(この部屋では黒猫館館長が日々思うことを徒然なるままに書きとめた文章が収められています。)

 

 

 

2005年4月8日 職務質問
2005年4月9日 ペットを飼おう
2005年4月14日 神社に行こう
2005年4月16日 卒業
2005年4月18日 通天閣に行きたい
2005年4月19日 顔について
2005年4月20日 お風呂の効用
2005年4月22日 幽霊トンネル
2005年4月25日 子供のチカラ
2005年4月27日 横浜への旅
2005年4月30日 頭髪について
2005年5月3日 カエルへの哀悼
2005年5月7日 不定愁訴
2005年5月11日 初めてのデート
2005年5月18日 丁寧な字を書こう
2005年5月25日 セックスしよう
2005年5月27日 電脳の魔界
2005年5月31日 欲を断つ
2005年6月4日 にんにくを食べてみよう
2005年6月10日 血で書かれた文字
2005年6月24日 たまには泣いてみよう
2005年7月2日 「ありがとう」の勧め
2005年7月12日 独身男性の性生活
2005年7月25日 いつも心にくらやみを
2005年8月6日 ヒロシマ・ノオト
2005年8月15日 歯を磨こう
2005年9月3日 妖精のおはなし
2005年9月9日 部分と全体
2005年9月18日 右手がかってに動き出す
2005年9月21日 笑って暮そう
2005年9月29日 呼吸と健康
2005年10月5日 宇宙人への手紙
2005年10月8日 暗愁の秋に
2005年10月19日 さようならドラえもん
2005年10月31日 さらけだす
2005年11月6日 魚を食す
2005年11月17日 鯉を観る
2005年12月1日 幼年幻燈館
2006年1月10日 フェイスメンテナンス
2006年1月20日 謙虚に生きる
2006年1月23日 エネルギー一定の法則
2006年2月4日 待つ
 

 

 

 

職務質問

 

 夜。11時。
レンタルビデオを返却するため自転車に乗る。

くらがりへと飛び出す。

くらがりのなかを疾走するわたし。
その時。
眼前に蠢くふたつの影!!
ふたりの男がわたしをさえぎった!!

ふたりの男はわたしの自転車の右上と左下にぴっちりくっつく。
これは逃げられないための囲いだ!

K官「あなたど行くの?」
わたし「レンタルビデオ店です。」
K官「へー、こんな遅い時間にねえ」
K官「どんなビデオ?」
わたし「ホラービデオです。(汗)」
K官「(ギラリ)・・・ホラービデオねえ・・・」

じわりじわりと舐めまわすようにわたしは質問される。

その瞬間わたしの脳裏に写る映像!
逮捕状なしで逮捕され拘置所にぶち込まれ地獄のような取り調べ!!
『やったんだな?え?やったんだろ・・・
言ってしまえば楽になるぜ・・・』

やがて腰縄をかけられ裁判所に引き出され、
無表情な裁判官の鉛色の声が重く響く。
「主文・・・被告人に死刑を言い渡す・・・」

わたしは恐怖で気を失いそうになる。

次の瞬間、K官は言う。
「行ってよし」

神のごとき慈悲溢れる声に泣き咽びながらレンタル店に向かう
わたし。

煌煌と光るレンタル店に転がり込んで、わたしは思う。

「九死に一生を得た気分だ・・・」

というわけで。
みなさん、夜中に出歩くと怖い経験をする可能性があるので
止めましょう。

(おしまい)

 

 

  

 

ペットを飼おう

 



チャボ
ウサギ
インコ
コイ
金魚
カメ
カブトムシ

等。

 我ながらイロイロなペットを飼ってきたものだと思う。 やはり自分は「動物おたく」なのだ。「動物」が側にいないとなんとなくそわそわして気が収まらない。

しかし何ゆえ「動物」はかくも魅力的なのか?

 まず「カワイイから」、これが一番の理由であろう。 しかし「カワイイ」とはどういうことか?理論的に説 明するのが難しい。

 まず「カワイイ」ものは見ていて「癒される」これが 第一の条件である。池で優雅に泳ぐ鯉。これをじっと 眺めているだけで幸福な気分になるではないか。

 かように「ペット」は精神衛生上まことに善いものだ。 なるべくなら飼ったほうが善い。(動物苦手の人は除 く)しかし飼うからには「責任」の認識が必要だろう。 最後まで飽きずに面倒みる。この認識を欠いた飼い主 のために「捨て犬」「捨て猫」の悲劇が起こるのだ。

 子供の情操教育にもペットは善い。カワイイだけでは ない。「命」というものの儚さ、それゆえにこその尊 さを子供に学ばせるには「ペット」は絶好の教材であ る。

 さあ、これを読んでいる君もペットを飼ってみてはい かがかな?新しい世界が開けるかもしれぬ。

 

 

 

神社に行こう

 

 神社。

なんという心休まる場所ではないか。

木立の群れ。
鳥居。
駒狗。
三猿。
そしてお賽銭箱。
ガラガラ鳴る鐘。

  このような場所に座して暖かいウーロン茶を飲んでいれば
おのずからこのような歌が連想されてくるというものだ。

  「こんなにも湯呑茶碗は暖かく
        しどろもどろにわれはおるなり」
          
         山崎方代『右左口』(短歌新聞社)より引用

 この短歌で方代が「しどろもどろ」になってしまうのは普
段なにげなく飲んでいる「お茶」というものの「暖かみ」、
「有りがたさ」というものに気づいたいたからであろう。

  方代ではないが神社というものはそんな普段意識しないも
のの「ありがたみ」を実感させてくれる場所だ。思わず合 掌
したくなるのも無理はない。

  また神社は風水的に重要な地点に建てられているのでそこ
にいるだけで「癒し」の効果があるという。神社とは隠れ たパワ
ー・スポットなのだ。

 また「かみさま」に対する畏敬、そのようなものも神社に
行くと実感できる。わたしは各種宗教の信者ではないが「
人間を超えた存在」への畏敬の念だけは忘れずにおりたい
と思っている。畏敬の念は人間を謙虚にさせる。謙虚な心
を持たない人間は威張り散らし、傲慢になり、他人を傷つ
け、そして最後には自分が駄目になる。反対に謙虚な心を
保っている人間は他人の長所を発見できる。他人の長所を
発見すればそれを自分の長所として取り入れることも可能
だ。人間にとって「謙虚な心」は精神的成長に欠かせない
ものだ。

かように心身両面に善い効果のある神社、さあこの日記を
読んでいる君も行ってみてはいかがかな?

 

 

 

卒業

 

 春。
卒業シーズンである。

「卒業」。この言葉には、いつもなにか切ないニュア ンスが付きまとう。

卒業式の朝。

いつもより光輝いてみえる校舎。
以前より格段に引き締まったクラスメートの顔。
担任の教師の「最後のお話」が身に染みる思い。

「学校とのわかれ」 「社会への旅発ち」

そのような現代のイニシエーション(通過儀礼)が「
卒業式」というものであるのだろう。

それでは「生徒」「学生」と「社会人」はどう違うの
か?それはわたしが思うに「与えられる者」から「与
える者」の違いであると思われる。

「生徒」「学生」は各種サービス・金銭・そして社会
からの「思いやり」を与えられる。

「社会人」は各種サービス・金銭・そして社会への「
思いやり」を「社会貢献」という名で与える。

中島みゆきの詞に人間が龍に乗って雨雲を運んでゆく
という内容のものがある。

その詞で言う所の「雨雲」とは人に与える恵みの雨、
すなわち社会貢献を意味するのであろう。この歌が主
題歌になっている『Drコトー診療所』は主人公の
青年が医者一人いない孤島へと唯一人の医者としてあ
えて身を投ずるドラマだ。

かように「卒業式」とは「与えられる者」から厳しい
「与える者」への変身の時なのである。その悲愴な決
意がある種の切なさとなって湧き上がってくるのが、
「卒業の日」なのであろう。社会とは一筋縄ではいか
ない。「生徒」「学生」時代には思いも寄らなかった
困難にぶつかることもあるだろう。しかしその困難を
乗り越えるたびに人は少しづつであるが精神的成長を
遂げてゆく。社会・他人との軋轢を経ずしての人間的
成長などありえないからだ。

今年から新社会人になる諸君、ひとりの「大人」とし
ての誇りと自覚を持って頑張って欲しい。

  

 

通天閣に行きたい

 

 通天閣に行きたい。

といってもわたしは別に通天閣に特別の思い入れがある
わけでもないし、 そもそもわたしは通天閣という物件
について良く知らない。

 それでもなんとなく行ってみたいのだ。「なぜ行きたいのだ?」
と問われると返答に困る。「大阪には通天閣があるからだ。」
と某登山家のごとく答えるしかない。

わたしは一度だけ「東京タワー」に登ったことがある。そこに
あったものは昔懐かしい「ガチャガチャ」やなぜか一羽だけぼ
つねんといる九官鳥、なにをモチーフにしたのか良くわからな
い人形などがあった。それらのものたちがなにか見捨てられた
遺跡のようにどんよりした物悲しさを漂わせていたのを覚えて
いる。

通天閣に行けばこのような「物悲しさ」をより濃厚に味わえる
のではないか?とわたしは思う。これは単にわたしのイメージ
が作り上げた妄想かも知れないのであるが、なぜかそう思うの
である。

その昔、通天閣がロケットになって宇宙に飛び立つという漫画
があった気がする。とすると通天閣がわたしに向けて放つイメ
ージとはもしかしたら高度成長期に人々が抱いた薔薇色の夢の
残骸を弔いたいという思いであるのかもしれない。

通天閣には「ビリケン」という神様がいるという。通天閣に行
ったらこのビリケン様にお祈りしたい。いつの日か本当に通天
閣が ロケットになって宇宙に飛び立つ日が来ることを。

 

 

 

顔について

 

 自分の顔を鏡で見る。

その時いつも思うのは「老けたな〜」という感慨である。
もちろん人間であるから加齢すれば老けるのは決まって
いる。しかし人によっては20代なのに40代に見られ
る人、40代なのに20代後半程度に見られる人などが
いる。

「一笑一若 一怒一老」

これは中国の諺であるが、「怒り」に限らず「不安」「
イライラ」といったマイナスの感情にとらわれていれば
人間の顔はどんどん老けこんでゆく。

具体的には怒ると顔が歪む。するとおのずから目じりに
立皺がよる。一度よった皺はそう簡単には取れない。

「怒り」「不安」「イライラ」こういう感情にとらわれ
ないのが一番良いが複雑な現代社会では完全にとらわれ
るのを防ぐのは難しい。ではどうしたらよいのか?

「顔で笑って心で泣いて」

と良く言われるがこれは一理ある。物事というものはす
べてカタチから入るものだ。それ故、どんなに機嫌が悪
くても「ニッコリ」を習慣つけたいものだ。「ニッコリ
」と微笑んでいれば心も「ニッコリ」してくる。一見ナ
ンセンスな問答のようだがこれは本当の事だ。心が「ニ
ッコリ」していればまた逆に顔が「ニッコリ」してくる。
良い循環が始まっているのだ。

わたしも今日から「ニッコリ」を心がけたいと思ってい
る。この日記を読んでいる諸君もぜひ「ニッコリ」をモ
ットーに生活してみようではないか?いい効果があるの
は間違いない。

 

 

 

お風呂の効用

 

 

健康を保つ上でなにが重要かというとまず、「バランスのとれた 食事」「十分な量の睡眠」「適度な運動」が必要不可欠である。もうひとつ 付け加えるならば「ストレス解消」であろう。しかし忙しい 現代人がそれほど簡単にストレスを解消できるとは思われない。
まず「スポーツクラブへの入会」「ヨガ教室へ通う」などは
金銭的・時間的に誰にでもできることではない。「好きな音楽 を聞く」「ビデオを観る」これらもストレス解消になるかも
しれないが、この二つは「精神面」に働きかけるだけで「身体面」 にはほとんど影響しない。

そこで「精神・身体」両面において、日常的にできるストレス解消法 が「お風呂に入る」ことである。入浴は身体の血行を良くし、 脳にばかり集中している血液を全身体に分散する。これによ って「イライラ」がおさまり、全身の血流が良くなるので身体面 への効果も期待できる。さらに入浴後の爽快感は「機嫌の悪さ」 を吹き飛ばしてしまうだろう。

もちろん、お風呂に入る時、は「ゆっくり」「のんびり」が基本である。ラジカセで音楽を鳴らしても良いし、本を読んでもいい。(濡れてもいい本だけ)アロマテラピーと併用するのも一種の方法であろう。

仏教では身体を清めることが、心を清めることに繋がるという 考えがあるらしい。これは心身一如を信条とする仏教ならでは の考えであろう。また古代の女帝・持統天皇が奈良県の温泉 に通って健康と若さを保ったという話も伝わっている。

かくのごとく、健康に非常に良いお風呂というものをストレス を抱えこみ苦しんでいる現代人は再評価するべきであろう。

 

 

 

幽霊トンネル

 

 もうかなり昔の話である。

わたしの友人に画家の「ギーガー」の非常に熱心なマニア
がいた。仮にその友人を「友人A」と呼ぶ。「友人A」は
トレヴィルから出た「ギーガー画集」をすべて持っていた
り、映画『エイリアン』を何度も繰り返し観ては感動して
いるといったちょっとした変わり者であった。

その友人Aがある日ぼつりと言った。

「『ギーガーズ・バー』に行きたい。」

その当時、ギーガー自身がデザインしたという「ギーガー
ズ・バー」なるものが目黒駅から少し歩いた場所にあった
のである。友人Aはひとりでは怖いし寂しいから一緒に来
いという。わたしも「ギーガーズ・バー」なる物件を観た
かったので早速OKして場所を調べた。

すると「ギーガーズ・バー」は目黒駅から降りて麻布方面
に歩き、「白金トンネル」を抜けた場所に存在しているこ
とがわかった。その瞬間、わたしはなにか嫌なかんじがし
た。「白金トンネル」といえば東京でも有数の「心霊スポ
ット」ではないか。しかし今更いかないとも言えない。し
ぶしぶわたしは行く日と時間を約束した。

その日はどんよりした薄曇りの日であった。わたしと友人
Aは夕日が沈むのを見ながら、目黒駅から歩きだした。す
ると以外と早く「白金トンネル」に到着した。しかし別に
怪しい雰囲気はない。ふたりはとぼとぼトンネルに入って
いった。ヤケに長いな・・・と思った瞬間、トンネルを抜
けていた。別になにもないではないか?と思いわたしたち
は「ギーガーズ・バー」に入っていった。

「ギーガーズ・バー」は予想した程のおどろおどろしい物
件ではなかった。壁にギーガーのデザインしたレリーフが
貼ってある程度のものであった。・・・ふと気がつくとな
んと10時を回っている。わたしは友人Aをせかしてバー
から出た。

するとまた「白金トンネル」である。わたしは嫌な予感が
した。「行きはヨイヨイ、帰りはコワイ」。しかしこのト
ンネルをくぐって帰るしかない。

深夜のトンネルは夕方よりずっと長く感じられた。歩いて
も歩いても出口が見えない。友人Aも無言であった。トン
ネル内の灯りがどくどくしく紅い。・・・嫌な雰囲気にな
ってきたな・・と思った瞬間に出口が見えた。

その時、あることが起こった。

友人A「・・・うッ!!」
わたし「ど、どうした!?」
友人A「う、、、う、、う」
わたし「だから!どうしたんだ!?」
友人A「うんこ踏んだ〜」

とこれだけなら落語のオチにもならない、陳腐な話である。
しかしなにか妙なのである。普通、トンネルにうんこが落
ちているなどということはまずないのだ。犬のうんこなら
ある可能性はある。しかしトンネルに深夜犬を連れて散歩
に来 る人間がいるであろうか?さらにそもそも行く時はそん
な ものはなかった。

人間には知ってはならないことがある。その知ってはなら
ない世界の入口までわたしと友人Aは踏み込んだのかもし
れぬ。ポッカリと不気味に開いた「白金トンネル」の入口
に吸い込まれるように。

「怪を語れば怪きたる」

わたしもパソコンの画面から転じて背中の方を振り返りた
くなってきたので今夜の話は終わりである。

もう一度念のため言っておこう。

「人間には知ってはならないことがある。」

 

  

 

子供のチカラ

 

 

 子供。

小学校の校庭を観るが良い。

ブランコをこぐ子供。
すべり台から滑りおちる子供。
砂場で砂遊びに夢中な子供。

あまりにも活き活きとした生命の躍動だ。

子供のチカラは総方向に向かって爆発する。

例えば国語。
「雪が溶けたらなにになる?」(先生)
「春になる。」(子供)

なんという素晴らしい問答ではないか。

例えば図画工作。
子供の描く絵には「制約」というものがない。
自由自在だ。
大人が見たら飛び上がるような表現を簡単に描く。

わたしが日本で最も尊敬する芸術家のひとりである
岡本太郎画伯も言っている。

「子供はみんな天才だ」

そのとおり。
まさにそのとおり。

また子供には妥協がない。
「本気なもの」だけを鋭く見抜く。
「手抜き・惰性の産物」は残酷なほどに鋭く切り捨てる。

子供番組のプロデューサーは言う。

「大人は騙せても子供は絶対騙せない。
だからもう全知全霊で番組造りに取り組むしかない。
そうしないと見破られる。」

わたしは児童書が好きだ。
例えば立風書房のジャガーバックス。
石原豪人や秋吉らんなどの有名画家の素晴らしい絵が躍動する。
そして詩文にも似たダイレクトな文章。

古書の世界で高くなるのはいつの時代でも最終的には児童
書であるという。これもまた「児童書」には「本物」が多い
証拠だ。いや児童書に本物が多いのではなく、「本物」でなく
ては「児童書」であることなど務まらない、というべきか。

さあこの日記を読んでいる大人の諸君。
もうすでに忘れさって何十年にもなる「子供の心」を部分的
にでも良いから思い出してはいかがかな?

君の深層意識に眠る、躍動する子供のチカラが再び活き活きと動き出
すのかもしれぬぞ。

 

 

 

 横浜への旅

 

 

 スランプに陥った時、人はどうするか?

ある人はパチンコをやるだろう。
ある人はオールナイトの映画を観るのかもしれない。
またある人は深夜こっそりと風俗店に行き、一夜の快楽を貪る。
もちろん唯ひたすら寝てしまうという人もいる。

わたしの場合は「横浜へ行く」。

理由などない。
足が自然に動いて気がついたら横浜に着いているというあんばい
なのだ。

まず「新宿駅」から「中央線快速」に乗り、「神田駅」で降りる。
なぜ「東京駅」まで行かないのかというと「東京駅」は複雑す
ぎて方向音痴のわたしでは迷子になるからだ。「神田駅」に居る
とするすると「京浜東北線」が滑り込んでくる。「京浜東北線」
は空いているので大抵座れる。ゆっくりと腰をかけ、流れてゆく
景色を観る。「品川」「大森」「川崎」とどんどん電車は滑って
ゆく。やがて「横浜駅」に到着だ。しかしそこでは降りない。
そのまま乗って「関内駅」まで行き、そこで降りる。

「関内駅」で降りたらまず「親不孝通り」に行く。なぜこの
小路が「親不孝通り」と呼ばれているのか、わたしは知らない。
もしかしたら親不孝なほどに遊んでしまうほど楽しい通りであ
るから「親不孝通り」であるのかも知れない。

「親不孝通り」をずんずん進んで行くと巨大な雑居ビルが見えて
くる。このビルの上の階に登る。そのフロアは巨大な古本屋だ。
わたしはかってこの店で人生で初めて、少年画報社版・楳図かずお
著『笑い仮面』(全一巻)を観たことがある。漫画好きな人なら
この本がいかにレアな本であるのかわかってくれるだろう。しか
しその本がガラスケースの中に入っているのを目撃した当時の
わたしはお金のない学生であった。もちろん高すぎて買えなかっ
た。悔し涙がノドを伝っていったのを覚えている。しかしこの
店では式貴士の最後の著作『アイス・ベイビー』(CBSソニー)
を600円で発見したことがある。それだけでわたしにとっては
有りがたい店だ。

さてこの古本屋を出たわたしはそこらをぶらぶらして再び関内駅
に戻る。

関内駅から再び下り電車に乗る。するとすぐ「石川町駅」だ。
「石川町駅」から降りたわたしは腕時計を見る。時間が夕方5
時まえだったら、元町へ向かい右の道路へ折れる。そして
どんどん歩いてゆく。30分も歩くと「シネマコンプレックス
本牧」が入った巨大ビルが見える。まるで砂漠のような荒涼と
した土地に突如出現する巨大ビル。これはなかなかSF的な光景
である。

「シネマコンプレックス本牧」では本当にいろいろな映画を
観た。『ニューシネマ・パラダイス』や『ピアノレッスン』
を観たのもこの館だ。不思議なことにこの館で観た映画には
外れというものがない。

映画がはねたら巨大ビルの地下にある「ケンタッキーフライド
チキン」で鶏肉を食し、再び、元町方面へ帰る。元町に到着し
たら、洒落た喫茶店に入り、紅茶を飲んで足の疲れを癒す。
(わたしはコーヒーがノドを通らない体質なのだ。)疲れが回復
したら再び本町へ出て、山下公園を目指す。

山下公園へ到着する。そこに見えるのは夜の底知れぬ深い海だ。
この海を観ることが横浜へ行く目的であったのだ、とわたしは
悟る。すべての生物は海から産まれ、そして海から来た。やがてまた時がくれ
ば人間は 再び海に戻ってゆくのだろう。海とはすべての生物の故郷だ。
そこに行くことでスランプが解消される、至極当然の話では ないか。

さて時計を見ると、もう10時を回っている。わたしは山下
公園から横浜球場方面に向かって歩きだす。するとすぐ再び関内駅だ。

関内駅から京浜東北線登り電車に乗ってわたしは東京駅へと
帰ってゆく。ありふれた日常がまつ「東京」へと。

帰りの電車のなかから見える川崎周辺の街のともしびがなにか
やたらと哀しいのはなぜだろうか?いや哀しいのは街ではなく
ひとつの旅の終ったという哀愁であるのかもしれぬ。演歌では
ないが「旅の終わり」というものはいつも哀しいものだ。

さて旅行とはなにもヨーロッパに行ったり、グアムへリゾート
に行くばかりが旅行ではない。週末を利用しての小旅行もまた
立派な旅行なのだ。東京在住のひとなら別に横浜でなくても
千葉でも大宮でも良い。気軽に電車に飛び乗って「小さな旅」
を経験してみることは楽しいことだ。スランプ脱出だけではな
い。確実にほんの小さい部分ではあるが自分の中のなにかが
変わる。

「旅はひとを変える。」

そのとおり。
まさにそのとおり。

わたしは山下公園の夜の海を見て変わった。さてもし君がこれ
から旅行に行くとしたらどこでなにが何が変わるのかな?大い
に楽しみではないか。

  

 

 

頭髪について

 

 

毎朝、「カロヤン」を頭にふりかける。髪につけるのでは
ない。頭皮に染み込ませるのだ。そして15分は頭皮のマ
ッサージを行う。カロヤンが地肌に浸透してくる。良い気
持ちだ。こうしてわたしの一日は始まる。

といってもわたしの使っているのは「カロヤンS」である。
「カロヤン アポジカ」などは高くて買いたくない。「S」で
さえも高い店だと3600円はする。1900円で買える
のは「マツモトキヨシ」だけである。なぜ他の店も「マツ
モトキヨシ」並に安くできぬのか。
薬局業界の内幕が知りたい。

さて昨今10代〜20代の諸君の脱毛症が深刻であるという。
脱毛のことを心配するあまり自殺を考えている者
さえいるという。
それほどまでに若い男性にとって脱毛症は恐怖なの
だ。わたしとて学生時代に一度髪が薄くなった時がある。
その時の忌まわしい絶望感は今でも思い出したくはない。それほど不愉快な体験であったのだ。

さて脱毛を予防するには「カロヤン」をつけるだけでは駄
目だ。まず髪を清潔に保つこと、頭皮のマッサージを行う
こと、これが「外側」からできる予防法である。「内側」
からできる予防法としては「タンパク質」を多く採る(髪
はタンパク質から作られる。)こと。適度な運動。そして
一番重要なのが「悩まない」ことだ。具体的に言うとぐー
ーーーと悩みこむと脳に血液が集中する。しかし頭部に行
く血液の量は一定であるから、おのずから頭皮へゆく血液が減る。血液から栄養分をもらえない髪は当然のごとく細く弱くなってゆく。

 さてわたしは昔に比べて難しいことを考えたり悩まなくなったのが幸いであるのか、頭髪は一定量を保っている。喜ばしいこと である。

 健やかに、穏やかに、暮らしていれば脱毛は防げる。これ
がわたしの持論である。さてこれから風呂に入り、髪を洗
うとするか。風呂は善い。全身の血流が良くなる。当然頭
皮の血流も良くなる。また気分も爽快になる。脱毛のこと
も忘れられる。良いことだ。さて風呂が焚けたようだ。そ
れでは諸君また会おう。

「快適に暮らすことなしには善く暮らすことはできない。
 善く暮らすことなしでは快適に暮らすことはできない。」
   
       岩波文庫『エピクロス〜教説と手紙〜』より引用。

  

 

 

カエルへの哀悼

  

 「子供は残酷だ。」

大人たちは時折そんな言葉を口にする。

そのとおりだと思う。

大人は「限度」というものを知っている。しかし子供は「限度」
を知らない。思い込んだらとことん残酷になる。それが「子供」
というものだ。

わたしが好きな怪奇漫画家・日野日出志の代表作『地獄の子守唄』
(ひばり書房)に少年期の日野氏自身が登場する。さよう。この
漫画は日野氏の自伝であるのだ。

この漫画の中の少年・日野氏は猫を丸焼きにしたり、犬の首を
ノコギリで切ったりする。

これはいささか誇張した表現であるとしても、誰もが思い当たる
節はある筈だ。子供の頃の冥い記憶の中に生き物を残虐に殺戮し
た血みどろの光景があることを。

わたしの場合はカエルだった。カエルを捕まえては松の針状の刺
でカエルの目玉を抉った。カッターで四肢を切断した。熱湯にカ
エルをぶち込んだ。ニワトリにカエルを与え、丸呑みにされるの
を嬉々として観ていた。

そんなある日、わたしはカエルの両手両足をピンで地面に貼り付
た。そして解剖用のメスでカエルの腹を裂いた。やがて極彩色の
内臓が現れた。この時点ではカエルは全く反応しなかった。次に
ピンセットでカエルの内臓を引きずりだした。小さなカエルの体
からは想像もつかない大量の臓物・・・その時、あることが起こ
った。

カエルが突然身をよじって動き出したのだ。

その瞬間わたしは悟った。

「カエルが痛がっている。」

わたしはゾッとした。いやゾッとするどころではない。なにか絶
対に見てはいけない忌まわしいものを見ている感じがしたのだ。

次の瞬間わたしは泣きながら、家へ駆け込んでいた。そして自分
の部屋でぶるぶるといつまでも震えていた。


さてわたしが日本で最も好きな詩人のひとりである村上昭夫の詩
にこういうものがある。

「ねずみを苦しめてごらん
 そのために世界の半分は苦しむ
 
 ねずみに血を吐かせてごらん
 そのために世界の半分は血を吐く」

          村上昭夫『動物哀歌』(Laの会→思潮社)より引用。

この詩の意味をわたしは論理的な言葉で説明することはできない。
しかしこの詩を読むたびに、わたしの脳裏にあの身をよじって痛がる
カエルの姿が浮かぶのだ。

誰もが、いや生き物であるならば、すべて

「身を切られるならば 『痛い』のだ。」

こんなあまりにも基本的であるが故にあまりに
も本質的な事柄をあのカエルは身をもってわたしに教えてくれた
のだ。このことに気づかずにそのまま大人になっていたら、わた
しはもしかしたら猟奇殺人に手を染めていたのかも知れぬ。

だからせめて合掌しよう。そして祈ろう。わたしが殺したカエル
たちのために、そしてあの身をよじって痛がっていたカエルのために。

どうか君たちがもう絶対に痛みを感じることがない、そん
な世界へ行って安らいでいることを。

 

 

 

 

不定愁訴

 

 最近は随分良くなったが、長年「不定愁訴」に悩まされて
きた。具体的な症状は飛粉症(視野に黒い点が現れる)、
足のダルさ(椅子に座っていられない)、過敏性大腸などである。
特に一番ひどかった症状は深夜いきなり眼が覚める。すると心臓付近がまるで
押されるように痛い。いや痛いというより苦しいといった
ほうが正確か。この症状が起きたらもう死ぬのではないか
という恐怖に苛まれていた。

もちろん病院に行く。しかし医師にどこも悪くないと言わ
れる。当然薬もでない。しかし症状は治まらない。どうし
たものか?と散々悩んだものである。

そこで登場するのが「クロレラ」や「漢方薬」である。こ
れらの高価な薬を買って服用したが、どうも効いた気がし
ない。もしかしたらじわじわと効いているのかもしれない
が症状が良くなった気配はなかった。結局、「丸山ワクチ
ン」や「猿のこしかけ」と同じで、「クロレラ」や「漢方
薬」も宇宙の神秘のひとつなのだ、と考えるに至った。

とそうこうしているうちに症状が軽くなった。これは不思
議である。別になんらかの治療を施したわけでもない。気
がついたら良くなっていたのだ。

わたしが思うにこのような原因不明の症状はやっきになっ
て治そうとしている限り治らない。症状を気にせずに通常
の生活を送る、といつのまにか治っているという性格のも
のであるらしい。

これは日常生活の生き方にも当てはまる。何らかの「不安
」・「心配」は人間にとって避けられないものだ。だから
といって「不安」・「心配」にとらわれて生活がストップ
してしまったら不安や心配はますます強くなってゆく。そ
こで「不安」・「心配」を抱え込みつつ生活を地道に続け
るしかない。いわば両手に重い荷物を持ちつつ、疾走する
ようなものだ。そのような目の前にある「生活」に一生懸命に
なってい ると、不思議と「不安・心配」は薄らいでゆく。

わたしの不定愁訴の症状が軽くなったのもこのようなこと
が原因だったのであろう。なにごともとらわれてしまった
ら負けだ。何らかの負の要因は人間にとって避けられない
ものだ。そこで負の要因を自分の一部として共存してゆく
、これが不定愁訴から学んだわたしの人生を生きる教訓である。

  

 

 

 

初めてのデート

 

 

「彼、20歳。
 彼女、19歳」

という出だしで始まる小説があった気がする。
しかしわたしの場合は、

「彼、19歳
 彼女20歳」

であった。つまり「彼女」ほうが年上であったのである。

大学二年4月、某サークルのひとりに彼女は居た。
ぽっちゃりとした大柄な女性であった。

最初は雑談であった。
しかし少しづつ話しているうちに彼女は「アニメ」のファン
だということがわかってきた。わたしもアニメのファンであ
ったので彼女と話が弾んだ。しかしいつまでたってもサーク
ルで会う時だけ30分程度アニメの話をする、という程度の
関係であった。

その年の12月始め、サークルの会合で彼女は言った。

「会おうよ。」

わたしは自分を恥じた。自分の臆病さを。小心さを。このよ
な話は男性であるわたしから切り出さなくてはならなかった
のだ。なんという臆病者だったのであろうか?このわたしは。

というわけで。

その月のクリスマスイブ、わたしたちは池袋のサンシャイン
で会うことにした。時は1980年代半ば。バブルの狂乱が
日本を食い荒らす直前の一瞬の健やかな時代であった。

展望台に登ったふたりは本当にアニメの話に夢中になった。

「うる星やつら」の映画は本当に「4」で終わりなのか?」
「OVA版デビルマンの『シレーヌ編』はいつでるのか?」
「『戦え!イクサー1』に「イクサー3」を出すのは止めてほしい。」

などなど。

もう4時間も話したであろうか?時計が9時を回っている。
わたしたちはサンシャイン地下のマクドナルドでハンバー
ガーを食し、そして別れた。池袋駅前で「また会おう」と
言って。

しかしそれっきりだった。
彼女から電話はかかってこなくなった。
わたしからかけても彼女の親は「いまいません」と言った。
サークルにも彼女はこなくなった。

わたしは数週間茫然としていた。
そして一ヶ月後ようやく気づいた。

「振られたのだ・・・」

なぜ振られたのか、よくわからない。しかし振られたのは事
実だ。わたしは胸にぽっかり空いた喪失感を感じながら、い
つまでも怒り、そして悲しんでいた。小さな殺風景なおんぼ
ろアパートの一室で。

さて、これは恋愛というべきものなのであろうか?わたしは
違うと思う。これは恋であるとしても愛ではない。恋という
ものは感情的なものだ。ただなんとなく「好き」それだけで
恋ならば良い。

しかし愛は違う。愛とは相手の中に価値を見出し、それを尊
ぶものだ。そこには感情よりむしろ断固とした意志の力がな
くてはならない。

わたしと彼女の1日だけのデート。あれはやはり恋だったの
だ。だから感情的に気分が変わればすぐに一方が一方を捨てる、その程度のものだったのだ。

しかしそう思いつつ、あのたった1日だけのサンシャインの
デートを思いだすたびに胸が締め付けられるような切なさが
わきおこってくるのはなぜだろうか?

短歌の世界であまりにも有名な歌にこういうものがある。

 「観覧車、回れよ回れ、
    おもいでは君には1日、われには一生(ひとよ)」

        栗木京子『水惑星』(雁書館)より引用。

あの日のわたしにとってあの日は生まれて初めてのデートと いうことで、一生分の経験を味わってしまった、ということ
かもしれない。いや、もしかしたら、それはわたしの浅はか
な推測にすぎず本当に一生分の経験をしたのは彼女のほうか もしれぬ。そこらへんの深い位置にわたしが振られた理由が隠されている気がする。

さて大河内紀子(仮名)さん、もう結婚して子供もいるだろ
う。しかしあのサンシャインの1日だけのデートのことはわ
すれないで欲しい。わたしも決して忘れない。いつの日か運
命のめぐり合わせで再会するかも知れぬその日のために。

 

 

 

  

丁寧な字を書こう

 

 

毎日、郵便物の仕分けをする。

最近はめっきり宛名をワープロで打った郵便物が多くなったが、 たまに手書きのものを見つける。その手書きが字が丁寧に書か れていたら、わたしは書いた人に好感を持つ。乱雑に書かれて いたら、なんとなく嫌な感じがする。

さて字というものは「上手く」書ければこれに越したことはない。しかし日本語を上手く書くにはそれなりの素養がいる。 一番解かりやすい例をあげよう。小学校の「習字」の時間では大」 という字を児童に書かせる。この時、「大」の「人」の右側の 線の一番下は独特な「ひねり」を入れて書き上げなくてはならな い。この日記を読んでいる諸君の中にも「大」を上手く書けず 苦労した人がいるはずだ。わたしもかなり苦労したほうである。

かように字を上手く書くのはすぐにできることではない。しかし「丁寧」に字を書くことなら誰でも今すぐにできるはずだ。丁寧に字を書くとまず相手に好感を持たれる。

「字は性格をあらわす」

と昔からよく言われたものだ。

故に丁寧に字を書くひとは心も丁寧でキチンとしたひとだと他人に思われる。素晴らしいことではないか。

次に丁寧に字を書いていると、だんだん書く字に「味」というものが出てくる。

わたしが日本で最も好きな書家のひとりに篠田桃紅がいる。こ のひとの字など一見しただけではミミズが這ったようにしか見えないだろう。しかしこの人の字は決して「下手な字」ではないのだ。簡単にいえば「上手く字を崩している。」のだ。「下手に字を崩す」のは誰でもできる。しかし「上手く字を崩す 」ことはそう簡単にできることではない。

丁寧に字を書いていると心に余裕ができる。すると少し字を崩してみたくなる。丁寧に字を書く人が崩した字というものは、有名書家ほどではないにしてもそれなりの味があるものだ。そのような字がそのひとの「個性」を相手にアピールする。要するに字に「味」が出てくるのだ。

さあ、この日記を読んでいる諸君もぜひ明日からでもよいから字を丁寧に書こうではないか。ひとに勧めるからにはわたしも心機一転してさらに丁寧な字を書くように心がけよう。

なにより丁寧な字は自分の「まごころ」が相手に伝わる。素晴らしいことではないか。

 

 

 

 

セックスしよう

 

 

という題名だけを見てわたしがふざけているとか、
なにか奇妙な逆説を弄しようとしているのではな
いか?と思った諸君。ご愁傷さまである。

あいにくわたしはふざけているわけでも逆説を弄
しようとしているわけではない。本気で合理的で
安全なセックスを推奨しているのだ。

とすると巷のガンコオヤジからこのような声が飛
んでくるに違いない。「セックス」などという口
にするのも憚られる言葉を公共の場で出すとはなにごとか!と。

さてここが重要である。「セックス」という言葉
を「口憚れる言葉」と考えるということは、裏を
返せばそのオヤジは実は非常に「セックス」に魅了られているに違いない。
しかしわたしの考えは 違う。「セックス」に「魅了される」必要もない、
と考えているのだ。

例をあげよう。

フリーセックスの国として有名なスウェーデンでは
夜な夜な「乱交パーティ」が開かれている、と思
っている日本人がいまだにいるらしい。しかしそ
れは全くの間違いである。スウェーデンのフリー
セックスの考えは極めて合理的である。

動物はセ ックスする。
人間は動物である。
故にセックスは人間に必要である。

なんという明解で解かりやすい三段論法であろうか?

これがスウェーデン人のセック ス観である。
しかし日本人は違う。やたらセック スを隠蔽したり、
奇妙なカタチに神秘化しようとする。このような
傾向から先ほどのようなガンコオヤジが登場する
のだ。わたしはもっと合理的な考えでセックスを
捉えるべきだと考えているにすぎない。

若い諸君には大いにセックスを楽しんでほしいと
思う。ただし「安全」に気をつけなくてはならな
いということはいうまでもない。

もうひとつ興味深いデータがある。

精神心理学者のジェームス・W・ブレスコットは
こう言っている。

「結婚前の性交渉に寛大な社会が暴力的になる確
率は二%以下である。」

これは猿の実験でも明らかである。セックスを禁
止されて育った猿は自己破壊的であったり異常性
格の猿になる確率が高いという。これは「動物に
はセックスが必要である。」という至極当然の前
提に対する結果に他ならない。

かように現在の若い諸君には十分セックスを楽し
んでほしいとわたしは思う。

もちろん男性の場合は「コンドーム」を、女性の
場合は「オギノ式避妊法」をおすすめする。さき
ほども言ったとおり「安全第一」これはいうまで
もない。また「やりすぎ」もダメだ。猿にオナニ
ーを教えると死ぬまでやりつづけるというデータ
がある。人間もこれと同じである。やりすぎのセ
ックスはよくない。

それでは諸君、各自安全とある程度の節度を保っ
てセックスを楽しんでほしい。

 

 

 

電脳の魔界

   

 

 深夜。

パソコンのボタンを押す。

(ブィーーーーーン)

パソコン本体が腹をゆすって動き出す。それと同時にチカチカ
を明滅を始めるディスプレイ。デスクトップ画面はなかなかで
てこない。暗い部屋に明滅する四角いディスプレイ。一瞬わた
しのこころに不安がよぎる。

「この画面はどこかで見た。・・・そうだ、これは映画版『リ
ング』の一場面だ。次の瞬間、もし画面に奇怪な老婆が現れたら・・・」

と一瞬の恐怖の次の瞬間、いきなりキューティーハニーのサト
エリが画面に現れる。去年からなぜかデスクトップ画面はずっ
とサトエリなのだ。

「ふ・・・一安心だな。」

と即座に「インターネット・エクスプロラー」を起動する。今
夜もまた電脳の魔界への門が開かれたのだ。

まず自分のHPの掲示板をチャックする。

「書き込みはなし。」

つぎにお友だちのHP10個ほどの掲示板をチャックする。書
き込みがあれば読み、書き込みしたければ書き込む。

「さて。」

いよいよ今夜も「ネットサーフィン」が始まる。わたしの前に
は無限の路がある。

「天国へ行く路」
「地獄へ行く路」
「煉獄へ行く路」

六道の辻ならぬ参道の辻でわたしはしばし思案する。

「よし、今日は地獄へ行くか。」

すかさず「ノートン」をオンにする。セキュリテイ対策は万全
だ。まず某巨大掲示板群に直行。「アダルトカテゴリ」に入る。
面白そうなスレを見つけるとそのスレに直行。スクロールさせながらぐんぐんスレを
読んでゆく。とするといきなり「URL」が貼ってある。そこ をクリック。

「他サイトにジャンプしようとしています。」

警告だ。危険を感じる。しかしわたしは往く。

ジャンプするとドクドクしい広告がべたべた貼り付けた超危険
地帯に突入だ。妖しげな画像の群舞。肉欲に哭く無数の男女の
あられもない書き込みの数々。わたしはそのHPのリンク集
からさらに危険な気配を感じるHPへとジャンプする。

ともう「アダルト」というより「アングラ」の世界だ。

グロ画像が乱舞する。
闇金融の広告。
人身売買。(わたしを買ってください。)
自殺予告。
殺人予告。

危険だ。
もうこれ以上先はなにがあるかわからない。
わたしの中の直感が赤く点滅を始める。

「トラップ」か!?
「地雷」か!?
「アドウェア」か!?

あるいはもっと恐ろしいなにかか!?

再び再来する『リング』の世界。奇怪な老婆のしわがれた声
が耳のなかで木魂する。

「もう戻れぬぞ・・・お前はもう地獄に足をふ・・・」

と言う声が終わる直前にわたしは画面右上のバッテンボタンを
押す。すると再びサトエリが微笑んでいる。わたしは心底ほ
っとする。地獄から生還したのだ。

これで「ネットサーフィン」は終わりである。いろいろな世
界をみてみたい人にはネットサーフィンは良いであろう。

人間にはアシュラ男爵のごとき「ふたつの顔」がある。

すなわち。

「昼の顔」と「夜の顔」

あるいは。

「表の顔」と「裏の顔」

この双方の顔について識っておらぬならば、人間を識ったと
うことにはならぬ。ネットサーフィンは江戸川乱歩の初期傑
作『屋根裏の散歩者』のごとく人間の「裏の顔」をまざまざ
とみることができる行為だ。ただし「危険」という代貨を必
要とするが。

さてネットサーフィンの旅先にはなにが待っているのかわか
らぬ。各自、十分なセキュリテイ対策と覚悟を持ってネット
サーフィンを楽しんでほしい。

最後に。

「子供はそういう場所に行ってはいけません。」

当然だ。

(おしまい)

 

 

 

 

欲を断つ

  

 あれも欲しい。
これも欲しいと思う。

デパートのおもちゃ売り場で泣き喚いている子供が昔よく
いたものだ。怒涛のような声で号泣し、親のスカートをひ
っぱり「これ買って〜〜」とねだる。なんとも子供とはいえなんとも浅ましい姿だ。

しかし大人であるわたしも似たようなところがある。やは
り「あれも欲しい」「これも欲しい」と思うのだ。大人げ
ないと思われそうだがそうなのである。故にどこかで欲を
断たねばならぬ。そうでなくては最後に待っているのは「 自己破産」だ。

しかし「欲を断つ」。

これが簡単なようで難しい。仏教でも四苦八苦のなかに「
求不得苦(ぐふとっく)」というものがある。つまり「求めるものが得ら
れない苦しみ」である。これは裏返せば人間がどれほど欲
深い生き物であるか、ということを如実に示している。

それでは具体的な方策としてどうしたらよいのか?まず第
一に「商品を見ない・知らない」ことである。つまり最初
から店に行かなければよいのだ。猿の実験で最初からバナ
ナを見せないならば怒らない、見せたあとすぐ隠すといき
なり激怒する、というものがある。人間もこれと同じであ
る。最初から知らなければ欲しくならない。

しかし現代の情報化社会では「広告」という媒体が何所か
らともなく忍び寄ってくる。すなわちテレビから新聞から
インターネットから。情報を完全にシャットアウトすることなど無理な話だ。

そこでこうしたら善いのではないか?というわたしなりの
考えを出す。まず自分の「なわばり」を決める。そしてそ
の「なわばり」の中に該当する商品は買ってもよい。しか
しその「なわばり」から一歩でも外れる商品には絶対手を
出さない。そうしなければ「欲」はいもずる式に広がってゆく。

しかしこれもまた実行するのはかなり困難であろう。現代
では次から次へと新商品が現れる。例えばLDの次はDV
Dといったかんじにだ。LDが「なわばり」であった人間
にとっては「DVD」が次の「なわばり」になるだろう。
難しいものだ。

しかしどこかで「欲を断つ」、そうしなければ現代の資本
主義社会では生きてゆけない。今後どのように「欲を断つ」
のかはわたしにとっての重要課題である。

 

  

 

 

にんにくを食べてみよう 

 

 

 わたしの家にはいつもにんにくが山のように積まれている。
理由は簡単である。

「すぐに食べられるように」置いてあるのだ。

まず風邪の前兆(鼻水ノドの痛み・寒気・熱感)などが来たらすぐさま
にんにくを摩り下ろし、みそ汁に入れて飲む。分量はまるま
るにんにく2切れ(丸いにんにくをほぐすと出てくる破片2 つという意味)だ。
すると90%の確率で次の日には身体がシャキッとしている。
これはにんにくに含まれる有効成分「タウニン」と「アリシ
ン」のおかげだ。わたしの経験では「ユンケル」を飲むよりにん
にくの方が効く感じがする。

胃の調子があまり良くない時はにんにくを電子レンジで3分
チンしてそのまま食す。この方法だとにんにく特有の臭いも
取れるし、胃に対する刺激も少ない。にんにくを食してみた
いがあの「強烈な臭い」がちょっと・・・と困っているひとにお勧めの方法だ。

さらに最新の研究ではにんにくは「がん予防」「血液さらさ
ら効果」があるという指摘もある。「がん予防」になるのは
にんにくに含まれる「抗がん作用」のおかげだ。「血液さら
さら効果」は心筋梗塞、脳卒中の予防になる。なぜならこの
ふたつの病気は血管内部をうまく血液が流れなくなることが
原因であるからだ。「血液さらさら」であれば「心筋梗塞」
「脳卒中」の予防になる。なんとにんにくは三大成人病の予
防薬なのだ。あまりに素晴らしい健康食品であると言わざるを得ない。

「風邪」「疲労」「成人病」などに多大な効果のあるにんに
く、この未知なる食品はまだまだ無限の可能性を秘めたスー
パー健康食品であるのかもしれぬ。

この日記を読んでいる諸君でまだにんにくを食したことがな
いひとがいるのなら明日からでも食してみることだ。素晴ら
しい健康への道標になってくれるだろう。

ただしにんにくは刺激が強烈だ。下手をすれば胃を痛める可
能性がある。そこのところは気をつけねばならぬ。

 

 

 

血で書かれた文字

 

 

「すべて書かれたもののうちで、わたしは、人が自分の血で
もって書いているものだけを、愛する。」

    ニーチェ全集9『ツァラトストラ』
            吉沢伝三郎訳(ちくま学芸文庫・73p)

 さてこのニーチェの謎めいた箴言の意味をわたしは長年よくわからなかった。「血をもって書いているもの」とはいったいなんなのか?

 現在、昭和史研究で有名な秋山正美が若き日に書いた怪奇 小説集『葬儀のあとの寝室』(新世紀書房→第二書房)のあとがきに「わたしはこの本を自分の血で装丁した。」と書いていた気がする。なんとも気持ちの悪い話であるがこの場合 は「血で装丁した」のであり「血で書いた」のではない。故に却下する。

 ある蒸し暑い真夏の夕方であった。わたしは新宿駅東口を出るとアルタ前を通ってフラフラと歌舞伎町方面へ歩いていた。まるでなにかに引き寄せられるように。

とあるデパート に入る。サーーーと来る冷房の風。Tシャッツの背中に染み 込んだ汗がたちまち冷たく感じる。わたしはなぜかエレベー ターで六階まで登ると「男子便所」に向かった。男子便所は ガランとして誰もいない。デパートの広大な男子便所の冷えつた雰囲気になにか嫌な気配を感じながらわたしは一番奥の大便所に入った。

その時、わたしの全身からサーーーーと血の気が引いた。なん白っぽい大便所左側の壁に細いマジックでぎっしりと壁一面になにか書いてあるのだ。それはあたかも小泉八雲の『怪談』に登場する「耳なし芳一」のようであった。

 わたしはこの禍禍しい文字群を一瞬読んではならない、と思った。しかしわたしは好奇心からいつのまにか読み始めてい た。その文字群はどうもエイズに罹った21歳の男によるもののようであった。出だしはこうであった。「さっき保健所に行って血液検査してきたら陽性だったぜ・・・」そして文字群は男の生い立ち(幼稚園時代から)から女性遍歴、そして両親を憎む罵詈雑言、そして最後はこう締められていた。

 「こうなったらひとりでも多くのやつを道づれにして
  死んでやる!!死ね!!死ね!!!みんな死んじまえ!」 さてわたしは倫理に厳しい人間である。このような文言を容認するほどわたしは甘くはない。しかしこの文字群は恐ろしいほどのスピードとパワーを兼ね備えた衝迫力でわたしの精神をバットで叩きのめしたのは確かである。この文字群を読んだわたしはその後一週間ほど全く食欲が出なくなった。

その後、しばらくしてわたしは気づいた。あの文字群こそ、
「血で書かれたもの」であったのだと。あのエイズに罹って
やがてはベットの上でのた打ち回って死ぬ運命を背負った男が血糊を吐き出すように、エイズという病んだ血によって書
かされた文字群、あれはそういう種類のものであったのである。さてこの禍禍しい経験からもうかなりの年月が経過した。
しかしいまだにあの文字群の内容はわたしの頭にこびりつている。いやこびりついたというよりあの男の怨念・無念・憎
悪が鉤のようになってわたしの精神に引っかかっている、と
いうべきか。

 ニーチェが言った「血で書かれたもの」とはつまり自分の
肉体から湧き上がってくる、「どうしようもなく書かなくて
はならないもの」という意味であったのだろう。ニーチェは
キルケゴールと同様にドイツ観念論に反発した哲学者である。 ニーチェにとっての「肉体」とは「精神より深い」ものであるのだ。

そのような「肉体」によって「書かされた」もの、それが「
血で書かれたもの」であるのだ。

 わたしが見たあの禍禍しい文字群もまたひとりの若い男の
血によって書かれたものだ。言い換えれば「どうしても書か
なくては死んでも死に切れない」遺書であったのだ。

 さてわたしも「血で」文章を書かなくてはならぬ、とつく
づく思っている。しかし「血で」文章を書くことは容易では
ない。下手をすればアタマだけでこねくり回した小賢しい文
章を書いて、それでぜいに入ってしまう。しかしそれではダ
メだ。本当に読者の心を打つ文章はやはり「血で書かれなく
ては」ならないのだ。

 文章とは血で、あるいは肉体から湧き出してくる「力」に
よって書かれなくてはならない。このことを教えてくれたあ
のエイズの男はわたしにとって「師」であったのだ。恐らく
もうとっくの昔にすでに死んでいるだろう。故にせめて祈ろ
う。鎮魂せよ。鎮魂せよ。おまえはもう十分に苦しんだ。虚
無の優しいかいなに抱かれて永遠(とわ)の眠りにつけ、と。

 

 

 

 

たまには泣いてみよう

 

  ずいぶん泣いてないな〜。

としみじみ思う。

小学生の頃には親に叱られて泣き、先生に怒られて泣き、
忘れものして泣き、すべり台から落ちてなき、砂場で蜘蛛
も発見して泣いていたわたしだがいつのまにか泣かなくなった。

いや、泣かなくなったというより泣けなくなったといった
ほうが正確か。今、自分で「さあ!泣いてみろ。」と自分
に命令しても絶対泣けないに違いない。

さて人間には喜怒哀楽というものがある。

喜の感情表現は「笑う」。
哀の感情表現は「泣く」。

このふたつが自然にできることは極めて健康的な人間の姿
であると思う。しかし現代では笑っているひとはたまにい
ても泣いているひとなど、まず見たことがない。

現代ではもしかしたら「泣くこと」=「弱さ」と勘違いさ
れて受け取られているのではないだろうか。しかしそれは
違う。自分の感情表現を相手に素直にみせられるひとは実
は「強い」のだ。感情表現が豊かなひとはストレスがたま
らないし、それよりまず「ひとに好かれる」。逆に能面の
ように無表情でいつも押し黙ってなにを考えているのかわからない
人物には誰も寄ってこないだろう。その人物は自分の感情
を閉じているのだからひとが寄ってこないのは当然のことだ。

もし諸君のなかに若いカップルの諸君がいたら、男性の場
合は彼女の前で泣いてみよう。女性の場合は彼氏の前で泣
いてみよう。そのような打ち解けた感情をお互いに見せ合
うことはカップルの絆をさらに強くするに違いない。

このような話を聞いて
「ちょっとウエットすぎるな〜」

と思う諸君よ。雨の降らない土地は砂漠化し、植物も実ら
ず、最後には人は住めなくなるだろう。ウエットなことは
決して悪いことではないのだ。

さあ、わたしも今夜あたり、ずっと昔読んだ恋愛小説であ
る村上春樹『ノルウェーの森』を読んで泣いてみるか。そ
れで心が活き活きと活性化するなら安いものだ。

 

 

 

「ありがとう」の勧め

 

 

朝、目覚める。

わたしはまずベットの上で「ありがとう」と言う。

「なぜに?」

と人は聞くだろう。

わたしは答える。

「今日もなにごともなく朝を迎えられた。これがありがたく
なくていったいなんであろうか?」と。

「ありがとう」とは「有り難とう」、つまりそういう状態で
あることが難しい時に発する感嘆の言葉である、とわたしは
解している。そう考えればこの世はなんという有り難さにみ
ち溢れているではないか?

諸君。
もしもだ。

諸君が住む家がなく、衣服さえ満足ではなく、もちろんパソ
コンなどもっての他の状態であると仮定してみたまえ。現在
の状況がなんと「有り難い」ものであるのか、ひしひしと感
じられるだろう。日本では江戸時代いや昭和戦前まで一般庶
民は「喰うことさえ、ままならなかった」のだ。このことが
現代の言葉である「喰ってゆく」=「生活してゆく」に繋が
っている。

そう考えればわたしは現代の状況に涙がでるほど有り難いも
のを感じる。わたしは一度だけ親戚の老人に戦前の状況について教わったことがある。その時の言葉はこうだ。

「地べたを這いずりまわりながら生きてたようなものだ。江
戸時代だよ。江戸時代。」

そう考えてわたしは朝食前にまず「ありがとう」を言う。す
ると朝食が言わない時よりも旨く感じるのだから不思議なものだ。

人間とは多くの人間に支えられ生きている。そのような人た
ちのためにまずわたしは「ありがとう」を言う。

また最近痛切に「生かされて生きる」ということの意味が身
に沁みてわかってきた。といってもわたしはキリスト教信者
ではない。わたしが生かされていると感じる存在は神などよ
りもっと格段にグレートの違う「大宇宙そのもの」であると
言ってよいだろう。

わたしは笑顔で天に向かって「ありがとう」を言う。持って
まわった言い方である「ありがとうございます」でもやや気
取った「ありがと」でもダメだ。一字一字明瞭にはっきりし
た口調で心をこめて「ありがとう」という。これを言えばこ
ころがすーーーーーと落ち着く。

「ありがとう」なんという美しく気高い言葉ではないか。
この日記の読者の諸君もまず「口にだして」「ありがとう」を
言ってみることだ。そうすれば君の生活が一回言うことに微
妙に変わる。これは間違いない。

それではいつもこの日記を読んでくれている諸君のためにわたしから心を込めて。

「ありがとう。」

 

 

 

独身男性の性生活

 

 巷ではポルノ雑誌が大流行である。本屋に行くとあらんばかり
のポルノ雑誌の山。さらに最近では一般雑誌にまで「彼女を喜
ばせる丸秘テク」などという記事が堂々とでている。全く呆れるばかりだ。

しかしよく考えればそれも仕方がないのか。と思う。盛りの男
性の性欲というものは凄まじいを通り越して傷ましい思いまで
する。「愛欲」という言葉の語源をたどれば「ノドの渇き」で
あるそうだからこれも仕方のないことであろう。

しかし性欲が凄まじいからといって、そのことにお金をかける
のは感心しない。ポルノ雑誌など軽く2000円以上はするの
だ。また風俗店に行く。これも感心しない。なぜかというと「
値段が高すぎるから」だ。ソープランドの相場は3〜5万円、
ファッションマッサージでも一万円以上、こんなお金があった
らいったい何日喰えるのか。と溜息がでる。

そこで、独身男性が性欲を抑える方法といったらやはり「マス
ターべーション」しかあるまい。しかしこれもまた難しいもの
だ。「やりすぎ」は身体にもアタマにも良くない。大体多くみつもっても、

10代>一日3回
20代>一日2回
30代>一日1回

が限度であろう。

また不潔なマスターべーションは陰茎がんの原因となる。マス
ターベーションを行ったあとはお風呂に入り清潔を保つのがのぞましい。

さて人間には食欲・性欲・睡眠欲という三つの欲があり、そ
の結果として「食べる歓び」「性の歓び」「眠る歓び」がくっ
ついてくる。ゆえにわたしは女性との性交渉ができない独身男
性の諸君には大いにマスターベーションを楽しんでいただきた
いと思っている。ただし先ほども言ったとおり「やりすぎ」と
「不潔」には要注意だ。

「性」は「生」に繋がる、と言っていた寺の坊主がいた気がする
。わたしもそう思う。楽しい部分がある反面、苦しい部分もあるのが「性」の特徴
だ。それゆえ、独身男性の諸君には「性」というものを軽んじた
り、粗末に扱ったりせず、自分の「生」の大切な一面であると認
識して上手に「性」とつきあっていってもらいたいとわたしは
つくづく思っている。

 

 

 

いつも心にくらやみを

 

 わたしはなるべくホラー映画を観るようにしている。

「観るようにしている」とは奇妙な言い方に聞こえる
かもしれないが、わたしはそれだけホラー映画を「ため
になるもの」と思うから観るようにしているのだ。

さて一般的にホラー映画は「俗悪」の代名詞である。P
TAや圧力団体の槍玉に挙げられるのはいつもホラー映
画である。しかしPTAはまだまだ解かっていない。ホ
ラー映画の恐るべき本質を。

さて原始時代、人間にはすべてが恐怖であった。道でば
ったり猛獣と出会ったら喰い殺される運命であったろう。
また病気になることは死を意味していたに違いない。そ
して夜の闇の深さ、その暗闇に人間は心底からこの世界
全体に対する恐怖を味わったに違いない。

しかし猛獣が動物園に隔離され、ガン以外の病気がほと
んど治療可能になり、夜の暗闇も街灯でどこかに追放さ
れてしまった現在、人間が自然に対して恐怖を抱くこと
は難しくなっている。そこで出てくるのがこのような言葉だ。

「人間が一番怖い」

もちろん犯罪や闇金融やヤクザや通り魔は怖い。しかし
そのような恐怖が一番怖いと言い切ることはわたしには
人間の傲慢に聞こえる。人間の歴史など宇宙の歴史から
みれば1兆分の1もないのだ。その人間が人間が一番こわいと言い切るとは。

「恐怖からの脱走としての人間史」

この主題は一部で有名な本である遠丸立『恐怖孝』(仮面社)の
テーマであるが人間というものは恐怖と共に産まれ、恐
怖と共に成長してきたという遠丸氏の意見にわたしは賛
成である。わたし自身、トビー・フーパーの衝撃的デビ
ュー作『悪魔のいけにえ』でチェインソーを振り回して
追いかけてくるレザーフェイスと顔を涙でくしゃくしゃ
にさせて逃げ惑う若い女性の姿に深層的な人間の姿も視
る気持ちがする。もっともこれはクラスのいじめられっ子でいつもクラス
メートの「どぎついほどいやらしい悪意」にさらされて
きたわたし自身の経験が大きく影響しているのかもしれぬ。

ホラー映画を観ることは人間の深層意識に眠るスーパー
ナチュラルなものへの「畏敬」を呼び戻す神聖な行為で
あるとわたしはつくづく思っている。もちろん多くのホ
ラーファンはそこまで至らないだろう。単なる「恐怖」
を娯楽として消費する、そのようなホラーファンが最近
多い気がする。特に人間が殺されるシーンをげらげら笑
いながら観る自称「ホラーファン」。彼らはなぜ自分の
同朋が痛みを感じ、血を流し、無残に屠られてゆく姿を
笑えるのであろうか?そのようなシーンはむしろ沈痛に
悲しみながら、心を痛めながら観るものではないのか?

無論、「恐怖」を「畏敬」まで昇華させるにはそれなり
の修練がいる。これからホラー映画をじっくり観てみよ
うと思う諸君がいたら、ホラー映画の真に意味する深い
部分まで喰いこんで観ることのできる、そんな本物のホラーファンになってほしい。

 

 

 

 

ヒロシマ・ノオト

 

 

 

本日は8月6日である。

さて昨今の中学・高校生は8月6日と言っても何の日
か解からない者が多いという。さらにはかって日本が
米国と戦争をしたという事実さえ知らない者さえいるらしい。

全く嘆かわしいばかりである。せめて新聞を全部読め
とは言わないから「社説」だけでも読んでほしいものである。

さてわたしは十年以上前に広島に行った。なぜ?答は
簡単だ。「現実」を見るために行ったのだ。子供であ
るならば、あまりに怖いものや悲惨なものはみなくて
よい。しかし大人は違う。ありとあらゆる「現実」を
直視せねばならぬ。それゆえわたしは広島の原爆とは
実際どのようなものであるのか、ということをこの眼
で確認するために広島に行ったのだ。

まず広島駅につくと昔なつかしい「路面電車」が走っ
ていた。わたしはこの電車に乗り一路「原爆記念公園」
へと向かった。

記念公園に到着すると即座に「原爆資料館」に入る。
わたしはその場所でおおよそ今までの自分の生涯から
は想像を絶するものを見た。

熱線によって階段に焼き付けられた人間の影。
原爆後遺症で死んだ少女の髪の束。
丸木位里の「原爆の図」さえ凌駕するようなあまりに
恐ろしい被爆者の描いた無数の絵。

わたしはアタマがふらふらし始めた。それは同情やら
悲惨などといった人間的情緒のレヴェルを遥かに超え
た異様な世界をむりやり見せ付けられた気がしたからだ。

わたしは原爆資料館を出ると木立にもたれつくづくと
思ったものだ。

「核とは神の領域に位置するものだ。決して人間が使用してよいものではない・・・」と。

そしてわたしは資料館の前にある「嵐の中の母子像」
を見た。わたしは圧倒された。過去にも先にもこれほ
どまでの衝迫力で迫ってくる彫刻をわたしは見たこと
がない。右手に赤子をそして左手に幼児を抱きながら
身をかがめつつ歩みつづける母親、これはもしかしたら人類そのもの
の象徴ではないのか。もし諸君のなかでこの「嵐の中
の母子像」を見たことがないという諸君がいたら広島
に行って実物を見てこられることをお勧めする。本物
の藝術作品というものは写真で見たのではダメなのだ。
「実物」を自分の眼でしっかり見据える。その時にそ
の作品の本当の凄さというものがわかってくるであろう。

そして最後に原爆慰霊碑に向かって黙祷する。先日心
なき者によって碑文の一部が削られたというこの慰霊
碑であるが「U」を逆さにしたその曲線はあたかもな
めらかな鳩の背中を連想させる。

こうしてわたしの原爆記念公園の見学は終わった。わ
たしの数少ない旅行体験でもこの
広島への旅行は忘れられないものである。

「現実」。

それがいかに悲惨なものであろうと見据えてゆかねば
ならぬ。そしてその悲惨さのなかに「人間そのもの」を
凝視せねばならぬ。そして「人間そのもの」から未来
へと向かう希望を力強く汲み取るのだ。

原爆慰霊碑には短歌が一首書き込まれている。その
歌を引用して本日の日記を締める。

      「原爆忌めぐりきたりぬ
          埴輪なす鞍形の碑にあつき碑の色」
                 
                      三田賽一
             
         

 

 

 

 

歯を磨こう

 

 歯。

なんという人間にとって大切な器官であることか。

歯がなかったら、そのひとは死ぬしかない。もちろ
んこれは「入れ歯」のない時代の話である。

また相手と会話していて時折相手がキラリと見せる
真っ白い歯、これほど気持ちの良いものはない。も
しその歯がもし黄ばんでいたら、そのひとはみなに
嫌がられる人物になっているだろう。

そのように歯というものは食物の咀嚼のみならず人
との付き合いにおいても大事なものである。

故にわたしはまず朝食後、歯を磨く。方法はいわゆ
る「ローリング法」で磨くのだ。昔風の上から下へ
ただ擦るだけの磨き方は現代の歯科医学ではほとん
ど効果がないことが実証されているという。

諸君。

もし君が「歯槽膿漏」になったらどうなると思うか。
まず歯は「ほとんど全部」抜かなくてはいけないだ
ろう。そして「入れ歯」である。これほど手間のか
かる代物もあるまい。また治療にかかる莫大な医療
費を捻出するために経済は切迫する。さらに膨大な
時間がかかる。

そしてなにより、「痛い」。

あの麻酔針が歯茎にブスッと突き刺される「痛み」、
あの痛みには恐ろしいものがある。麻酔針も痛く感
じない麻酔をしてから注射してくれ、と歯科医師に
いいたいくらいだ。

かように「歯槽膿漏」にかかってしまってしまうと
いうことははかりしれないダメージをそのひとがう
ける、ということを意味する。そう考えると毎日の
歯磨きぐらいなんと楽なものであることか。

「歯がぐらぐらし始めてから」では遅いのだ。

「最近、歯を磨いていないな〜」と思う諸君がいた
ら即、今日からでも磨きだすことをお勧めする。

「健康な綺麗な歯」。

これは歯磨き粉のCMのみならず現代の人間が快適
に暮すための必須アイテムであるとわたしは考えて
いる。

 

  

 

 妖精のおはなし

 

 

 

 ある蒸し暑い夏の午後であった。

わたしは「お婆」の家の居間で「ジャガーバックス」
という児童書を読んでいた。「ドラキュラ」「ゾンビ」
「フランケンシュタイン」・・・いつもお決まりのお
はなしにわたしはあくびをしつつ次のページをめくった。

その瞬間、わたしはビクッ、と緊張した。なんとその
ページには人間の少女の前で数匹の妖精が踊っている
ではないか。わたしはしばらく茫然としてから思った。

「よくわからないものというのは存在する。・・・」


さて妖精といえば一番有名な事件は1917年に起こ
った「コティングリー妖精事件」であろう。ある森の
なかでふたりの少女が妖精と出会ってその写真を撮っ
たというのだ。わたしが小学生の時に見てビクッとし
た写真がこの時の写真であるとしったのはずっと後の
ことである。この写真は推理作家のコナン・ドイルも
「本物」と認めたのであるからただ事ではない。

今日での公式見解ではこの写真の妖精は「紙の切り抜き」である
という意見が主流であるようだがわたしは納得できな
い。誰だとしても写真のなかに手を入れて被写体の感
触を探れる人間はいない。もし「紙のように薄い別の
なにか」がこの写真に写っていたとしたらどうなるの
か。コティングリー妖精事件の謎はまだ解けていない
とわたしは思っている。


さてテレビ・映画・アニメなどで登場する妖精で一番
オーソドックスな妖精がアニメ『聖戦士ダンバイン』に登場
した「チャム・ファウ」タイプの妖精であろう。つま
り非常に小さい女の子に羽が生えているというアレである。

しかし妖精とはそのようなタイプのものだけではない。
トーべ・ヤンソン原作でアニメにもなった『ムーミン』
、あのムーミンをカバだと思っているひとがいるらし
いが正確にはムーミンは妖精であるという。また『お
ばけのバーバパパ』のバーバパパも妖精くさい。最近
の例では『ポケットモンスター』の主人公、ピカチュ
ウも妖精のように思える。

かように妖精というものは実はわたしたちの身近にひ
ょっこりと隠れているものなのである。

さて世の中には悪霊の存在を信じてびくびくしている
ひとがたくさんいる。かくいうわたしも東京時代アパ
ートに悪霊が取り憑いているのではないか。と心配す
るあまり身体に変調をきたした。悪霊やら地縛霊やら
浮遊霊やらそのようなマイナスの存在をわたしは信じ
ていない。なぜならそういうものにとらわれていると
マイナスの波動がそのような想念から伝わってくる気
がするからだ。

そこでわたしはどうせ信じるなら悪霊よりもっと夢の
ある妖精を信じるようにしている。「チャム・ファウ」
はもちろん「ピカチュウ」も人間に手助けしてくれる
有りがたい存在であるからだ。

諸君。

「信は真に通ず」という諺もある。

もし諸君が本当に心のそこから妖精の存在を信じるな
らばある朝目覚めた時、君も枕もとにちょこんとピカ
チュウが座っているのかもしれぬ。そしてもしかした
ら君が困っている時、ピカチュウは君の手助けをして
くれるのかもしれぬ。


これはあながち「冗談」ではない。

 

 

 

部分と全体

 

「ぷしゅ〜るるる〜・・・」

と。
なんとも情けなく、かつ不愉快な音を立てながら、ある日、自転車がパンクする。

わたしは嫌な気分になる。
まず自転車屋に自転車を引いてゆく面倒さ。
そして修理代約1000円。
そして自転車屋のおやじのお決まりの文句。

「ああーもうタイヤ駄目ですよ。交換の時期ですね。」

そんな日は一日中憂鬱である。
なにもやる気が起きない。
なにもかもむしゃくしゃする。
家族の顔を見ただけで腹が立つ。
そしてわたしは思う。

「今日一日を台無しにしてくれたのはあのオンボロ自転車
のせいだ。・・・」

と。
これが実に「幼稚な」思考パターンであると気づいたのは
最近のことである。自転車のパンクは家族とはなにも関係
がないのである。恐らくわたしは「自転車のパンク」とい
う一日における「部分」をその一日の「全体」と錯覚して
いたのである。

例えばリトマス試験紙に水を一滴垂らす。すると水は瞬間
的にザザーと紙全体に広がってゆく。

これと同じ思考パターンがわたしの頭のなかで起こってい
るのだ。自転車のパンクという「嫌なこと」がその日全体
を「嫌な一日」に染め上げるのだ。これでは快適な生活な
ど到底期待できない。

また人間関係でも同様のことがある。

あるひとりの人物にわたしがけなされる。するとわたしの
周囲の人間がみな自分の敵に思えてくる。これもまた実は
「幼稚な」思考パターンである。人間というものを集団で
とらえることなど絶対にできない。人間というものは常に
「個人」として見て、接し、対話を深めていかなくてはな
らないのだ。これが「その個人に固有の人格を理解する」ということ
である。そのような人間理解ができていないから、「個人
」と「集団」を錯覚して「自分が周囲から嫌われている」
などという被害妄想が発生するのだ。

ものごとはすべて「部分」から見て分析してゆかなくてな
らない。この「部分」はあの「部分」と結合していない。
あの「部分」とこの「部分」は関係がある。そのような「
部分」の分析の集大成を通して初めて「全体」の理解が完了する。

「神は細部に宿り給う」

この諺は鋭く核心をを突いている。

ものごとに対して「おおざっぱ」であることは自分の眼が
見えなくなっていると思っているほうがよかろう。大切な
ことは常に「細かいパズルの一ピース」なのだ。

人間は常に顕微鏡の眼を持たなくてはならない。最近のわ
たしはそのように痛感している。

 

 

右手がかってに動き出す

 

 深夜。

この「日記」を書くためにパソコンに向かう。
大抵書きたいことは固まっていない。
頭のなかになんとなくどろどろしたものがある感じである。

それでもとにかく右手で文字を打ち出す。
すると。
不思議や不思議、右手がかってに動き出すのだ。
するといつのまにか「日記」が完成している。

「肉体が精神を追い越す」

このような表現がたまに存在するが正にその現象が起きる
のである。

小説家などでも書けない時は「とにかく書き出す」を
モットーにしている方々がいるというが、それと同じ
現象である。

「インスピレーションが舞い降りる」
という表現があるがこれは西洋的な発想である。
なぜなら「インスピレーション」が舞い降りる場所
は「精神」であるからだ。

しかしわたしの場合は右手には右手の、左手には左手の
「カミサマ」が宿っておられる、と考える。もちろん
この「カミサマ」は西洋的な「GOD」ではない。
もっと原始的・アニミズム的・汎神論的な「カミサマ」
である。

人間の肉体も自然の一部なのだ。それならば「カミサマ」
が宿っていても不思議はない。
それ故、わたしは就寝前に自分の身体に感謝する。
「右手さん、ありがとう」
「左手さん、ありがとう」

これは一見奇妙な行為のようであるが大いなる大自然
の一部である自分の身体に感謝するということは自分
で自分を活性化させる技である。


その昔、古谷三敏(『ダメおやじ』の作者)の漫画に
『手っちゃん』という漫画があったがあの漫画にはキ
チンとした描かれるべき根拠があたのである。

さて。
「文章が書けない・・・」
と悩んでいる諸君、とにかく書き出してみることだ。
不思議と君の右手、あるいは左手がすらすら動き出す
のかもしれぬぞ。

 

 

 

 

笑って暮そう

 

『パッチ・アダムス』

5〜6年前だっとと思う。そんな題名の映画をふらりと観た。
その映画の内容は「患者の病気を笑わせて治す」というもの
であった。

「笑って病気治るんだったら医者いらんで、ケッ!!」

とわたしはこの映画を「駄作」と決め付けた。

しかしその後、新聞・雑誌などで気になる記事がぞくぞくと
現れだしたのだ。

「笑うと身体がリラックス」
「笑いはがん予防になりますよ」
「免疫力高める笑いの効果」

などなど。

わたしはこれはただ事ではないと思い、知り合いのカウンセ
ラーにこの話題を持ちかけた。すると。

「米国ではもう笑って病気を治す『ラーフ・セラピー』が一
般的に行われている」というのだ。

わたしは愕然とした。それまでわたしは「笑い」は低級な
ものであるという奇妙な偏見を持っていたので早速、自分の
「笑い」に関するアタマのチャンネルを切り替えた。

「笑いは人生にとって大切なものである。」

さて実際、「笑え」といわれてもそうそう笑えないのが人間
というものである。そこで自分を笑わせるために積極的な行
動にでることが必要だ。そこでわたしは自分を笑わせるため
に様々な試行錯誤を試みたのである。

まず東京・関東圏に在住のひとなら新宿・末廣亭の「深夜寄
席」に行ってみられることをお勧めする。ここの「深夜寄
席」は名人の古典落語にありがちな堅苦しさはなく、
若手メンバー中心の現代的な落語であり、時間は確か夜9時頃開演であり、
料金も1000円以下で入場できた筈である。

関西圏については、わたしはあまり大阪に行ったことのない
人間であるので詳しく紹介できないが「大阪のミナミ」では
漫才・漫談が盛んであるという。

そのような場所に足を運ぶのが面倒だ、あるいは時間がない
というひとには「コメディ映画」がお勧めである。わたし的
な好みから推薦するならば、

『マスク』
『アダムスファミリー』
『ナスティ・プロフェッサー』
『永遠に美しく』

などがお勧めできる。

また日常生活に笑いを取り入れるには「ラジオ」がうってつ
けの教材であろう。
わたしは時間があいたらなるべく「小沢昭一の小沢昭一的こ
ころ」を聴くようにしている。

「笑うかどには福来る」

この諺には科学的根拠があったのである。

それでは、現在、怒っている諸君もイライラしている諸君も
不安になっている諸君もイロイロな方法で自分を笑わせてみ
よう。怒りもイライラも不安もすーーーーーーーーーと引い
てゆくに違いない。

「笑い」は作り笑いでも効果があるという。それではまずわ
たしから率先して。

「わーーーーーはっはっはっはっはーーーーー!!!」

・・・・・・・・・
    
     (しーーーーーーーーーん)

おしまい。

 

 

 

呼吸と健康

  「呼吸」。

このあまりに身近すぎるゆえにかえって注目されていない
人体の活動に最近関心が集まっている。

まず「うつ」「ノイローゼ」のひとは呼吸が浅く、不規則
であるという。なぜか。

「心身一如」。

この仏教の考えはわたしがこの日記でなんども繰り返し強
調してきたことである。さてそこで精神が不安定なひとは
その内面が呼吸に現れるらしい。精神が不安定なひとはそ
わそわしていたり、貧乏ゆすりをしていたりする。呼吸も
また不安定になってくるのだ。

それゆえ「腹式呼吸」の習慣をつける。それによって身体
の側からこころを鎮静化させるのだ。

まず口を閉じ鼻からぐーーーーーと息を吸う。この時、お
腹を膨らませる。そして口からはーーーーーーと吐く。こ
の時、お腹を手でぐうっと押す。この訓練を繰り返してい
ると自然に腹式呼吸ができるようになる。

このとき、「メトロノーム」を目のまえに置き規則正しい
リズムで腹式呼吸をするならばなお善い。人体のバイオリ
ズムを乱れた状態から正常な状態に引き戻すには絶好の方
法である。

もちろんこの呼吸法を行うときはキチンと正座する、ある
いは「蓮華座」という座り方(仏像の座り方と同じ)で背
筋をピシッと伸ばし、眼をつぶって行わなくては訓練には
ならぬ。しかし一度腹式呼吸がマスターできればこのよう
な形式にとらわれることなく、電車のなかで、会社のオフ
ィスで、ベットの中で自由自在に腹式呼吸ができるように
なるだろう。

正しい呼吸法のマスターはリラクゼーションの効果がある
のは当然のことであるが、それだけではない。呼吸とは人
体から人間の精神へ通じる回路なのだ。この回路を通りや
すく整備することによって自分の意志で自分の精神状態を
コントロールするという術が身についてくる。

超ストレス社会である現代ではさまざまな癒しの方法が考
案されているが、腹式呼吸で正しい呼吸の習慣を身に付け
ることは他の健康法を遥かに凌駕する素晴らしい効果が期待
できると、わたしは自己の経験から信じている。

 

 

 

宇宙人への手紙

 

  1977年ボイジャー一号が太陽系外部惑星探査のために
宇宙へ飛び立った。その後、ボイジャー一号は木星、土星、
天王星、海王星、冥王星と順調に探査を続け、西暦2005
年現在、太陽系最後の障壁である「末端衝撃波面」を通過中
である。この波面を通過すればボイジャーは完全に太陽系を離脱する。

 さてボイジャーには金属片に彫りこまれた「宇宙人への手紙」
が搭載されている。この金属片には人間の男女ふたりの姿と、
ある程度、知能を持った生命体であるならば必ず判読できる
「地球の位置を記した地図」が刻まれている。

 さてこれを「なんという夢のある話ではないか。」と詠嘆し
て本日の日記を終えたい所であるが、わたしはこのボイジャー
の「宇宙人への手紙」に一抹の不安を感じる。

 さて人間には「善人」と「悪人」がいる。これは当然の話で
ある。もちろんそのどちらにも当てはまらない「中間の人間」
もいる。宇宙における知的生命体も同じである。「善い知的
生命体」と「悪い知的生命体」がいるに違いない。

 とするともしもだ。ボイジャーが「悪い知的生命体」=「
敵性異星人」に捕獲されたらどうなるのか?恐ろしいことが
起きるに違いない。

  SFの世界では宇宙航空中の宇宙船が敵性異星人に遭遇した
場合、最も最優先してしなければならないことは「宇宙地
図」の破棄・焼却であるという。これはわれわれの住んでいる
「地球」の位置を敵性宇宙人に察知されないためにだ。もし宇
宙地図が敵性異星人の手に落ちたら「地球」が危なくなる。

 それと同じ危惧をわたしは感じるのである。ボイジャーが
「宇宙人への手紙」を搭載している、と聞いて世の人々は「
なんという夢のある話か。」と驚嘆するに違いない。しかし
スペースシャトルが宇宙を飛び、火星への基地建造も計画され
ている現在に「なんという夢のある話か。」でこの話題を終わ
らせてはならない。宇宙は人間にとって残された最後の秘境で
ある。その昔、南極にしろ北極にしろアフリカ大陸にしろ「探
検」に出かける者は半ば死を覚悟していたという。それほど探
検というものは危険なものだ。南極点到達のためにノルウェー
のアムンゼン隊と張り合った英国のスコット隊の悲劇を記憶し
ている者も多いであろう。探検と「死」は隣り合わせなのである。

 ボイジャーは恐らくあと10年以内に太陽系を離脱し、恒星
間飛行に入る。その間に敵性異星人と遭遇しないように祈るばかりだ。

 さて宇宙時代の人間はアニメ『機動戦士ガンダム』の「ニュータイプ」のよ
うに「進化」せよ、とまでは言わないが「宇宙的視点」を身に
つける必要がある、とわたしは常々思っている。「宇宙的視点」
とはいわば宇宙における知的生命体間の「常識」と言ってよい
だろう。21世紀、22世紀、23世紀と人間はどんどん宇宙
へ進出してゆくだろう。その時のために「宇宙的視点」を身に
つけておく、これは必ず役に立つ、いや危険から身を守るため
に絶対に必要なことである、と言ってよいだろう。

 

 

 

 

暗愁の秋に

 

 10月である。

もう夏の残滓はことごとく消え去った。
雨が降っている。
風もある。
冬が来るのだ。
わたしの住んでいる地方では12月に入るともう
晴れるということがない。曇天か雨か雪が4月あ
けまで延々と続くのだ。

鬱々とした日々が続く。
いや、鬱々というより暗愁に充ちたと言ったほうが
正確か。気分が重くなる。街行くひとの顔も皆かなしげだ。


1960年12月深夜、学生歌人・岸上大作は服毒縊死と
いう特殊な方法で自殺した。享年21歳。彼の遺書
は「ぼくのためのノート」と題されて白玉書房刊『
意思表示』に収録された。『意思表示』は絶版後、
思潮社から出版された『岸上大作全集』として新装
され現代でも悩める若者たちに黙々と読み継がれている。

さて一般的見解では岸上大作の自殺は失恋自殺である
とされている。事実そういう表記が「ぼくのための
ノート」に存在するのだ。しかしわたしはこの自殺
は単に失恋だけが原因ではなかったのではないか、とにらんでいる。
岸上大作はこの世界全体を被いつくそうとする暗愁の影に影響されたのでは
なかったのか、とわたしは推測している。

なにかモヤモヤした黒雲、そういったものがわたしの
ウシロに立っているのをいつも感じる。そしてその黒
雲の力は秋から冬にかけての10月頃に最も大きく発
達するのだ。黒雲は蹴散らしても蹴散らしても、すぐ
にその破片のひとつぶひとつぶが引っ張り合うようにたちまち集結する。
逃れる術はない。

ならばわたしはその黒雲を背負って生きるしかない。
暗愁の影の真ん中に自分を置く。そうすればかすかに、
非常にかすかにその闇のはるか向こうで打ち振られる
松明のようなものが見える。
闇のなかにいるからこそ見える光。
そのとおり、苦悶に喘いでいるのは自分だけではないのだ。

岸上大作のように自殺するのも自由だ。またあえて生
きることも自由だ。それは単に選択の問題でしかない。
ならばわたしはもう少し生きてみようと思う。
理由などない。ただその選択に賭けるのだ。

10月。
SF作家・ブラッドベリーは「10月は黄昏の国」と
言った。わたしはブラッドベリーに抗してこう言おう。
「10月は暗愁の国。しかし時間まだある。」と。

 

 

 

さようならドラえもん

 

 巷ではドラえもんの声優陣が変わったことでおお騒ぎである。

そんな大騒ぎを横目で見ながら改めてドラえもんは偉大な作
品であったのだな、と思う。

白黒時代のアニメ版からもう約40年子供たちに親しまれて
きたというのだから尋常ではない。恐らく戦後漫画史上、最
も子供たちに愛されてきた作品がこの『ドラえもん』であろう。

それではドラえもんの人気の秘密とはどこにあるのか?それ
はやはりドラえもんのポケットから出す「ひみつ道具」であ
ろう。「ひみつ道具」は万能だ。どんな奇想天外がことでもやってのける。

さて世間にはごく少数ではあるが「ドラえもんは子供の教育
によくない」というひとがいる。なぜそう思うのか聞いてみ
るとドラえもんを読んで育った子供は「自分はどんなことで
もできる」という「子供の全能感」を大人になってもひきずってしまうそうである。

しかしわたしはそのようなひとたちにちょっと待てを言いた
い。まずドラえもんをもっとよく読んでほしい。批判するな
らそれからにしてくれ、といいたい。

てんとう虫コミックス版『ドラえもん』第6巻の最終話「さ
ようならドラえもん」の話を諸君は記憶しているだろうか?
未来の国に帰ることになったドラえもんとの最後の夜、のび
太がジャイアンに絡まれるが、決してドラえもんに助けを求
めずにのび太がぼろぼろになって勝利する話だ。この話には
子供の全能感などというあまっちょろいものは微塵もない。
「誰かに労わってもらえなくては生きてゆけない存在」=子
供、から「自立した大人になるための準備期間」=少年、へ
の、のび太の成長がこの話のテーマであったのだろう。

よく「ドラえもん」は「サザエさん」や「うる星やつら」と
同じで「最終回が決してこない」作品だと言うひとがいる。

しかしそれは違う。

ドラえもんの最終回は第六巻収録の「さようならドラえもん」
であり、もうドラえもんはそこで完結しているのだ。その後
の話は恐らく時間を遡行して「最終回以前」の時間に起こっ
たことを描いているのだろう、と思う。

わたしも小学生の頃はドラえもんに夢中になった。しかしい
つのまにかドラえもんを読まなくなった。しかし今でも鮮烈
に覚えているのは「さよならドラえもん」の黒ずんでぼろぼろになっ
たのび太の台詞「勝ったよ、僕、これでもう安心して帰れる
だろ、ドラえもん」だ。

これからもいやいつまでも沢山の子供たちがドラえもんに夢
中になり、そして卒業してゆくに違いない。わたしももう卒
業してから何十年にもなる。しかし疲れ気味の深夜、自宅四
階(物置)につんであるあの黄色い装丁のドラえもんをむし
ょうに読みたくなる時がある。それは恐らく「すべてが許さ
れているように感じられた」子供時代への郷愁であるのだろ
う。

「さよならドラえもん」、そして新声優を配して生まれ変わ
ったドラえもんに「ようこそドラえもん」。

これからも子供に、そしてかって子供だった大人たちに無限
の夢を与えつづけてほしい。

 

 

 

 

さらけだす

 

「友だちができない」

と悩んでいるひとが沢山いる。かくいうわたしも友だちは多いほうではない。

それでは友だちを作るにはどうしたらよいのか。小手先
のお世辞や小細工は他人を喜ばせるかも知れないが、自
分を識ってもらうことにはならない「対症療法」であり
、長期的なスペンでみれば全く役に立たない。

まず自分の「あるがまま」の姿を他人にさらけだしてみ
よう。もちろんこれは勇気がいることである。「カッコ
悪い」ことであるかもしれぬ。しかしそうしなければ友だちなどできない。

人間など誰しも「カッコ悪いもの」であるのだ。食い物
を貪り、性欲に身を焦がし、糞尿を垂れる生き物である。
そう思えば「カッコ悪い」のも当然、と開きなおることができるだろう。

さて「さらけだす」このことによって他人は諸君のある
がままの姿を識るだろう。あるがままの姿を識ってもら
うことによって見栄や虚偽ではなく、「自分は本気であ
なたに対している」という気迫が伝わる。このことが「
本気の付き合い」である「友情」に繋がってゆく。逆に
変な見栄を張る、あるいは卑屈な態度をとったりするとた
ちまち諸君は相手にされなくなる。相手にその「不真面
目さ」が直観的に伝わってゆくのだ。これでは友だちなどできるわけがない。

「あるがままの自分」をさらけだすことは勇気がいる、
と先述した。自分の壁をぶち破って他人とサシで対す
る勇気、その結果、自分が傷つくだけで終わるのかもしれぬ。
かえって自分の立場が以前よりあやうくなるのかもしれぬ。
しかしそのように満身創痍になりながらも、なお、相手に対して「挑む」のだ。
それはもしかしたら戦場に身を投ずるのと同
様のレヴェルの勇気が必要であるのかもしれぬ。しかしそう
しなければ友だちはできない。友だちを作るというこ
とは命がけの行為に匹敵するのだ。しかしもしその結
果、良き友だちを得ることができたらこれに勝る喜び
はない。良き友は人生におけるあまりに貴重な財産である。

 

 

 

 

魚を食す

       

 秋である。

秋といえば食欲の秋、特に美味しい魚が獲れる。
旬の魚を上手く料理して食す。
これ以上の幸せはあるまい。
「美味しいものを食す」ことは人間にとってあ
まりに貴重な楽しみである。

しかし最近の若い諸君は「魚より肉」のほうが
好きである諸君が多いという。
なぜそうなのかはだいたい見当がつく。魚を上
手く食すには箸を上手く使わなくてはならない
からだ。このことが「面倒くさい」、それゆえ
てっとり早くむしゃぶりつくことのできる肉を好むのであろう。

しかし人間の生活にとってなにが大切か。と問
えば「細かいことをイチイチする」、このことほ
ど大切なことはない。以前に日記にも書いたが
「おおざっぱ」であることは生活がすさんでい
る証拠なのだ。それ故、魚の身を箸で細かくほ
じくり出してキレイに食べる、このことをイチ
イチやることが食生活の豊かさ、ひいては人生の豊かさに繋がる。

さて秋の旬の魚といえばやはり「秋刀魚」であ
ろう。「秋の刀のような魚」なんとも詩的情緒
漂う名前の魚である。さて秋刀魚には有効成分
「DHA」「EPA」が多く含まれている。こ
れらの成分は「血液さらさら効果」をもたらす。
「血液さらさら」であれば心筋梗塞、脳梗塞の
二大生活習慣病を予防できる。さらに最新の研
究では「DHA」には「ガン予防」の効果があ
ることが指摘されているという。なんと秋刀魚
は三大生活習慣病をすべて制するスーパー健康
食品であったのだ。あまりに素晴らしい魚であると言わざるをえない。

さて秋刀魚は刺身にしても善い。刺身にする秋
刀魚は背中にうっすらと黄色がかった色がのっ
ている新鮮なものを選ぶ。しかしやはり秋刀魚
の醍醐味は「塩降り焼」であろう。あっさりす
ぎず、しつこすぎず、適度な舌触り、はっきり
言ってあまりに美味い。「ナスは嫁に喰わすな」
という諺があるそうだが、わたしとしては秋刀
魚は親戚に喰わせるなといいたい。

さて旬の時期に旬の新鮮な食品を食す。これは
四季がはっきりしている日本人が持つ特権的贅
沢であるといってよい。こうして書いているだ
けでよだれがでてきた。よし、明日の夕食は秋刀魚だ。
今から楽しみである。

 

 

 

鯉を観る

 

 

 

 朝。

澄み渡った青空の広がる気持ちのよい日の朝。

わたしは朝食後の一杯のコオヒイを飲み終わる
とゆっくりとサンダルと履き庭へ向かう。

わたしの家の庭には大きな池がある。最近はめ
っきり流さなくなったが大きな岩の頂上から瀧
が流れる仕掛けもある凝った池である。

その池の淵にしゃがむと、ちやぷちやぷと鯉と
金魚が泳いでいる。鯉にしろ金魚にしろなんと
も愛(う)い。

思わず渋い顔がほころぶ。

餌を手にとって与えるとすーーーと浮いてきて
大きな口でパクパクと餌をついばむ。口の両脇
にくっついているナマズのようなヒゲがユーモ
ラスだ。

さてわたしは昔はウサギだの猫だのニワトリだ
のという陸上動物のマニヤであったが最近はも
っぱら鯉と金魚がよくなった。陸上動物にはな
いゆっくりとした落ち着き、そういうものが最
近のわたしを惹きつけるのであろう。

鯉は白地に赤がシンプルで善い。これに黒がゴ
マのように散りばめられた鯉もいるが、ややご
ちやごちやしている印象でわたしはあまり好か
ぬ。また真っ黄色の鯉、中には真っ黒い鯉もいる。実はこの真
っ黒い鯉が一番丈夫で長生きするのである。華やかな鯉は寿命が短い。

「美人薄命」。

この諺が鯉にもあてはまるのだろうか。

鯉の横でちろちろと泳いでいる小さな金魚。こ
の者らにもまた味がある。この者らを観ていると幼
少の時分に見た縁日の金魚すくいを思い出す。
また小学校でクラスのウシロにあった大きな水
槽で泳いでいた金魚も思い出す。これらの記憶
がいずれも憂いを含んでいるのはなぜであろうか。

こうしてわたしの朝の時間は終わる。

鯉と金魚。
このかわゆげで優雅な者たちはわたしの人生の
大切な伴侶である。

 

 

 

幼年幻燈館



わたしには小学校での記憶というものがほとんどない。

ただ広大な屋敷で「お婆」とふたりで暮していたのだ
った。両親は夜でなければ帰ってこない。その永遠ともいえる長い午後。

わたしは客間で歩いているオバQのビニール製
の人形を見た。オバQ人形はぎこちなくもヨチヨチと
歩いていたのだった。

わたしの祖父は物理学の教師であった。しかし本棚に
ある本はなぜかみな医学書であった。わたしは夢中で医学書を読み陶然とした。

日本脳炎。
破傷風。
イレウス。
膠原病
クローン病
象皮症
潰瘍性大腸炎。
全身性エリテマトーデス。

幼年時代のわたしにとってこれらの病名は詩であった。
わたしはなんどもなんどもこれらの病名をぶつぶつと暗誦して
いた。またこれらの病気の中で一番わたしが恐怖した
のは「イレウス」である。この病気は日本語で腸閉塞
という。それゆえわたしは自分の腸がもし詰まったら、
と恐怖した。そして本気で大便が口から噴き出すさまをいつもまぼろしのように視ていた
そして長い長い午後が終わる夕方、なぜか屋敷に奇妙な老
婆がリヤカーを引いて現れるのであった。そしてお婆に大根を売りつける。
その隙に必ず老婆はしわしわの顔をさらにしわくちゃにしてわたしをチ
ラリと見てニィと笑った。わたしはその老婆にどこか
暗い世界へと連れ去られるのではないか、と思いお婆のうしろに隠れ泣いていた。

さてわたしが日本で最も好きな詩人のひとりである吉原幸子の詩にこういうもの
がある。

「夏草 しげりはじめた 廃いテニスコート
 肺病の少女が 暗い窓の向ふにゐる
 少女は ぢっと 日々のまつりをみてゐる」

    吉原幸子『幼年連祷』(歴程社)より引用。

肺病の少女などわたしは知らない。それなのにわたし
は自分の幼年時代を思い出すとその背後にこの詩の風
景が不気味に広がっているのを感じる。もしかしたら
肺病の少女とはあの広い屋敷に閉じ込められたわたし自身の暗喩であるのかもしれない。

小学校卒業と共にわたしはお婆の屋敷を離れた。しか
しそのほのくらい微光に充ちた屋敷が不思議となつか
しいのはなぜであろうか。わたしは現在でも思ってい
る。早く子供になってあの屋敷に戻りたいと。

お婆は現在90歳近くで存命である。今度お婆にあっ
たらあの屋敷について聞いてみたいと思う。もしかし
たらお婆ならあの屋敷の秘密をすべて知っているのではないのかと。

 

 

 

フェイスメンテナンス

 

 

(↑ニコッ。↑)

 「男の顔は履歴書」とよく言われる。
しかし女性の社会進出が著しい現代社会では
「女の顔も履歴書」なのだ。つまり「人間の顔はすべて履歴書」なのである。
 
 そのためわたしは自分の顔を常にメンテナ
ンスしている。これはもちろん「美しい顔」
になるためではない。「社会において信用さ
れる顔」になるためにメンテナンスを行うのだ。

 まず一番簡単な方法が「フェイスヨーガ」
である。これは「ア」「イ」「ウ」の3つか
ら構成される。「ア」は口を縦に大きく開け
て「あー」と発音する。「イ」は口を横に広
げて「いー」と発音する。「ウ」は舌を大きくつきだして「うー」と発音する。
 これだけでこわばった顔の緊張がゆるんでおおらかな表情になってくる。

 次に顔のマッサージを行う。まず一番シワ
のよりやすい額・眉間を両手で丁寧にマッサ
ージする。次に頬骨の上の皮に両手を乗せて
ぐりぐり回転させる。次にアゴに両手をあて
丁寧に揉み解す。アゴというのは老化が出や
すい場所なので特に念入りに行う。これで顔のゆがみがかなり揉み解される。

 最後に鏡の前で「ニコッ」とする。これは
一見簡単そうだが実は難しい。「自然で感じ
のよい笑顔」をつくるというのはそう簡単にできるものではない。

 さて世間では「内面がその人の顔に表れる」
というひとが沢山いる。もちろんわたしもそ
のとおりであると思う。しかしその逆もあるの
ではないか。つまりゆっくりと落ち着いた自信
に満ちた顔つきをしていれば内面もそうなってくるのではないか。

 そう考えてわたしは対人関係で相手に好印象を与えるおおらかな顔になるため毎日寝る前の
ヨガの後に「フェイスメンテナンス」を行っている。この言葉はわたしの造語である。

 

 

 

謙虚に生きる

 

 「謙虚は成功のワンステップ」
「人間的成長はまず謙虚から」
「謙虚になるとシアワセ倍増」

等等。

「謙虚」という言葉が自己啓発書をにぎわせている。
どうも「謙虚」になるとイイ事がたくさんあるらしい。
と、いうわけで。

わたしも早く「謙虚」になりたい!と思ったのである。
しかしいざ「謙虚」になろうとしてもどうしたらよいのかピンとこない。
そこで謙虚に生きるための第一歩として講談社『日本語大辞典』で「謙虚」
という語を引いてみたのである。

「すなおでひかえめなさま」

この解説を分析すると「謙虚」であるには@素直、Aひかえめ、であることが大切らしい。

Aの意味はだいたい予測していたが@の意味もあったとは大変意外である。

さて@素直、これがまた難しい。まず偏見をなくし、まっすぐな眼でものを見て、またものごとをある
がままに受け取るという程度の意味であると推測される。しかしなかなかどうしてそのように物事に対
するのは並大抵のことではない。大人になればなるほど偏見が増えて「素直」ではなくなってゆくからだ。

「偏見をひとつ捨てると物事がひとつわかってくる
」とも言われるものだ。わたしも早く色んな偏見を
すてて自由自在に物事を見ることのできる「素直な眼」を養いたいと思っている。

さてAひかえめ、これも難しい。昨今ではアメリカ
ン・ナイズされた考えから「ひかえめ」=「ひっこ
みじあん」=「損」と考えるひとが多いようである
が実は「ひかえめ」とは「謙譲の徳」という日本的
美徳に繋がるものである。。現代では「俺が俺が、私は私
は」、とばかりにさしたる深い考えもなしに自己主
張ばかりの人間がたくさんいる。かくいうわたしも
それほど出来た人間ではないのに自分の考えが絶対
正しいなどという高慢ちきな態度になってしまうこ
とが多い。しかしそのような態度は「謙譲の徳」からほど遠い生活態度であろう。

わたしが日本で最も尊敬する実業家のひとりである
松下幸之助師も次のような社訓を残している。

「人として礼節を紊り謙譲の心なくんば社会の秩序は整わざるべし」

さてこのようなことから「謙虚に生きる」とはなん
と難しいことであるか理解いただけたと思う。わた
しはなるべく「謙虚」であることを模索して今後の
人生を生きたいと思っている。諸君も一度「謙虚」
とはどういうことなのか、自分の頭で熟考されるこ
とをお勧めする。そうすればもしかしたら今まで見えていなかったものが見えてくるのかもしれぬ。

「人間的成長はまず謙虚から」わたしは最近このように痛感している。

 

 

 

 

エネルギー一定の法則

 

 深夜。

わたしはこの日記を書くほかに他のコンテンツの更新もやる。
日記を書いた日はどうも具合がよくない。文章に
「キレ」が出ないのだ。だらだらと垂れ流したよ
うな文章を書くのはわたしの美意識に反する。故にそのような日は寝る。

さてなぜ日記を書くと他のコンテンツの更新がうまくゆかなくなる
のか。恐らくその答は「その日一日で使えるエネルギー」を日記を書くことでほとんど燃焼させて
しまうからだろう。人間が一日で使用できるエネ ルギーは毎日一定である。さらにいえば人間が一
生で使用できるエネルギーもすべての人間に等価であるように思われる。

 わたしは東京在住時代、実に様々な人間を見てきた。回りから「キレ者」と恐れられている人間は
非常に沢山いたものだ。しかしそのような人間は著しく道徳意識が未熟であったりしたものだ。そ
の一方で「人情家」として誰からも愛される人間も沢山いた。しかしそのような人間もまた少々頭
の回転が遅かったりしたような気がする。

この現象は「どこかが突き出るとどこかがひっこむ」というたとえで言い表すことができるだろう。
完璧な人間、あるいは完全な球体である人間などひとりもいないのだ。人間はみな凸凹を持った不
完全な存在である。

さて。
よく言われるたとえであるが「人」という字は棒
が二本もたれかかってできる、という話を思い出
していただきたい。凸凹のある人間であるから人
間は他人と関らないと生きていけない存在である。
自分の短所を他人に補ってもらうのだ。またわた
しがこの日記で繰り返し強調してきたことである
が、他人との軋轢を経ずしての人間的成長などあ
りえない。これはわたしの経験からつかみとった持論である。

人間というのは一定の決まったエネルギーしか使
うことができない。また一生使用できるエネルギ
ーの量もまた決まっている。石油と同じで人間の
エネルギーも無尽蔵ではない。それ故、自分がな
にに力を注ぐべきか常時考えていることが必要で
ある。勘違いの方向への努力は無駄であるどころか有害である。
自分の注ぎ込む目標ができて一定
の時間の努力を継続するとやがて自分の「専門」が見えてくるだろう。

人間のエネルギーは貴重なものである。このエネ
ルギーを遊蕩や淫蕩に無駄に消耗することなく、
自分と社会の役に立ててゆこう。これは諸君への
メッセージであるのみならず、わたし自身の自戒の言葉である。

 

 

 

待つ

  待つ。
じっと待つ。

 「あわてる乞食はもらいが少ない」。
 「急いてはことを仕損ずる」。
 
 それゆえに機が熟するまで動いてはならない。
感情にまかせて突っ走ってはならない。むしろ
自分の感情を直視し、掌握し、コントロールし
なくてはならない。これが胆力を練るということである。

 自分の意志、これだけではものごとは成就し
ない。どんなに努力してもダメな時はダメであ
る。ものごとが成就するには自分の意志と外界
の条件が一致しなくてはならない。外界の動き
を機敏に察する眼を常に見開いていなくてはならない。

 そのようなチャンスが到来するまでひたすら
待つ。一週間でも一ヶ月でも一年でも待つ。し
かしチャンスが到来した瞬間には猛然と動く。
そうすれば物事は成る。
 
 ゆっくりと茶を飲み、自分の心を落ち着かせ
、じっと座敷に座って待つ。

 座敷の外では家の屋根から雪が落ちる音が聞
こえる。冬の一瞬の日が照る。心が安らいでゆ
く。鯉たちも池の底でじっと春を待っている。

 そんなことを考えながら雪に閉ざされた家で
雪解けを待つ冬のある日のわたしであった。