理想と現実のはざまで

 (講演2002年4月12日(金))

 

 自慢するわけではないが、私は高校の倫理の時間に「150点」もらったことがある。これはどういうことかというと倫理の教師が私の書いた答案(記述式)にあまりに感心していまい、100点ではもったいないと判断し、150点という点数をつけたというわけだ。しかしこれは厳密には私のその時の得点は100点だったわけで、のこりの50点は次回の私の点数に加算されるという仕組みである。
 それでは私はそんなにがむしゃらに倫理の勉強をしたのかというとそういうわけでもない。私は倫理が楽しいと思ったから、普通に勉強しただけである。それでは私に倫理を「楽しい」と思わせたものはなんだったのだろうか? 
 それは端的に言えば倫理の教科書のなかにはありとあらゆる「理想」が詰まっていたからだと思う。高校生だったころの私はとにかく「理想」が好きだった。ありとあらゆる人間ひとりひとりが平等で、自由に生き、楽しく、幸福であるべきだ。・・・高校生のころの私は頑なにそう信じていた。倫理の教科書はそういったユートピア到来のための適切なマニュアルに思えたのだ。
 そして私は高校卒業後、大学へ進み、哲学を専攻した。私の専攻はドイツ観念論であった。イマニエル・カントの『道徳形而上学原論』を読み、目からウロコが落ちたのもこの時だ。「ありとあらゆる人間の心理のなかで最高に評価されるものは『善意志』である。」という一節を読み心底そのとおりだと思った。いまでも私はこのカントの善意志に従って行動している。「汝、為すべし」(定言命令)に従って善なる行為を実行しようと思っている。
 しかし大学卒業後、社会人となった私に大きな壁が立ちはだかった。それは「強迫神経症」である。私は警察に尾行されていると思い込んだり、秘密結社に暗殺されるのではないか・・・?というありもしない妄想に苦しめられた。ついに心配した家族によって神経科の門を叩き、医師のカウンセリングを受けることとなった。
 その医師は私の症状を聞くと、開口一番こう言った。「あなた本当にやりたいことをやってないだろう?」・・・私はこの医師の言葉に自分を否定されたような気がして、しばらく怒っていたが、冷静になってよく考えてみた。
 確かに私はその時点まで哲学一筋で生きてきた。しかし哲学というものが私にとってドグマ(教条)となって、高校生の時の「哲学への純粋な喜び」が失われているのではないか?と思った。「楽しい」から哲学するのではなく、「すべき」であるから哲学するという硬直した姿勢が身についてしまっているのではないか?そう思った。
 私はこの話を医師に話すと医師はうれしそうに言った。「やっとわかったか!」、、、つまり医師によると「・・・すべき」という思考パターンは物事への「こだわり」を生む。ものごとにいちいちこだわる生活を続けていると、その「こだわり」がエスカレートして「こうあるべきだ」がいつのまにか「こうであるに違いない」というありもしないものへの確信に変わる。その時、「強迫観念」が登場するのだと。
 私は茫然自失とした。よかれと思ってやっていた哲学によって私は「害」を被ったという事実に愕然とした。(その時期、私は強迫神経症を理由に職場を退職し、「無職」の状態だった。)私は哲学など糞食らえと思い、哲学を止めた。

 そして時は過ぎた。30歳を過ぎたころからまた私は自分が哲学したいと思いはじめた。ドグマにとらわれることなく、純粋な喜びのみを動機とし哲学をする。それは本当は一番難しいことなのかもしれない。
 しかし私はまた哲学しようと思う。高校時代の「理想」・・・それは現在では「希望」に変わったようだ。道は開ける。人間の叡智には限界というものはないのだから。これが今後、哲学に再入門しようとしている私の基本スタンスである。