日本語の語順と俳句の切れ(下)
 

 

 

 


ピジン語、あるいはクレオール語という言葉をお聞きになったことがおありでしょうか。ピジン語

 

とは、まったく異なった言葉を話す二つの集団が、さまざまな理由で接触し続けたとき、互いの意志

 

が伝わるように、自然発生的に形成される第三の言葉なのだそうです。その混成語ともいえるピジン

 

語が、二世、三世の人たちによって難なく話される状況に至ったとき、それをクレオール語というの

 

だそうです。

 

いろいろな都合で接触する二つの現生人類の集団の間に、ピジン語なりクレオール語なりが発生す

 

るのは、両者とも、あの今から二十万年ほど前にアフリカに誕生した一人の母を共通祖先としている

 

からでしょう。なにしろ彼女「アフリカのイヴ」は、言語駆使の能力が進化するような、そんな遺伝

 

子をもっていたにちがいありませんから。

 

仮にです、ネアンデルタール人の一集団とクロマニヨン人のある集団とが、三万年前の共存時期に

 

どこかで遭遇し、長期にわたって交流があったと想定してみましょう。

 

しかし結果として、ピジン語は生まれなかったことでしょう。なぜならネアンデルタール人は、石

 

器づくりにかけてはクロマニヨン人に負けず劣らずの腕前に達しえたかもしれませんが、言葉が得意

 

ではなかったのです。言語駆使にかけては、到底クロマニヨン人にかなわなかったからなのです。

 

それが現生人類どうしになりますと、まったく通じない言葉をもった集団でも、いとも簡単に言葉

 

の同化融合が起こって、互いに通じ合える新しい言語を生み出していくのです。

 

現生人類のもつ言語機能がいかに抜群であるかは、次のような例でも納得することができます。

 

たとえば、英語圏以外で生まれ育った両親が英語圏に住むようになり、赤ちゃんが生まれたとしま

 

す。その子はやがて生まれた国の言葉である英語を、完璧に話すように成長するでしょう。現生人類

 

は、生まれ育ったところで話されている言葉を、難なく母語としてしまうわけです。文法規則の知識

 

なんかもっていなくても、住んでいるところの言葉の達人となって、他国生まれの両親より、はるか

 

にぺらぺらと話せることになるのです。もし両親の母語が日本語やトルコ語であったとしても、「動

 

詞の位置がさかさまだ」なんていう違和感を、まったくいだくことはないはずです。言葉が上手にな

 

る遺伝子のおかげでしょう。

 

どうして日本など一部の国が、他の多くの国々とちがって反対の語順になっているのか、そ

の因果関係については、また別の機会に述べてみたいと思います。反対の語順が起こった国

は、日本やイギリス(古英語)のような島国であり、あるいは韓国・北朝鮮やイタリア(ラ

テン語)、トルコのような半島状を成す地形の国であって、そのような地理的事情が決定的

な要因となっていると私は考えています。

 

 

俳句は省略の文芸だと言われます。切れの効果を最大限に凝らしたり、助詞や関連語句をばっさり

 

と削ったりするほかにも、散文のように思いの多くを述べることを、意識的に避けて作句します。作

 

品を提示するだけで、観賞は読者の想像にまかせる方法をとり、作者は一句のぜい肉を削ぎ落とすこ

 

とに集中します。また、季語の本意・本情を信頼して季語に大きくよりかかり、季語に含まれている

 

事項事象を、わざわざ説明しないように気をつけます。

 

まことに「言いおおおせて何かある」のとおり、「詠み尽くしてしまっては、いったい何が残ると

 

いうのか」との投げかけもあるのであり、逆に読み手側が余情・余韻を観賞できるのも、言葉のもつ

 

不思議な力のおかげなのです。

 

ピジン語発生の初期段階では、日本語でいうところのてにをは(助詞)》などは、最初から無視

 

されてしまうのだそうです。出来上がったばかりのピジン語でも、互いに相手の意志を理解し合える

 

のは、言葉にはそのように作用する、特別な仕組みが含まれているからなのでしょう。

 

日本語を母語とする私たちは、芭蕉の句に見ましたように、主語となるべき語と目的語となるべき

 

語の叙述順序が転倒していても、また、素堂の句に見ましたように、助詞省略・語句省略があったと

 

しましても、文章の内容を充分に理解できる能力に恵まれていることになります。

 

わずか十七音の極端に短い文章ですが、俳句とは、俳人仲間だけで通じ合える、一種のピジン語か

 

クレオール語のようなものでしょうか。いえいえ、まったくの句作未経験者でも、経験を積むことに

 

よって難なく切れのルールを理解し、語句省略の技法を身につけることができるようになります。そ

 

れはなんとも不思議な、言語の力に拠っているからなのでしょう。言葉とはいったい、何なんでしょ

 

うか。

 

 

私たちは日常社会生活の会話では、語順などは気にせずに過ごしていますが、それが文章となりま

 

すとちがってきます。俳句に親しんでいるとなおさらですが、省略や転倒の技法で作られた文には、

 

特別な感興を覚えることがあります。それは、日常使い慣れた語順とは別の魅力が引き金となって、

 

新たな感動が呼び起こされるからでしょう。言葉の力の不思議さです。言葉は人間の気持ち、すなわ

 

ち心と、渾然一体となっているのでしょう。

 

文法規則の理論や言語学というものがあまり発達していなかった江戸時代、芭蕉や素堂そのほかの

 

俳人たちも、十七音の中の一字一句にこだわりながら、知らず知らずのうちに、「言葉というものは、

 

逆さまに綴られても、多くの語句が省略されても、意志が通じ合えるものだ」と、《言葉の仕組みの

 

深淵》を垣間見ていたのではないでしょうか。

 

そしてこれが西洋の人々ならば、徹底してその深淵を解明しようと挑み、言語学発達の端緒にもな

 

ったに違いありませんけれども、東洋的で、大づかみに悟ることに慣れてきていて、かつ形式美と伝

 

統を重んじる日本では、言葉の仕組みの解明には手をそめることなく、《切れ》のルールや省略技法

 

といった形〔かた〕の確立に努めてきたために、言葉の仕組みの深淵を、覆い隠してしまっていたの

 

ではないでしょうか。

【終り】

 

俳誌『あざみ』平成18年2月号掲載

 

 

日本語の語順と俳句の切れ()へ戻る   目次へ戻る   Home Page