最後の超念力 第二弾 Part.1

 
石井普雄先生・著作の「最後の超念力 第二弾」より抜粋致しました。
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一冊  \ 1,100 (税込定価 816円+送料 284円)
 

念力治療の三つの方法

 
私は治療家ではない。ましてや医者でもない。天啓によって人助けをしているだけである。
それゆえ、私の治療方法は、人助けのひとつの手段にすぎない。
宇宙エネルギーの心は見通しゆえ、観念にとらわれたり、絶対的な定型を必要としたりは
しない。だが、私が実践を行ってきた上で、三つの方法が可能であることが実証された。
 
< 直接治療 >
 
これは治療を受けに直接来てもらう方法である。直接患者と向き合い、私が送念する
方法である。向かい合えば大抵相手の求めることがわかる。
病気の場合、それも特に内臓の場合、見極めは難しいが、二〜三分で見当はつく。
私は全神経を集中させて、相手の悪い部分を右手と左手に閉じ込め、力いっぱい
エネルギーの投与をする。私の力ではないから何の心配も要らない。
手の上からのエネルギーと手の下からの圧力が、私を媒体にして放射される。
私が全身でその力を押さえ込むと、しばくして患部が動いてくる。
そこで私はその患部を思い切って放す。その時浄化されるのである。
例えば、夏であるのに、セーターと毛糸の靴下を着けている冷え性の女性にパワーを
かけていると、足の部分に何か詰まったものを感じた。
それを一気に、パワーで一掃すると、詰まったホースが空になるような感触を受けた。
私は足の血管が詰まっていたのだと言うと、その女性はびっくりし、 「足の悪いことが
どうしてわかったのですか」と不思議がった。こんな例もある。
「長年の頭痛で何をやっても治らない、何とかこの頭痛を取り除いて欲しい」 と言う。
私は頭痛の治療方法をとってみた。
しかし何かがひっかかる。背中だ。
私は思い切って背骨にパワーをかける方法をとった。
数分後、その男性の顔にみるみる喜びが溢れた。
背骨は全神経が集中しているところである。
長年の頭痛が治らなかったのは、当然なのであった。
 
 
 
 
 
 
 
< 電話治療 >
 
電話で念力をと言うと、びっくりされるが、これはよく考えてみると、不思議でも何でもない。
なぜなら宇宙のエネルギーの前には時間と距離は関係ないからである。
たまたま電話機という物体を通すだけのことだ。
患者に受話器を耳につけさせ、私は送話器を置いて両手からエネルギーを放射させ、
送話器を通す。時間は一〜二分位でよい。
この方法は、過去に数え切れないほどやったが、効果については直接治療と何ら
変わりはない。
 
 
 
 
 
 
 
< 遠隔治療 >
 
近代医学と念力療法の一番の違いは、どんな僻地の人にも治療が可能なことである。
どんな所へでも、またどんな時間でも送念が可能なことである。
相手さえ特定できれば、念力を送ることはできるのである。
方法は、直接治療と変わりはない。この人をお願いします、と念じればよいのである。
この方法は特定の相手さえあれば、たとえ写真でもよいわけである。
その効果については、論じるまでもない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

発想即行動を信念として

 
戦後の二十年間、私はひたすら真面目に、私なりに一生懸命に生きてきたと思う。

佐賀県での少年期、外地で迎えた孤独な青年期、振り返ってみると、私を支えてきた

ものは一体何であったか。
苦しいと思う瞬間が次の行動の引き金となり、マイナスをプラスに変えようと必死であった。
常に人を思う気持ちがあったと思う。
平凡な私にとって、最大の武器はそれしかなかった。
私は大阪に移り、会社勤めをした。
諸々の事情でその間、数回も転職し、最終的には大阪にある殖産住宅に勤務した。
十八年の間、真面目だけが取り柄みたいに勤務し、決して豊かではないが、それなりに
幸せなサラリーマン生活を送ったのである。
昭和五十年の二月に不思議な体験をし、天啓を授かってからも、決して平穏な毎日では
なかった。
退職までに間があったが、私は思い切って、昭和五十年七月に生まれ故郷の佐賀県で
念力治療所を始め、医者にも治せない難病の治療にあたった。
一日に二十名ほどの人が治療を受けに来たが、どの人にも喜んでもらえた。
少年時代の貧しさを引きずったまま、発想即行動がそのまま私の生きる指針となった。
私自身の力ではない。天からの力であると思えば、私のパワーはさらに偉力を増した。
しかし片田舎のことゆえ、治療に来る人にも限りがあった。
そこで昭和五十二年、私は超念力の一般公開を行なった。
宗教色の濃い、閉鎖的な土地でもあり、その壁は厚かったからである。
そこで私は、八時間に六十人の患者を治した。
一時間に七〜八人、私にとっての戦いであった。
一人でも多くの人に喜んでもらいたい。
私が授かったこの力を、一人でも多くの人に分けてあげたい。真剣な日々であった。
是が非でも患者の苦しみを取り去らねばならないという、追い詰められた状況でも
あった。何が何でも治すこと、これが私に与えられた課題でもあった。
しかし自信などというものではなく、天啓という事実を再認識してかかった。
メスも薬も使わないこの力で、悩める多くの人たちを苦しみから救いたい、この一念しか
なかった。
そして、他人の苦しみを救うことは、同時に自分のエネルギーの充実でもあった。