「明日の神話」見学記

 

  

 

  情けない音を出しながら、電車が山の手線新橋駅で止まる。
 「ぷしゅーーー、るるるるる・・・・・」

 わたしは痛む足を引きずりながら電車を降り改札を出ると汐留方面に向かって歩き出す。

 8月も後半のある曇天の日曜日、東京。その日はわたしがこの眼で岡本太郎の巨大壁画「明日の神話」を見学する日であった。

 「たかが壁画一枚のために東京行ったのー?信じられなーい。くすくす。」
 
 などと嘲いたいものは嘲うがよい。わたしは黒猫館平成日記で何度も強調しているがほんものの藝術作品というものは自分の眼でみないとダメなのだ。自分の直眼で実物を直視する。そのときにそ藝術作品の凄さというものがわかってくるであろう。

 汐留日テレタワーが見えてきた。すばらしくゴージャスな建物である。横からお祭り広場に入るとず見えたのがトンでもない数の人、人 、人である。これではとても壁画どころではない。それでも押し合い、へし合いながらお祭り広場の奥に歩を進める。
 その時、巨大な壁画がわたしの眼の前に出現した。

 ドクドクしく血のような真っ赤な画面、そしてその中央で火に炙られながら疾走する骸骨、そして骸骨を取り囲むバケモノの群れ、そして画面の一番端で小さく生まれ出る子供達。

 これが今世紀最大の絵画作品とも謳われる「明日の神話」であるのか!をを!





 わたしが割目したのはそんな「をを!」と叫んで終わるだけの無意味にデカイだけのこけお
どしではない。
 特に注目した部分は従来の原爆の図にありがちなただ悲惨なだけの画風ではない点である。 真っ赤に燃えさかる地獄のような世界にあってもおおらかに明るく、時にはユーモアさえ交えながら、大胆に人間と世界を肯定してゆく。
 岡本太郎のこのダイレクトなメッセージはわたしの考えと共通である。どんな苦境に立たされてもおおらかな笑いを忘れてはならない。「明日の神話」の底知れぬエネルギーはそんなそこ抜けに暗く底抜けに明るい超巨大なスケールの大きさからくるのであろう。

 また「明日の神話」会場に集う人々の表情のなんとイキイキとしていることか!老若男女、みな、ある者は笑い、ある者は深刻に、ある者は深く苦悩しながら画面に見入っ
ている。
 まさにこれこそが本来の藝術作品というもののあり方だ。
 藝術作品とは一部の特権階級や好事家のものであってはならない。いつの時代も民衆のためにあり民衆と共に歩み続けるものだ。 断っておくが、わたしは「大衆」という言葉が大ッ嫌いだ。
 曇天の空の下、「明日の神話」は確かに明日へむかっての現代の神話であった。

 最後に「明日の神話」修復プロジェクトのクルー、そしてその総指揮を執った岡本敏子氏、そしてなにより無料で「明日の神話」を公開するという英断に踏み切った日本テレビ関係者の方々に感謝しながら本日の筆を置きたい。

 「ありがとう。」

 そしてまたわたしも明日へ向かって平凡な道のりをとぼとぼと歩き出す。

 

 

 

 

 

(C)黒猫館&黒猫館館長