日本語の語順と俳句の切れ(上)
 

 


 

言葉は、太古から現代までの間に地球上に現れたたくさんの生物群の中にあって、人類にだけ発

 

達したと言われます。現生人類とよく比較されるのはネアンデルタール人で、ネアンデルタール人

 

は確実なところ、三万年前まではクロマニヨン人と共存していたとされています。しかし、ネアン

 

デルタール人はじつは、言葉があまり得意でなかったために、クロマニヨン人にとって代わられて

 

しまった、との説が有力なのだそうです。

 

クロマニヨン人の子孫たちはその後、ますます言葉を上手に使いこなすように進化しました。し

 

かしながらネアンデルタール人は、なにが原因だったのかは分かりませんけれども、言語機能をう

 

まく発達させることができなかったようなのです。

 

クロマニヨン人と同じ系統に属する現生人類は、アフリカに現れたたった一人の母から生ま

 

れたことになるのだそうです。そうしますと現在の世界中の人々は、みな共通の祖先をもっている

 

ことになりますが、それが国ごとに、あるいは民族ごとに、ことごとく言葉がちがうのですから、

 

これはなんとも不思議なことです。互いにこれほどまで異なった言葉をもっている現実をみますと、

 

やはり人類がバベルの塔を築こうとしたための、神さまの罰なのでしょうか。

 

 

日本語を考えました場合、日本語と多くの外国語との何よりも大きな違いは語順です。十三億も

 

の人たちが使う中国語も、音声言語ということでは、これが同じ国の言葉かと疑うほど、互いに通

 

じ合わない幾種類かに分かれるのだそうですが、漢字という中国語共通の表記様式で見るかぎり、

 

日本語とは反対の語順です。あの漢文を習ったころを思い出してみましょう。返り点なんかをつけ

 

て、一部逆行したりして読まなければなりませんでした。

 

多くの外国語と反対の語順をもつ言葉は、日本語のほかには、韓国語(北朝鮮も同じ)、トルコ

 

語、それにラテン語などが知られています。さらには、一時期の英語などもそうだったということ

 

です。

 

日本人側から見れば、中国人やヨーロッパ人の話す言葉は、反対の語順をもっていることになり

 

ます。けれども、いかんせん逆さまの語順をもつ言葉は、全世界的には多勢に無勢、少数派(自然

 

言語の種類数ではなく使用人口で)になってしまうわけです。

 

ところがです。現生人類は、言葉が上手になる遺伝子をもった、ただ一人の母を祖先としている

 

のですから、各国、各民族が、てんでんバラバラになに語を話していようとも、世界中の人々の言

 

語能力というものは、まったく同等だということができるでしょう。バベルの塔建立の企てに激怒

 

した神さまも、ちがった出自の人々の間では話が通じないようにしたのでしたが、現生人類から言

 

語能力までは奪ってしまわなかったようなのです。

 

 

さて、俳句でいう切れとは俳句独特のルールで、同じ十七音の文芸である川柳との区別に、

 

切れの有無を主張する論もあります。

 

代表的な《や》という切れ字は、十七音という短い文章の中では、効果がたいへん目立つことに

 

なります。それは、倒置法という文芸上の技法ともちがっています。

 

閑さや岩にしみ入る蝉の声      松尾芭蕉

 

たとえば、この芭蕉の句を、五七五のリズムや十七音にこだわらない散文に書き改めますと、

 

「蝉の声が岩にしみ込むほどの静けさである」となりましょうか。

 

日本語では散文にしますと、どうしても一番強調したい結論の語句である「静かさ」が最後にき

 

て、蝉の声を主語にしたほうが都合がよくなってしまいます。それが俳句では、最も強調したい

 

「静かさ」を冒頭にもってくることができます。《や》という切れ字で、上句と中下句のフレーズ

 

とをきっちり分断し、一番強調したい語句を文の最初にもってくるのです。

 

もっとも一句一章の句では、かな》《けりのように文末に置かれ、語句やフレーズを強調す

 

るのに用いられる切れ字もあります。それは、普通の日本語のように結論が後に置かれる、日本語

 

の根源的文法に沿った叙述の文ということになります。

 

一句一章の句のように、日本語の基本文法にのっとった文ならば、まるで「黄金を打ち延ばした

 

るごとく」に、途切れ目がありません。たしかに、結論を最後に据える言葉なり文章なりは、日本

 

人の肌には一番なじみやすいので、俳句でもそのように出来上がっているのが最良の句だといわれ

 

る所以でしょう。しかし日本人は、《や》を用いる俳句のように語順が転倒している文章も、たや

 

すく理解することができるのです。

 

もう一句、別の例を挙げます。

 

目には青葉山ほととぎす初鰹     山口素堂

 

この句、上句にはにはという助詞が入っていますが、あとは助詞がありません。普通の作り

 

方ならば、二句一章ということで上句と中句以下とを切ったときは、中句と下句の間は切らずに一

 

つのフレーズとしてまとめます。

 

素堂のこの句は、中句では「山には」のにはが省略され、下句では「山」やには》にあたる語

 

はもちろんのこと、いっさいの関連語句も略されていて、ただ初鰹と提示されているだけです。中

 

句下句と順を追って省略が強まっていくような、そんな技巧が凝らされています。

 

その結果、中句では「耳には」の耳といいますか、「ほととぎすが鳴く」の鳴くといいますか、

 

それらが省略され、下句では「口には(食すには)」の口が省略されている句だと、そのような解

 

釈が可能になるわけです。強調したい事項三つを同等になるように記述し、並列手法といいましょ

 

うか、そんな技法で初夏の感動が詠いあげられています。

 

このように、上句中句下句とも体言でとめ、てにをは(助詞)》などで連絡をもたせていない

 

ため、それぞれのフレーズが切れていて、文章としてはつながらない。

 

しかしそれでも、短文とはいえ意味が理解できますことは、これはまた不思議なことです。この

 

ような現実は、単に俳句特有のルールに、俳人や読者が慣れてしまったからなのでしょうか。

 

俳誌『あざみ』平成18年2月号掲載

 

【続く】

 

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