約束ごとの消滅〔その1〕
向 井 未 来
「現代川柳」にくらべ俳句の約束事はたいへん多いなと感じているが、複雑な決まりはいずれ少しずつ廃れて行
くのが世の常と考える。
俳句は俳諧の連歌の発句が独立したものと言われ、俳諧の連歌には事こまかな約束事があったようで、当然その
発句にこそより厳しい約束事があり、俳句として独立した現在も当初の決まりはほぼそのまま受け継がれているよ
うである。
俳諧の連歌が興る前の本来の連歌は、用語の使用制限でもっと厳しい約束事があったようでもある。現在、俳諧
の連歌は少数の愛好者のほかにはほとんど行われていない。
約束事が多すぎるために、現今では広く一般に流布するには無理があるからだと私は思っている。
「和歌的で貴族的な風流韻事の連歌に対して、笑いやおかしさや、現実的生活詩を求める俳諧の連歌は、
《言い捨て》といってその場かぎりの遊びと考えられていた。俳諧の連歌は当時の新興商業都市大阪を
中心に大流行をみた」 (岩波小辞典『日本文学』―古典―より)
現代川柳は日本全国に流行しているようだが、大阪を中心の関西で一層盛んなようにお見受けしているし、今日
の俳句よりも現代川柳のほうが、《言い捨て》の伝統を引き継いでいるように感じられる。つまり、現代川柳には
過去の秀作を残そうとするような、『歳時記』に代わる教典のようなものが存在しないということなので。
私は短歌や現代川柳世界の内情に疎いのでよく分からないが、俳句世界では俳諧の誕生以来4百年以上を経た今
日、伝統という言葉はよく使われるが《秘伝》という語は聞いたことがない。約束事が非常に多かったという俳諧
の連歌が盛んだった時代ですら、秘伝の語はなかったようなのである。すなわち、庶民が集団で楽しむものに秘伝
は不要であり、また、隠そうにも集団ではすぐほかの流派にばれてしまうので、秘匿する意味がなかったからなの
であろうか。
確かに秘伝があれば、1つの集団の団結を維持し指導して行きやすいに違いない。しかし、大衆芸術となった俳
諧では、集団の規模が大きくなりすぎたといっていいだろう。
秘伝は独特の組織制度を好む茶道、華道、歌舞伎、能楽などの世界で、家元や師匠が引き継いで行くのにふさわ
しい。尤も、大衆に広く流布している現代の茶道や華道のようであれば、仮に秘伝があったとしても家元だけに引
き継がれ、下部の師匠たちは組織維持のための免許制度だけを受け継ぐということになるのだろうか。
俳句世界に秘伝や免許制度はないが、結社を引き継いで運営を続けるには世襲が第一であり、次いで前主宰の強
い推薦の意向が反映される。これは、俳句界全体の暗黙の了解に拠っているようである。物事を契約によらずに義
理人情で進める、いかにも日本的やり方である。外国のハイク界はどのようなのか、この件に関してはいずれ論議
されることにはなるだろう。
一昔前の俳句世界は、今の開かれた世の中ではとても信じられない話だが、破門(同人除名)などもまかり通っ
たというから、恐れ入った閉鎖世界であったものである。しかし現在は、所属している結社とそり(主義主張)が
合わなくなれば、追い出される前に飛び出して新しい結社に移ったり、新結社を興すことは誰にも自由となってい
る。
日本も50年前の敗戦により、ようやくにして長かった封建社会、全体主義の国から自由主義国家に移ったので、
社会変革が俳句界という閉鎖文芸集団へも影響を及ぼしたことの現れなのであろう。
日本は長い間、国内から自ずと沸き出る文化が世界に影響を及ぼすことが少なかった国で、いつも文明の利器は
外国人がもたらし、制度の改革は外国に合わせざるを得なくなってから行われてきた。そのような過去の現実は、
政治家でなくとも非常に残念に思うことだろうが、それはさて置き、いずれ、既存組織を上手にまとめるにしても
新結社を興すにしても、主宰の器量としては強力なリーダーシップ(政治力)を備えた人格が要求されるようであ
る。
物事に複雑な規則が多ければ多いほど、規則をマスターするまでは難儀するけれども、マスターしてしまえば楽
しみの方が大きくなる。また、規則が複雑すぎれば、より多くの愛好者を獲得するのに苦労するだろう。反対に、
規則が簡単すぎれば面白さが薄れ飽きられやすくなってくる。スポーツ、例えば野球のように、かなり複雑なルー
ルに縛られていても、子供のときから慣れ親しんでいれば誰でもマスターできることになる。
俳句は、第三者的に考えても子供には不向きと私は思っている。そもそも芭蕉が説いた俳諧の極意とは、閑雅・
枯淡に沿う〔さび〕とか、繊細な感情の余情〔しをり〕とか、修業を積んだのちに得られるさらりと表現される詩
情〔軽み〕とか、老境に近づいて初めて達成されるかのような、芸の《道》を求めることに最終目的があるかのよ
うな、子供や年少者向きではないのである。
そのため野球のように、すべての子供に子供のときから俳句に親しめとは強要しがたいものがある。一方、多く
の一般社会の人たちにとっても俳句は、江戸の昔からご隠居、金持ちのつれづれのすさびであったとも認識されて
いる。そのためまた、子供のときからの遊びとして奨励するわけにも行かない。今後の俳句は、少なくとも青年の
ころから多くの人たちに親しんでもらいたいとすれば、老境文芸だとか遊びだとか夏炉冬扇だとか、そのような認
識を持たれないような文芸に育たなければならないだろうし、学校教育での俳句認識の取り上げ方は、180度転
換されなければならないと感じている。
今の俳句の規則は昔の連歌にくらべればちょうどよい複雑さだとも言えるし、川柳にくらべれば複雑すぎる嫌い
もある。俳句のこまかな決まりは、一昔前までは流派の特徴をアピールするには有効だったかもしれないが、俳句
総合月刊誌が一大発展を遂げている現代では、流派間の垣根さえも透け透けで、古い決まりは少しずつ崩れつつあ
るように思われる。よい意味では伝統と言い、皮肉めいた言葉では因習とか前例とか言える、封建的な側面を引き
継いでいる一種の縛りが崩れつつある時代に入っているということなのだろう。たいていの世界で規則は、組織、
集団の統率にはなくてはならないものだが、古くなった規則は改められるか、捨て去られるほうが実際的だとの認
識も重要であろう。
現在、俳句に残っている大きな決まりは、季語が含まれていること、五七五の定型であること、切れがあること、
旧仮名遣いであることであろう。この決まりは、必ず守らなければならないと文部省などが決めた強制的なもので
はなく、最低でもこの決まりだけは崩すまいとしている俳人の数が圧倒的に多いということなのである。
ほかにもこまごまとした似たりよったりの決まりはあるが、それはそれぞれの結社内特殊事情という程度の主張
の差異である、と私には見える。またそして、実は俳句にいろいろ約束事が多く見えるということは、少しずつ異
なった主義主張を持つ結社がたいへん多いということから生じている皮相のようでもある。しかし、個々の俳人の
多くは、いたずらに新しい俳論を張ったりしない。既製規則の枠の中で、実作によって存在を示すことこそ俳句の
本道であろうと、そんなふうに悠々と構えているように見受けられる。なるほど私も最近では、俳句理論は芭蕉と
正岡子規と桑原武夫と、3人合わせると全部言い尽くされてしまったようであると、そんな考えに至っている。
有季・定型・切れ・旧仮名という大きな決まりのうち、現代では先ず《切れ》の規則が薄らいできている。切れ
は発句が必ず備えているべきものとされてきた。
現在も切れの規則はきっちり守ろうとする流派は多いだろう。しかし実は切れの決まりは、正岡子規が発句を独
立の文芸とみなして俳句革新を成し遂げた際に、すでに打破されてしまっているルールに過ぎない。すなわち切れ
は、俳諧の連歌の中の発句として詠まれるときには、発句が備えていなければならなかった縛りなのであって、一
個の独立した文芸作品として詠まれる俳句は、単独で鑑賞に呈されることを前提にしているのであるから、切れを
持つべき必然性はすでに消滅していることになる。
唐崎の松は花より朧にて 松尾芭蕉
掲句は、大津の門弟たちの間で「切れ字がない」と騒然となったと伝えられるエピソード句である。「て」や
「にて」止め(切れ)は余情があり過ぎるとされ、発句には使えないのである。芭蕉はこの句を作ったときすでに、
正岡子規の俳句革新を経るまでもなく、発句は今日あるような単独鑑賞が主流となるであろうことを見通していた
のだったろうか。
私は最近そのような考えを抱くようになったので、自分の句に「切れ」が有るか無いかにあまりこだわらなくな
っている。そしてまた、毎日作りだされるおびただしい数の現代作品の中にも、切れのない句が結構多くなってき
ているようにも思っている。
切れのルールがなくなるということは、二句一章へのこだわりもなくなるということである。五七五のうち、区
切りのよいどこかで必ず1回切れなければならず、2つのフレーズで一句が成り立たなければならないという論が
消滅してしまうことなのである。
またそういう崩れ方は、
目には青葉山ほととぎす初鰹 山口素堂
のように一句の途中で2度、3度と切れても差し支えないという考えを容認することにもなる。
古池や蛙飛び込む水の音 松尾芭蕉
芭蕉がこの句によって俳句開眼を成し遂げたと自ら明言している、と正岡子規は書いている。(岩波文庫『俳諧
大要』―正岡子規著―の中の「古池の句の弁」より)
代表的な切れ字《や》が入っていて、《や》の前と後とを2つに分けて考えるため、目の前の古池と、蛙が飛び
込んで音を出した水は別の方に在る池の水だと、そのようにも鑑賞されることになる。また、《や》で2つのフレ
ーズを組み合わせるという詠み方がされた句であるから、二物を取り合わせたところに発生する深遠な意義がある
のだと評されることにもなる。
しかし正岡子規によれば、「この句を見て、作者の理想は閑寂を現はすにあらんか、禅学上悟道の句ならんか、
あるいはその他何処にかあらんなどと穿鑿する人あれども、それはただそのままの理想も何もなき句と見るべし。
古池に蛙が飛び込んでキャブンと音のしたのを聞きて芭蕉がしかく詠みしものなり」(『俳諧大要』より)という
ことになる。
つまり、《や》の前と後ろで2つに区切って、合わせた結果の何かをそこから無理に読み取ろうとしなくてもよ
いのだと、そう説いているような気がするのである。すなわち、当時の発句は《切れ》を持たなければならないか
らそう作ったのであって、この句は純粋な写生句と見るべきで、この句において切れはそれほど重要なものではな
いのだ、と。独立した文芸として認めるべき俳句は、切れがあろうとあるまいと、一句自体がすでに完結された形
なのだ、と。
《川柳誌『すずむし』平成11年5月号に掲載》