第5章 言語の選択(3)

 

言語選択の検討分科委員会がかかげた3つの条件を満たす言語がしぼられてくる途中で、当然、言語があわせもつ音声と表記の、

 

どちらを重視する言語を選ぶか、徹底した議論がたたかわされたことはいうまでもない。音声を重んじる言語と文字を重視する言

 

語。将来、巨人たちの思考や精神に、どちらがどのような影響をあたえるか、表記様式の根源が探られたのであった。すでに分科

 

委員会による言語の採択は決定しているけれども、さかのぼってそのときの様子をすこし述べることにする。

 

 

文字とよばれる記号や符号が生まれてから1万年も経っていないのに、文字の誕生は、それまで耳にたよっていた言葉の世界、

 

つまりは、なん万年なん十万年ものあいだ踏襲されてきた音声言葉だけを信頼する社会、音声記憶に重きを置いた人間関係を、あ

 

っさりと突き崩してしまった。その、文字の誕生後の、1万年にもみたない短い時間での文明の発達にはおどろくべきものがあり、

 

まるで文字が、文明発展の劇的起爆剤となったかのような様相を呈している。保存のきく文字の出現によって、すぐに消えてなく

 

なる音声だよりの太古からの社会システムは、もはやくずれ去ろうとしているようにも見える。

 

だが、文字の効用だけが、文明社会発展の主役だとかんがえてはなるまい。文字のよさの第一は、人類の脳が記憶負荷から解放

 

されたことにあるのであり、記憶負荷からの解放によって人類の大脳は、創造的な仕事にかける時間をより多く得たことなのであ

 

る。人類がここまで無数の強靭な他の生物たちとの競争に勝ちをしめてきた礎(いしずえ)は、言葉によってはぐくまれる、宇宙と

 

一体になり得る感性》だということだが、では、その感性をそだてるのは、音声のほうであろうか、表記すなわち文字のほうで

 

あろうか。

 

 

「喜怒哀楽に富んだ音声は、感情を反映させた表情をともなっていて、人の心を強くうつ。そのために文字から読みとるよりも、

 

相手の意志や考えが記憶されやすい」

 

「音楽のように語られる言葉が、聞く者に心地よくひびくのは、宇宙のメロディーとリズムとに共振しているからである。音声

 

のほうがより感性をそだてることになる。とくにメロディーは、リズムより大事だ」

 

「宇宙に存在する摂理にしたがっている言葉は、宇宙における生命維持の理にかなっているはずで、まちがいなく、成人となっ

 

てからも前頭葉を発達させつづける言語である」

 

「一杯のコーヒーをのみながら、あるいはビールのジョッキをかたむけながら、世間話やとりとめもない話に時間を割く。昔な

 

らば、地域によってはであるが、“水タバコのまわしのみをしながら”との光景も想いうかべることができる。そのような交歓の

 

場を日常生活のなかでたくさんもつことで、人々は親近感、親密度を増してくる。家庭での食事に、たっぷりと時間をかけるのも

 

よいだろう。日常茶飯事の話をしているだけで、脳機能がきたえられ、かつコミュニケーションが図られてゆく。音声に重点が置

 

かれた言語のよいところがそこにある」

 

「言葉は大脳のうちでも、とくべつに前頭葉との関連が深いことは明らかだ。前頭葉は思考に深くかかわる部位であり、創造・

 

創意にかかわる部位である。抽象的な思考につよい脳をそだてるのに役立つのは、文字のほうではない。文字のうちでもとくに象

 

形的な傾向が残る文字は、視覚系統がはたらく脳機能をそだて、視覚による想像力や連想力をはぐくむのには都合がよいようでは

 

あるが」

 

「象形文字の要素をもちつづける視覚型文字は、いうなれば、脳裡に書物の字面をおもいうかべる機能を脳内に発達させている

 

ことになる。慣れてくると瞬時にその文字の意味の把握に熟達するとはいうものの、そのような言語を使っている国なり社会では、

 

書き物を読む時間にいそがしく、人と人との対話による交流は二の次にされてしまいかねない」

 

「文字言語が、つねに変化しようとする音声言語を固化させてしまえば、宇宙の真理をつかさどるメロディーやリズムを覆い隠

 

し、知らず知らずのうちに、人為的で文意”だけを追う世界へ迷いこませることになる」

 

「音声が重視される言語は、口のまわりの表情筋が比較的多く使われる。人間はほかの動物にくらべて顔の毛が極端にすくない

 

ため、感情や気分の動きは、とくに顔に集中することになる。表音文字主体の言語こそは、人間の顔の感情表現を豊かにさせる発

 

声構造をもっている」

 

じつは、音声を重んじる言語と視覚を重んじる言語の差異を検討しだしてからまもなく、検討分科委員会の会委員である脳科学

 

者たちの指摘が影響力を増しはじめ、分科委員会の流れは、巨人族のための文字表記方法として音声を重んじる言葉、すなわち表

 

音文字採択の方向へ傾きはじめていたのであった。

 

 

「なん十万年も前にあらわれた旧人と新人である現生人類は、わずか3万年ほど前まで共存していたが、そのころは新人も旧人

 

も文字をもたず、どちらも社会システムの運営は音声にたよっていた。にもかかわらず、音声言語だけの段階で、すでに旧人と新

 

人とに文化の差が生まれたことは、文明発達の遅い速いは、表音文字か表意文字かの違いにはまったく関係がないのではないか。

 

むしろ、言葉の文法上の違いが原因となったからではないのか」

 

そのように、表音文字と表意文字の違いは文明の発達とは無関係だとの意見もでた。だがすぐに、つぎのような反論が展開され

 

たのであった。

 

「おっしゃるとおり旧人と新人とに差が生じた事実は、両者の言語の、文法構造上の違いの可能性もすこしはあるだろう。つま

 

り、新人の言葉のほうが、言葉を使えば使うほど思考能力がそだってくるような、そういう文法構造になっていたのかもしれない。

 

しかし、文字表記の様式は、文明発展の遅速とおおいに関係がありそうだ。なぜなら、旧人は文字を知るまえに滅んでしまったが、

 

すくなくとも新人、すなわち現生人類世代での文字の誕生後は、現生人類どうしのあいだでも、表音と表意のどちらの表記方法を

 

とったかによって、その後の文明の進展に差が生じたことは歴然たる事実である」

 

「というと?」

 

すぐにさきほどの意見を述べた委員が聞き返した。

 

文字が誕生した早い段階で、音声を重んじる表音文字と、より視覚にたよろうとする表意文字とにわかれはじめた。民族や国

 

家によって進む道がちがったのだ。それぞれ、どちらを選ぶことになったかの事情は謎のままではあるが、現在、文明の先端を走

 

っているのは、表音文字を使っている国々である」

 

 

──文明の先端を走っているのは表音文字を使っている国々である──

 

それは、現実の現代世界を想いおこさせる鋭い指摘であった。なるほど、古代の四大文明のひとつが興った歴史をもつ大国では、

 

やがては火薬や羅針盤や紙など、偉大な発明を行なったのであったが、表意文字の使用から抜けきれなかったその国は、近代にな

 

ってからは、表音文字を使う先進諸国の文化の成果を、ひたすら追いかけてゆく立場にたたされている。その国の文字表記は、一

 

字一音ながら、一字一字にひとつひとつ意味をもたせてあることから、おなじ発音をもつのだが意味の異なる文字が、無制限とも

 

いえる調子でつくりだされてきたのである。そのため文字の数が膨大になってしまい、まことに、暗記力にたよる文字表記様式と

 

なったのであった。暗記文字様式は、よりたくさんの文字をマスターした者の連想力をやしなうことにはなるかもしれないが、文

 

字のもつ第一の役割である脳を記憶負荷から解放すること、この役割に逆行しているのであった。

 

「話し言葉はまったくちがっていても、共通の文字が使用されていれば、たがいの意志疎通は容易である」

 

と、暗に、その四大文明のひとつが興った歴史をもつ大国の、話し言葉はちがっていても表記様式が統一されてきた表意文字様式

 

を、擁護しようとする発言もあった。だが、現代にいたっても表意文字の使用から抜けきれずにいる――過去に表意文字全廃の改

 

革運動が起こされたにもかかわらず!――その国の話し言葉は、実際には同音異義語であっても、声調とよばれる幾通りものちが

 

ったアクセントがあるので区別がつくものの、書かれた文字言葉だけが共通なのでは、たがいに通じあえるかどうかは期待できな

 

いのであった。

 

 

「視覚型文字では、音声の調子がわかりかねる。人の気持ちのコミュニケーションがとれる言葉とは、やはり音声重視の言語だ

 

といえる」

 

「同音異義語があふれだすような表意文字をつかっている国では、語呂合わせの駄洒落に興じたりの、言葉遊びがはびこること

 

になる」

 

「音声にしろ文字にしろ、こちらの意思や意図を相手方に伝えたいなら、双方が伝達媒体たる共通の言語に通じていなければな

 

らない。ところが、簡単な表記様式であれば習熟にさほどの難儀もせず、よりたくさんの人々のあいだでの伝達を容易にする」

 

このとき、表音文字を使用しているある国の委員から、「複雑多岐にわたる表意文字は、識字率を下げてしまう」との発言も飛

 

びだしたりしたのだった。

 

「文字は保存がきく。・・というよりも文字は、人類の宝である知識や知恵を保管してくれる。文字の役割がそうであるならば、

 

いつでも自在にとりだして使える、簡易簡便な表記になっているほうがよいに決まっている」

 

保存・保管されている言葉を利用しようとするときに、どのような表記になっていれば容易にとりだせるか。一字一字に意味を

 

もたせると、憶えこんでおかなければならない文字数が増えつづけ、記憶のためだけに多大な労力とむなしい時間を費やすことに

 

なる。一字一字にはなんらの意味ももたせず、いろいろと組みあわせることによって意味をもつ単語をつくりだす、そのような方

 

法以外にはかんがえられない。

 

いつでも簡単にあつかえるほうがよいとの認識は、まさに卓見であった。文字表記は簡単に限るとの意見には、おおかたの

 

委員が賛意を示したのであった。

 

 

さらに、表記の難易に関連する別の観点から、表意文字の弱点を指摘した委員がいた。

 

「複雑な表意文字は、社会的身分の差別を生みだしやすい」と。

 

その昔、四大文明のうちのもうひとつの別の文明を支えたのは、絵文字=象形文字に熟達した神官や書記たちであった。神官あ

 

るいは書記という、文字を特権的に用いるエリート集団が形成され、そのエリート集団は特権に安住していた。その結果、習熟に

 

はますます労力を要するようなあらたな文字を際限なくつくるようになり、判断力や創造力など、記憶力以外の才能のある者が排

 

斥されかねない体制をつくりだしてしまったのであった。なんとも、不平等格差を発達させる社会ができあがったのである。まこ

 

とに過去の四大文明のうちの2つは、むやみに難しい文字表記であったので、識字と書法に熟達した専門のエリート集団は、世の

 

中ないしは人民を治めようと、文字を権力掌握の手段に利用し祭事的、政治的にふるまうことを肯(がえ)んじたのである。

 

そのような表意文字の不利益を突いた、ダメ押しともいえるこの意見は、満場一致に近い圧倒的多数の賛同を得、表音文字の採

 

択を決定づけたのであった。

 

 

つぎには、その表音文字をどこから書きはじめることにするのか。左上からか、右上からか。そして、どちらの方向に書いてい

 

くのか。横へか、縦にか。委員たちによる議論がつづけられたのであった。

 

まず、“最初のひと文字”の置き場をどこにするかであるが、これは意外にあっさりと決められた。

 

「一定の画面が示されたとき、人間の視覚反応として、左がわ、しかも左上に最初に注目することから、左上から書きはじめる

 

ほうが人間の生命活動の原理に合っている。そこで、表記のためのひとつの面(めん)を想定したとき、左がわ上部から書きはじ

 

める方式をとりたい」

 

この指摘と意見には、分科委員会の全員が賛成したのであった。つづいて、縦書きか横書きかの選択が検討された。

 

「左上から書きだすことに決まったのだから、もう必然的に横書きにならざるをえない」

 

「現在の表音文字の表記はほとんどの国が横書きにしている。たいてい左から右へ書いているが、一部の言語では右から左へ書

 

くケースもある。しかし、書きはじめの位置が左上ときまったのだから、右から左への書き方はありえなくなる」

 

たしかに、表音文字を用いているほとんどの国々で横書きである。にもかかわらず分科委員会は、その実態をすぐには踏襲する

 

ことをせず、真摯に、人間の生理的摂理にしたがう方式を探ろうとしたのだった。

 

「表音文字は一字一音であるから、縦書きでも横書きでもよいのではないか」

 

「かの楔形文字は、当初は縦書きであったが、ある王朝の時代になって、とつぜん横書きに改められている。横書きされるよう

 

になってからの楔形文字は、象形的な部分が減りだし、より表音的な要素がたかくなるように変化した」

 

牛が田畑を耕すように、左から進んで端まで達したら一行下りて向きをかえ、こんどは右から左へ折り返してくる方法もある

 

「そう、牛耕式ならば無駄のすくない、じつに効率のよい方法ではあるまいか。自然発生的で、人間の生理には適っているとお

 

もうのだが」

 

「横書きでも縦書きでも、一字一音でなおかつ簡単な文字とするならば、分かち書きにすべきである」

 

 

いろいろと意見が交わされたけれども、

 

文字を縦に読む習慣になじんでいると、うなずきやすい癖がつく。頭をしょっちゅう上下させているんでは、何ごとも肯定し

 

ているように見えてしまう。縦書きには賛成しかねる

 

との、文字の縦読みになじむとうなずきやすい癖がつく”という見解には、すぐさま理由の説明が求められたのであった。理由

 

を求められた委員はボトルの水を一口飲んでから、ゆっくりと話しはじめた。

 

「ふつう、本を読むとき、目を字面から30センチから40センチほど離している。縦書きの場合は、ページの上から読みはじ

 

め、下まできたら行をかえ、また上から読みおりる。このときだれでもいちいち本や頭を動かさず、ほとんど目だけを上下させて

 

いる。1行の長さを往復するときの目の動きの角度は、測定すればなん度ぐらいになるだろうか。いずれ、たいした角度ではない。

 

ごく小さな角度である。ところが・・」

 

その委員はまた水をのみ、大きくあたりを見回しながら話をつづけた。

 

「ところがである。人が向かいあって話をするときは、たいてい、たがいに相手の顔、とくに目を見ながら話すことになるのだ

 

が、自分の目線を、相手の目なり顔なりの高さにとどめているとき、本を縦に読んでいるとき脳にきざまれた目の上下動の習慣が

 

無意識のうちにでてしまい、まるで相槌をうっているかのように頭を上下させてしまうのだ。おおよそ3、40センチほどはなれ

 

て文字を目でおうときのごく小さな上下角は、会話するときの7、80センチから1メートルほども離れた距離では、頭の上下動

 

はけっこう大きな角度になるのである」

 

そのように説明されたとき、生理学分野から選ばれている委員の1人が口をはさんだ。

 

「では、本を横に読みなれている人たちは、話し相手に目線を固定したままのときは、頭を左右に動かしてしまう癖がでるのか

 

?

 

「議論のはじめで、書き出しの位置は左上からときまったが、左上に目がゆきやすいのは、左上から書きだしたり読みはじめた

 

りする習慣の癖がついたからなのでは?」

 

「いや、それは縦書きの国の人たちの最初の注視も左上であることは、多くの実験でたしかめられている事実だ」

 

脳科学専門の委員のその発言で、書きはじめの位置の議論がぶりかえされることがなくなった。

 

「うなずきの話にもどるが、頭を縦に振るのは肯定の意味であって、横にふるのは否定の表明なのだ。生まれたばかりの赤ん坊

 

でさえ肯定には首を縦にふり、否定には首を横にふっている。本の読みかたの習慣には関係なく、それは人間の本能からきている

 

動作である」

 

別の脳科学分野選出の委員が言った。

 

「人間が対話中に、話の内容に同調させて手や足や頭を無意識に動かしてしまう、エントレイメントという現象ではないか。

 

のいきさつから単に、おたがいが相槌をうっているにすぎない

 

「そう、エントレイメント現象ともうひとつ、話相手の動きがこっちの脳のなかで反復されるようになる、ミラーニューロンの

 

働きとの相乗効果がでているんじゃないかな。ミラーニューロンによって相手の頭の動きがこっちの脳の中で反復され、無意識の

 

うちにこっちもうなずいてしまう。するとこんどは、こっちを見た相手のミラーニューロンもはたらき、当人がまたうなずいてし

 

まうことになる。その繰り返しだとおもうね」

 

さらに別の委員が言った。

 

「2つある人間の目は水平についている。遠近をはかるためと、左右のバランスを維持するために。それと、上下方向のバラン

 

スは、つねに垂直にはたらいている重力にたいして、脳が無意識にとっている」

 

「まっすぐ立っているときのバランスは、内耳にある三半規管というやつでとる」

 

「うなずきあう癖がエントレイメント現象やミラーニューロンのしわざだとして、そもそも、なにが切っ掛けでうなずきあいが

 

はじまるんだい?」

 

「国民性や民族性によると思われているうなずきあいの多い少ないは、やはり子どものころから縦書きの本を読むか読まないか

 

が原因さ」

 

「うなずいてばかりいると、科学手法の基本である“いちど否定してみる精神がそこなわれてしまう」

 

 

そのような経緯(いきさつ)があったのち検討分科委員会は音声言語を選び、横書きとすることになったのである。そして、さき

 

に述べたように最終の決定として、この地球上で英語に相当する言語を採択したのであった。

 

選ばれたその言語は、前置詞が会話や文章の意図を左右する文法構造なので、結論が先送りされることはなかったし、主語が省

 

略されることがないので、集団のなかに個人が埋没することがなく、が大事にされることになるのだった。また、自分の考え

 

をまっすぐに主張することは誠実なことであり、相手に無礼なことではないと、そういった感覚=心がそだつような言語なのであ

 

った。だが、個が大事にされるからといって、自分の考えを主張するからといって、相手の感情に気をくばらないということでは

 

ない。むしろ、聞き手の立場にたった表現が多く、すなわち、聞き手の立場にたって自分を見ることができる文法構造になってい

 

た。

 

その言語は、名詞から、語尾変化をさせることなくそのままの形で、動詞をつくることができた。また、同じ発音、同じ綴りの

 

1語――とくに動詞に多いのだが――を、別の意味に転化させて使えるのであった。つまりは、同じ発音、同じ綴りの語を、複数

 

の語彙として用いることができるのである。同じ1つの語であっても、意味をいろいろと使いわけられることの良さは、会話のな

 

かで、適用される語の意味の瞬時の判断が必要となり、思考が無意識のうちに元となった語に収斂してゆくので、連想的推理力が

 

みがかれていくことにある。しかも、簡単な少数の語でもって豊富な表現ができるので、言葉の表現力がみがかれることになる。

 

そのように1つの語にいろいろな意味がもたせられている多義用法では、視覚型文字表記様式に多い同音異義語とちがって、文

 

字を目で読んでみなければ意味がわかりにくいなどということがない。同音異義語は、各々の意味がそれぞれ脈略もなくまったく

 

かけ離れているので、さしずめ、思考放散型表記様式ともいえるのである。

 

そしてまたその選ばれた言語は、1つの母音が主語の人称や数、時、態などを同時に表現する(注:屈折語)ので、会話中に、

 

やはり瞬間の思考収斂を無意識的に実践していることになるのであった。

 

その言語の語順は現在は主語・動詞・目的語の順であるが、遠い昔は動詞が目的語よりあとに置かれ、いまとは逆の文法構造な

 

のであった。その言語を用いていた国は島国であり、かつては有効面積あたりの人口が稠密で、いうならば、ひとつの地域社会と

 

しては円熟の域に達していたのであった。それが、いまから1千年まえから5百年まえぐらいまでのあいだに、動詞句がまえにく

 

る言語構造に変わってからは、社会の円熟度が高いため内向きがちだった民族性が外界へ向かうようになり、やがて七つの海

 

国力を展開させていったのである。

 

表記面でのその言語は、発音に関係のない文字をつけたしたりとりかえたりすることで意味に変化をつけているような語はすく

 

なかった。表音文字を用いている国の言語のなかには、そのような語をたくさんもっている例もあったが、それでも、巨人族が用

 

いる理想言語をつくりあげるにあたって分科委員会は、発音に関係のない無声音字は発音どおりの綴りになるように改め、意味に

 

変化をつけるためだけにふくまれる字句は省いたりしたのであった。どうしても字句を除けない語の場合は、逆に発音を文字にあ

 

わせることになった。

 

また、民族や社会階層の差別用語はもちろん、男女、老若、健常非健常などの差別用語も、完全に改められた。差別用語はもう

 

50年以上もまえからすこしずつ改められてきていたのだったが、これを機会に残っていたものを洗いだし、徹底させることにし

 

たのであった。なお、外国語などからの借用による類義語の多さについては、類義語は社会生活全般をみても頻繁に登場するし、

 

日常の会話のなかにもけっこうな頻度で使用されているし、外来の類義語や借用語の多さはグローバル経済の発展ならではの結果

 

だとし、分科委員会ではとくに問題視されなかったのであった。

 

そのようにして、必要に応じた1、2の修正がくわえられてできあがった《理想言語》を、従来人の国々で採用するかどうかは、

 

それぞれの国の事情にまかせることに決定された。もちろんその理由は、それぞれの国あるいは民族にとって言語の選択は、歴史

 

的にみて、非常に政治的な状況に左右されてきている現実を考慮したからなのであった。

 

そして最後に、つぎのようなユーモアたっぷりな意見がでたのであった。

 

「われわれ言語選択の検討分科委員会の報告書のどこかに、《この星の大気の成分比率が、窒素80パーセント、酸素20パー

 

セントであるとき適用される》と、そのように書き添えてはいかがか」と。

 

この遠い将来への軽い警告をふくんだ意見は採択され、跋文のなかに盛りこむことになったのであった。

 

 

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