第42章 言葉は生きもの(3)
ナオの国の言葉についていえば、前にも述べた(第5章、第25章、第39章など)ように、時の先端文明をつくりだすにはむ
ずかしい言語構造となっていたのであった。新発見、新発明を行なう思考が育つには適さない言葉なのであった。
(中 略)
もはやナオの国のなん種類もの敬語や人称名詞は、簡単には消
滅できなくなっているのであった。そのために、立場や場面々々で使い分けるいく種類もの人称名詞や敬語を、じつに多くの時間を
費やして学ぶ慣習が生きつづけてきたのであった。
(中 略)
二つのちがった言葉を使用する民族集団が接触しはじめたころに発生する
言葉はピジン語とよばれ、ピジン語は、助詞抜きでも充分に通じあえる言語なのである。
(中 略)
そして、助詞を省いても通じる文法構造をもつナオの国の言葉は、ピジン語のようでもあり、省略の詩歌といわ
れる独特の短詩系文芸である俳句、すなわち俳句道を発達させることにもなったのであった。
(中 略)
結論を後回しにする語順に慣れると、言葉と脳機能とのフィードバック作用によって、知らず知らずのうちに、結果の是非よりも
目標に至るまでの過程の態度、すなわち、経緯の良し悪しを重んじる感覚をはぐくむことになるのであった。過程の態度を重んじる
価値観は、創造の才能の有無よりも、定められた既成の実現可能な、目に見える目標、そこに到達するまでの態度の良し悪しを問題
にすることになるのであった。
(中 略)
現生人類が獲得した言葉を駆使できる能力は、習得や訓練によって、どんな音声言語にもどんな文字表記にもなじむことが
できる共有財産なのである。全星の人類が星の命運をかけて、巨人族のための理想言語を選んだことは、時の先進文明をすすむ人々
が、言語の本質をじゅうぶん理解していたからできたことなのであった。
(中 略)
要するに、言葉は生きているがゆえに、歴史上いくつかの国でおこなわれた強引な言語改革も可能なことなのであった。とくにそ
れは、人類の歴史に新しい文字表記についていえることであった。ナオの国が命運をかけて理想言語の採択に踏みきって3年、いま
や言葉の本質がおおかたの人々に理解されてきたのは、時の流れなのでもあった。今回の国語改革の英断によって、第二次全星戦争
直後の国語改革のとき、漢字に深い恨みをいだいてその撲滅のために奮闘した、雪の降る北の地方出身の、あの先見の明があったと
しなければならない松坂忠則氏(元カナモジカイ理事長)の怨念は、ついに晴らされたことになったのであった。
それにしても言葉の出現は、宇宙の摂理にしたがって生命体の遺伝子にすこしばかりの異変が起こったため、現生人類が積極的に
獲得したのか、神のおぼし召しによって《 そこまで来ていた以上はそう進まざるを得なかったから 》なのか、興味をかきたてられ
る関心事である。