踏みとどまってしまうひとが多い。なぜなら「成功」=「幸福」とは 限らないからだ。驚くべき量の金銭と名声が向こうからやってくる。そのような扉の向こうの世界では今までの小さな部屋に閉じこもっている自分ではもう通用しないのだ。ここでその人間の器というものが問わ
れる。成金になった人間が破産しやすいのはこういう所に原因がある。人間とは成功を恐れる生き物なのだ。

 しかしどんなに扉の向こうが恐ろしくても成功したいひとは扉を突き破らなくては
ならない。扉を突き破って次のステージに進まなくてはならないとわたしは思う。
反対に変化を恐れる人には残酷なようであるが永遠に小さな部屋に閉じこもっている
しかないであろう。どちらの人生を選ぶかはそのひとの選択である。

 わたしはあえて扉を突き破る道を選びたいと思う。そのことがどんなに恐ろしくてもそこを突破したならばより大きな世界が開かれることを期待するからだ。

 成功の可能性は誰にでもある。しかし本当に成功できる人は少ない。
 
 最後にわたしが最近ビデオで観て感銘を受けたアニメの歌詞を引用して本年度から新社会人になる諸君に贈る。



 「僕らはいつでも叫んでる。
  信じつづけるだけが答じゃない。
 
  弱さも傷もさらけだして
  もがきださなきゃ始まらない。

  突き破れ。
  扉の向こうへ。

  扉の向こうへ。」

 アニメ『鋼の錬金術師』EDテーマ
      「扉の向こうへ」より引用。

  

 

怒らない

 

 怒らない。
のほほんと暮らす。

とこれがわたしの理想の生活である。

 どっしりと座り、落ち着いて飄々と暮らしたいのである。
理由は簡単である。「怒るとガンになる」からだ。怒ると脳からガンに対する免疫を阻害する物質が分泌されるそうである。それゆえいつも怒っている人間はガンになってもがき苦しんで死んでゆく。それゆえわたしはもう怒ることを止めようと思っているのだ。

 わたしが最も尊敬する哲学者のひとりであるアルトゥール・ショウペンハウエルも次のように言って
いる。

「怒りをあらわにすることは裸で街を歩くことと同じである。」裸で街を歩いていたら警察に捕まるのがオチである。やはり怒ることは百害あって一利なしだ。

 しかし「怒らない」こと、これは意外と難しい。「怒りを押し殺す」ことは簡単である。しかし「もの言ぬは腹ふくるる技なり。」つまり押し殺した 怒りは当世風の言葉でいうと「ルサンチマン(内向的復讐感情」)となってどす黒く体内に沈殿してゆく。いつ爆発するかは時間の問題である。
 「イイヒト」がある日突然周りをアッといわせる凶悪犯罪を巻き起こす現象にはこういうことが原因にある。

 そこで、怒りを押し殺すのではなく、完全に消去してしまおうというのがわたしの戦略である。

 まず「あ!これは自分が怒る!!」と機敏に察知することである。自分の感情がわからないというこ
とは人間にはよくあることなのだ。そこで絶えず自分と対話する習慣(具体的には自分の本音を紙に書く)を身につけることが肝要である。

 次に自分が怒りだす一歩手前でまずぐー、と息を吸い込み腹式呼吸をする。腹式呼吸のやり方はこの日記でなんども述べたので本日は説明しない。ぐー、と息を吸い怒りを頭から腹部へと沈める(=鎮める)腹部に溜まった怒りを今度はぐー、と息を吐きながら体外に放出する。これを何度も繰り返す。

 近年のヒット映画である『グリーン・マイル』で大男のジョン・コーフィが毒気を吐き出しているシーンがあったが、『グリーン・マイル』をご覧になっている諸君はあのシーンを想像しながらやるとよい。具体的なイメージというものは何事をするにも有効なものである。

 「頭に血が上る」という表現があるが怒っている状態とは頭にエネルギーが集中している状態と考え てよかろう。頭から内臓に血の気を後退させ一気に消化してしまうというわけだ。

 この作業がおわったら「後始末」が必要である。つまり怒りの原因が「相手にあったか」「自分にあ
ったか」を冷静に分析する。相手にあるならばそんな相手とはバイバイすればよいだけである。自分にあるならばじっくり反省するのだ。日光猿軍団のお猿さんをイメージしながら。

 そして最後に鏡を見て「ニコッ」と笑う。これで怒りは完全に消去させる。

 とこれはわたしが開発した怒りを消去するひとつの方法である。他の方法もあると思う。諸君は自分 に合った方法で怒りを消去すればよい。

 「怒りのない生活」、つまり「笑いに満ちた生活」をおくっていればガンにならないばかりか長寿の秘
訣にもなる。大いに怒らずに大笑いして皆で幸福に長生きしようではないか。

 

 

よし!それやってみよう!

 

 本日もわたしは黒猫館平成日記を書く。

 別に幾ら一生懸命書いたところで原稿料が出るわけでもない。それでもひたすら書く。さてなぜか。

 ひとつ例を引く。

 諸君がレストランに行くとする。メニューをみて注文しようとすると食べたことのない食べ物がメニュにある。 そこで

1>「食べたことがないから注文しない。」
2>「食べたことがないからあえて注文する。」
 のふたつの選択肢が現れる。さてどちらを選ぶか。
 
 わたしは断然2を選ぶ。いつも同じものばかり食べているといつまで経っても人間の舌は肥えてこない。ここはあえて冒険して食べたことのないものを食べてみるのだ。もちろんその料理が美味い場合も不味い場合もある。しかしそのどちらであっても新しい経験となる。次回からはどんどん美味いメニューを選べる確率が高くなり、どんどん好きな食べ物が増えてゆくだろう。

 わたしが黒猫館平成日記を書くことも同様である。どうせなら夕食後のくつろいだ時間だからテレビのバラエティ番組を観ながらぐーたらしていたほうが良いという意見もあるだろうが、「ぐーたら」するとうことは誰にでもできるしいつでもできる、いわば「食べたことのある食べ物」である。そこそこの怠惰な悦楽を得ることはできるかもしれないがそれ以上のことは期待できない。それに対して黒猫館平成日記を更新するということは「食べたことのない食べ物」を食べるということである。誰かに「なにこの日記、変なの・・・ふふ。」などとバカにされるかもしれないが多くのヒトに良い影響を与えることができかもしれ ない。だからわたしは黒猫館平成日記を書くのである。おもしろいネタが浮かんだら、

 「よし、それやってみよう!」と掛け声をかけて。

 日常生活でもあえて面倒くさいこと、やったことのないことに「よし、それやってみよう!」とチャレンジしてみようではないか。知らないヒトと出会ったら「よし、このヒトと友達になってみよう!」と声をかけてみようではないか。読んだことのないジャンルの本を「よし、この本読んでみよう!」とチャレンジしてみようではないか。
 いつも同じ場所をどうどうめぐりしているヒトにはなんの進歩もない。あえて未知の世界に足を踏み入れる態度、そのようなものからしか、本当のクリエイティブな生き方はできないのではないか。
最近、わたしがお絵かきにチャレンジしていたのは実はこういう理由があるのである。

 終身雇用制が崩壊し日本もアメリカ型社会に接近している現在「ヒトと同じこと」をやっていたのではいつまでたっても浮き上がることはできないのだ。

 せめてわたしの読者の方々よ。
 「よし、それやってみよう!」をわれわれの合言葉として新たな領域に踏み込んで自分の人生を力強く切り開こうではないか。

 それではまずわたしから率先して。

 「よし、この日記、勇気を出してアップしてみよう!」

 

 

悪魔に生贄を捧げよ

 

 という題名だけをみて、わたしがなにか澁澤龍彦ばりの 恐ろしげな話を始めるのではないか?・・
と期待した諸君、ご愁傷さまである。あいにくわたしは悪魔も天使もそういうものの存在は一切信じていない。

 この題名は独逸の哲学者、アルトゥール・ショーペンハウエルの晩年の主著『処世的箴言』に登場するアフォリズムである。

 さてこの「悪魔」とはもちろんサタンとかベルゼバブの類のものではない。これは暗喩である。
 ではなんの暗喩であるのか。

 わたしが思うにこの「悪魔」とは「世間」「社会」「世界」、そのようなものの暗喩なのではあるまいか。人間 社会は一寸先は闇である。まさに「悪魔の腹の中」にいるようなものだ。

 ロール・プレイング・ゲームでスケルトンやらゴブリンだの雑魚キャラを倒していたら、いきなりデーモンやらヴァンパイアだの一撃の攻撃で味方パーティが全滅するほどの凶悪キャラが登場した時のことを思いだしてみたまえ。

 人間社会もそれと同じである。
 明日、「交通事故」「ガン」「地震」「火事」「犯罪」などという聞いただけで身震いしそうなものが襲ってくる可能性は十分にあるのだ。
 そのようなものに出会うリスクを減じるものが「生贄」である。

 「生贄」とは具体的に言えば、

1>労苦
2>金銭
3>時間
4>面倒くささ

などを指すものと思われる。

 例えば「交通事故の保険に入る」ことは2に該当する。また「アメリカン・ファミリー」の保険に入ることも2である。将来に備えて資格試験の勉強をすることは1・3・4である。食後にすぐ皿洗いすることは4である。「知的生き方文庫」を読んで自己啓発することは2・3・4である。

 つまり明日待ち受けているかもしれない「悪魔」に「生贄」を献ずることによって、そのすきに自分はそそくさと逃げてしまおう、という人生の戦略である。

 日本でもこういう諺がある。
 「楽は苦の種 苦は楽の種」
 つまり現在において自ら進んで苦痛を引き受けることが、人生の安泰を保証するという考え方である。

 さてわたしもこのような日記を書いていたらなぜか急に部屋の掃除がしたくなってきた。諸君も「なんとなくウンザリ」することでやることを引き伸ばしている
ことがあったら、今すぐにでもそれに取り掛かることをお勧めする。

 明日、もしくは将来、悪魔の毒牙によって君が噛み殺されることがないように。

 

金持ちケンカせず

   

 「金持ちケンカせず」という諺がある。
 この諺は一般的には「金持ちは持つ者である。 故にケンカをすると失うものが多い。故にケンカしないのだ。」と解されている。
 しかしこの諺の意味はそれに止まるものではない。善い諺というものは常に二重・三重の意味を含意しているのだ。
 まず金持ちでいるためには資産運用の努力が必要不可欠である。すなわち、株・ファンド・ 国債から不動産の管理、税金対策に至るまで。
 つまり金持ちは「ケンカなどしている暇はない」のだ。
 
 このことは金銭の金持ちだけに止まらない。「精神の金持ち」でも同様なのだ。例えば超一流の芸人はその芸の技を語ることは上手くなればなるほど少なくなってゆくという。世阿弥の
『花伝書』が一子総伝の秘伝とされたのも、これが理由である。
 また趣味の領域でも同様である。コレクターの世界でも大物になればなるほど表には出なくなってゆく。

 つまりどの分野であれ一流に接近すればするほど自分との格闘にせい一杯でケンカなどしているヒマはないのだ。

 このことをわかりやすく、インターネットの世界に喩えてみる。他人のホームページをけなす者、わざわざ誹謗中傷のメールを送ってくる者などはみな自己鍛錬を怠っている三流の馬鹿者である。一流を目指す者はすべてよりよいホームページを構築しようと努力しており、他人とトラブっているヒマなどないのだ。


 他人にケンカを売ってはならないし、またケンカを買ってもいけない。これがすなわち「君子あやうきに近寄らず」ということであり「一流」の条件である。
 最後に重ねて言うが、いつもそして常に「敵」とは自分自身なのだ。

 ゆっくりと自分の信じる道を進め。誰にはばかることもなく。インド奥地に生存しているという伝説の白象のように。

 

 

一日150円貯金計画

 

 「チャリン!」

 と響きの良い音をたてて10円玉が貯金箱に吸い込まれてゆく。今日もだいぶ貯まってきた。
 これはわたしの「一日150円貯金計画」の風景である。

 一日に150円貯金していれば一週間で1050円、一ヶ月で4200円、一年間で50400円、凄い金額である。銀行の利子は一年間に0.2%程度だから100万円貯金していても一年間でも2000円程度の利子である。この50400円という金額の大きさが改めて実感できるだろう。

 また「一日150円貯金計画」を実践するようにしてから、小銭を大切にするようになった。例えば外出時はペットボトルにミネラルウォーターをつめて缶ジュースを買わないようにしている。これだけで一日300円程度は軽く浮いてしまう。またレンタル店ではDVDではなくVHSを借りる。DVDは一枚240円、VHSは一本100円(一週間レンタル・ゲオの場合)だから140円浮く計算になる。これだけで一日のノルマである「一日150円貯金計画」のノルマは達成されてしまう。

 「小銭のありがたさ」。
 このことが如実にわかってきたのも「一日150円貯金計画」を実践し始めてからである。

 たった一円。
 たった10円。

 しかしその一円や10円を稼ぐことの大変さが「身に沁みて」わかってきた。
 小銭のありがたさを実感すれば、小銭をバカにしなくなる。そうすれば大きな金額を扱う時はさらに慎重になるだろう。

 「チャリン!」

 この貯金箱で10円玉が弾ける音はまぎれもなくわたしの資産が増えてゆくことである。素晴らしいではないか。

 さてこの様々な善い効果のある「一日150円貯金計画」諸君も実践してみてはいかがかな。
 
 「お金」というものを見る眼が違ってくる。
 これは確かである。

 

 

ホームレスにならない方法

 

 一昔前であったと思う。

 「ごく普通のサラリーマンがホームレスになる時代」というNHKの番組があった。それによると住宅ローン返済中のサラリーマンがリストラされることで、住宅ローンを支払われなくなり、やがて家も持ち物も担保に入れられホームレスになってゆくのだという。

 東京中心とはいえ、好景気の追い風が吹く中、この「怖い話」は過去のものになりつつあるらしい。
 しかし現在でもホームレスは増え続けている。もちろんそれは「格差社会」などという抽象的な話で結論つけられる話ではない。
 昨今クローズアップされた「がん難民」、これは「がんになっても満足な医師の治療を受けられない人」を意味する。なぜ受けられないか?答えは簡単だ。治療を受けるだけのお金がないのだ。
 これはがんだけに限らない。心筋梗塞、脳梗塞、その他悪質な成人病すべてに当てはまる。

 現在は単に「借金」だけでホームレスになる人は少ない。「借金」から「自己破産」に進み最後はホームレスになってゆく過程には大抵なんらかのカタチで「病気」が絡むのである。これはあまり語られていないことであるが事実である。

 病気になればとにかくお金がかかる。入院費もバカにできない。ましてや手術などなおさらである。そうこうしているうちにその人は追い詰められてゆく。
 もちろんそういう経済的な面だけではない。老人が大病をすると突然グッと老け込む現象と同様に、極めて若い年齢の人物であったも大病をすると大きな精神的ダメージを被る。そして仮にその病気が完治したとしても心の傷は癒えず、仕事にも生活にも意欲がもてなくなり、除除に社会現実から離れてゆく。その先に待っているのは言うまでもない、「ホームレス」だ。

 
 
 「病気からホームレスへ」。

 この堕地獄に巻き込まれたくなかったら、諸君。
 
 ひたすら身体を鍛えることだ。
 「メタボリック症候群」は単にNHKの「試してガッテン」のネタではない。万病の元である。「メタボリック症候群」から逃れるためにわたしたちはまず簡単に出来る健康法として「ウォーキング」を実施したほうが良い。これはただヒマな時に家の周りを歩くだけの健康法であるが効果は絶大だ。諸君に大いにお勧めだ。

 また最近は35歳をすぎても人間ドックに入らない人が増えているらしい。これははっきり言って危険である。重要な病気は重くなってからでは遅いのだ。

 身体さえ丈夫ならば、人生において少々の難に直面しても乗り切ってゆける。しかし病気になってしまった人はもろい。

 「健康」とはかけがえないものである。現在健康な諸君はこれを維持してホームレスにならないようにお互い気をつけようではないか。