ヘビー級世界チャンピオン

東  冬 彦

 

かつてイギリスはボクシングの盛んな国で、近代ボクシング発祥の地でもあるのだが、1880年代にはもうアメリカにその隆盛

が移っていた。第2次大戦後は中南米や日本、タイ、フィリピン、韓国など、アジアにも世界チャンピオンが輩出する傾向をみせて、

完全にイギリスの伝統を離れてしまった。プロのチャンピオンは、4、5回タイトルを防衛すると億の金が流れ込み、国民的英雄と

もてはやされて、首都郊外に豪邸を構え高級車を乗り回すのがお決まりの栄華人生コースとなった。

 

ウィリアム・ウィリー卿はイギリスの栄光を取り戻すべく、スポーツとしてのボクシングの精神を復活させようと試みた。体一つ

を資本にタイトルを維持し続けることで保証される相当額の収入をめざす現代プロボクシング界に、18世紀当時の、つまり、アマ

チュア精神、趣味的傾向を重視しての技の鍛錬に重きを置くなど、“遊び心”を吹き込んでみようということなのだ。

シェイクスピアの生まれ故郷ストラトフォードからそう遠くないバーミンガム近郊の広大な敷地の一隅に、科学技術の粋を集めた

ウィリー卿のジムはあった。ボクシングが盛んなあらゆる国のジムが、素質のある若者を探し出して猛鍛錬をほどこし、億単位の収

入を期待して運営されるのが常識なのに、ウィリー卿のジムは気封エアコン設備と重水循環システム装置だけで、すでに3千万ポン

ド(英ポンド=48億円)を投入していた。ボクサーを鍛錬するいわゆるジム部分そのものの広さは、世界中どこにでも見られるこ

じんまりとした造り、いや、もしかすれば最も狭いほうのジムの一つに数えられるかもしれない。だが、その附帯設備には莫大な建

設費と維持費が、まさに“どぶに捨てられるごとく”と形容されても仕方がないような使われ方で、惜しげもなく投入されていた。

スパーリングなど拳闘技能をみがく20フィート平方のリングと、筋力を鍛え体づくりをするサンドバッグやパンチングバッグが

置かれているリング脇のフロアを含むエリアは、併せて140平方ヤードに過ぎなかった。このジム・エリアは外気から完全に遮断

され、気封エアコン設備でコントロールされていた。ボクサーが寝起きし、食事し、寛ぐ居住部はジム・エリアと屋根を同じくする

棟内にあり、やはり外気と遮断されていた。ジム・エリアと居住部は1枚のドアの開閉だけで出入りが可能だった。

それに比べて他の附帯施設のエリアは広大だった。野菜畑があり、2つの池があり、10羽の鶏を飼っている小屋まであった。全

部合わせると6千平方ヤード(約5千平方b)の広さだった。これらはすべてすっぽりと気密な二重屋根で覆われ、やはり、気封エ

アコン設備と重水循環システムが通じていた。屋根は透明な特殊プラスチック製だったので、太陽光線の恵みはふんだんに取り入れ

ることができた。

この附帯設備では、順番に植物と動物が育てられた。初め全部畑であり、パンにする小麦や、次の年に野菜畑の肥料とする豆類、

家畜の飼料にする穀物、いも類が作られた。そして次の年、畑をやめて大半に牧草が植えられ、乳牛1頭が飼われた。また、簡単な

柵とケージが設けられ、豚5頭、ブロイラー50羽が飼育された。更にその次の年、野菜畑と池と鶏小屋がつくられた。野菜畑から

採れるレタス、せロリ、トマト、人参などと、10羽のレグホンが代わるがわる産み落とす卵は、ボクサーの毎日の食事に供するも

のである。前の年に飼われた1頭の乳牛からは、予め150ガロンの乳が搾られ、厳重に密封された容器に詰めて冷蔵されていた。

可哀そうなことにこの牛は、乳を搾りとられたあと屠殺され、ボクサー専用のステーキやシチューになるため、幾つかの肉塊に斬ら

れて冷凍保存された。半端な肉の一部からは燻製もつくられた。5頭の豚も同様に肉になり、また、ハムに加工された。

ケージで飼われた50羽のブロイラーも、今では首と両足先のない、どちらかと言えば愛嬌をおぼえさせる例の両太ももを開いて

高く挙げた格好で、やがてボクサーの血となり肉となる時を待って冷凍庫内の豚肉塊のとなりに並んでいた。切り取られた50個の

首は、乳牛や豚の臓物といっしょに乾燥粉砕されたのち野菜畑に埋められ、肥料とされた。100個の足先と羽毛は乳牛の革ととも

に焼かれ、水や炭酸ガスとして回収された。焼くときの煙で牛肉の燻製がつくられた。10羽のレグホンが居る鶏小屋の隣りの、重

水でたっぷり満たされた2つの池の片方には、中国から取り寄せた鯉が放し飼いにされ、もう1つの池では、これも淡水魚であるテ

ラピアが養殖されていた。脂の乗った鯉と、鯛に似て淡白な肉質のテラピアは、ボクサーの嗜好を満足させ栄養のバランスを補うこ

とになる。

これらジムに附帯する施設の建設に2千万ポンド(32億円)を使い、その維持には年間約350万ポンド(5億6千万円)の費

用を要した。しかし、ウィリアム・ウィリー卿は大金持ちだった。癌の治療薬のうち、最後まで発見が遅れていた悪性脳腫瘍を完治

させる薬を見つけ出し、工業化と独占販売で巨億の財を成していたのである。

 

今年は卯年  ―写真と本文内容とは関係ありません。―

 

ルーブル美術館 レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」

 

人体を構成する元素は種々とあるが、炭素、水素、酸素、窒素のわずか4つの元素だけで、全体の96パーセントが占められる。

自然界のほとんどの元素には、科学的性質は同じなのだが、原子の重さが少しずつ違う同位元素というものがある。天然の元素は、

同位元素の混合体である。すなわち、炭素には重さが12と13の原子がある。水素は1と2、酸素は16と17と18、窒素は1

4と15である。このうち、それぞれ一番重い原子だけを集めて人体に取り込むことができれば、普通の人間を同じ体格のままで何

パーセントか重量を増すことができるはずである。特に水素は、軽いものより重いものが2倍の重量になる。体の筋肉や、さまざま

な種類の体液や酵素、ホルモン、これらはほとんど蛋白質なのだが、蛋白質には相当の数の水素原子が含まれている。軽い水素を重

い水素に替えただけでも、ある程度の体重の増加が期待できそうである。ウィリー卿が目をつけたのがこの点だった。

重水は重さが2倍の水素原子、すなわち、重水素が酸素と化合した水である。通常の水と重水の重量比は1対1.1である。つまり、

重水は普通の水より10パーセント重いわけである。また、重さが18の酸素だけを集めて重水をつくれば、その重水は普通の重水

よりも重くなる。だから、そんな重水を利用して人間の肉体の水素と酸素を、すべて重い原子だけで置き換えることができれば、ウ

ィリー卿の試算したところによると、20パーセント以上も重い肉体をつくることが可能だった。更に、体内にはかなりの量の水分

が含まれるが、その水分をも重水で置換すると、そのうえ5パーセントほど体重を増すことができる。

しかし、重水は少量なら何ら支障はないのだが、多量の重水は動植物を問わず、生命体には致命的な生理作用をもたらすことが知

られている。ウィリー卿は5年間もの研究の末、とうとう、動物でも植物でも、生体内の通常の水を重水で置き換えても、また、動

植物の蛋白質や脂肪や炭水化物─これらは人間にとって3大栄養素であるが─その中の水素や酸素を重い原子の水素や酸素で全部置

き換えても、生命には何ら障害のない特殊試薬の合成に成功したのだった。試薬の合成には、遺伝子組替え技術が大いに役立ったこ

とは言うまでもない。

 

ウィリー卿は、ただちに重水循環システム装置と気封エアコン設備を製作した。重水の入手は、原子力発電所に重水を納入してい

るエドモンド社に特注し、継続的な買い入れ契約を結んだ。施設の運転は順調に進み、重水を買い入れては薄まった水をエドモンド

社に送り返した。同じように、軽い酸素で薄まった空気は圧縮ボンベに詰めてエドモンド社に送り、重い酸素と水分中の重水を回収

した。

最初の年に作った重い水素を含む豆類は、腐らせて次の年に、生体保護のための特殊試薬を混ぜて畑の肥料として使った。豆類の

一部は、やはり特殊試薬を混ぜて家畜の飼料とした。すなわち、重い水素原子と思い酸素原子で置換された飼料で乳牛と豚とブロイ

ラーを養い、ボクサーの蛋白質源として保存したのだった。これら家畜の糞尿といえども、重い水素と重い酸素が濃縮されて含まれ

るので、施設外に出されて無駄とならないよう大事に扱い、肥料として畑に還元したし、乾燥して粉にし、養殖魚の餌に混ぜて使用

するため保存した。重い原子の混じった小麦の藁も、特殊試薬が混ぜられ乳牛の飼料となった。そのようにして3年目、最後に残っ

た施設は、卵を採るための10羽のレグホンを飼う鶏小屋と、折々に新鮮な魚料理を提供する2つの池と、生野菜を栽培する畑だっ

た。

 

そうしておいてウィリアム・ウィリー卿は、アメリカから孤独と厳しい鍛錬に耐え得る強靭な意志と肉体の持ち主である黒人ボク

サー、サミュエル・カールビンソンを呼び寄せた。サム(サミュエル)のトレーナーである日本から招いたミスター・オノザキは、

装置施設の外側からマイクロフォンとテレビカメラを通じて、いろいろな指示を与えた。スパーリングのときは相手をするボクサー

には、ウィリー卿が前以ってしつらえていた、ウェットスーツのように体にフィットする気密服を着せた。特製の気密服は、スパー

リングパートナーが発散する汗や吐き出す息、つまり軽い原子から成る水分と炭酸ガスがジムの中に混じり込んで、重水や、重い酸

素で満ちた空気を薄めないよう役立った。しかし、重量のある酸素ボンベを背負い、施設の外部に軽い原子を排出する管を引きずる

気密服のボクサーは、1ラウンドずつで交代しなければもたなかった。スパーリング以外のときは、サムはただ独り施設内に残され、

鍛錬し、睡眠をとり、食事し、寛いだ。

ミスター・オノザキはサムの退屈をまぎらすために、時々、元世界ヘビー級のスーパースター、モハメド・アリや、マイク・タイ

ソンの試合ぶりを収めたビデオテープをモニター画面に流し、マイクロフォンを通じていろいろとアドバイスした。

 

               ―写真と本文内容とは関係ありません。―  来年は辰年

ルーブル美術館 中庭のガラスピラミッド

 

こうして1年ほど施設内で鍛錬を重ねるうちに、サムの体はすっかり重い原子で置き換わり、同じ体格の通常の人間と比べ30パ

ーセント近くも重くなった。ウィリー卿の計算に狂いはなかったのだ。

「30パーセントも余分なサムの体重では、蝶のように舞うことはできないだろうが、相手のフックは蚊が刺した程度にしか堪(

)えないだろう。また、蜂が刺すようなパンチを繰り出すことはできないだろうが、サムのボディ・ブローを喰らった相手は、犀の

突進をまともに受けたごとく吹っ飛ぶことになるだろう。今のサムなら、全盛期のモハメド・アリをさえ、第一ラウンドの途中でリ

ンクに沈めることが可能なはずだ」

ウィリー卿は、サムの逞しく、いかにも重量感あふれる黒い筋肉に目を細めた。

2020年5月、サムの初めての世界ヘビー級タイトルへの挑戦はアメリカで闘われた。サムは、特別にあつらえた小型の気封エ

アコン設備と重水循環システム装置が取り付けられた部屋(というよりも大きな箱)に納まって、試合の直前、ラスベガスに空輸さ

れた。

ついに第1ラウンド開始のゴングが鳴った。見た目には同じ程度の体格なのに、相手の体重が自分より70ポンドも重い280ポ

ンドと聞かされていたチャンピオンは、薄気味悪さが先にたち、なかなか接近してこなかった。警戒のあまりフットワークで逃げよ

うとするチャンピオンを、サムはじりじりとロープ間際に追い詰めた。そして一歩踏み込んだサムの右アッパーが、たじろぐチャン

ピオンの顎を見事にとらえた。大きくのけぞったところへ、さらにもう一歩踏み込んだサムは、今度は左ストレートをチャンピオン

の顔面中央部に炸裂させた。レフリーが10までカウントし終わらないうちにサムのコーナーでセコンドを務めたミスター・オノザ

キがリングにかけ上がり、サムのグローブを縛った紐に鋏を入れていた。

試合が終るや、サムは直ちに“箱”に入れられ、バーミンガム近郊のウィリー卿のジムに帰ってきた。

 

以来、サムはロンドンで6度タイトルを防衛したが、いずれも第1ラウンドでけりをつけた。巷の賭けは、試合が第1ラウンドで

終るかどうかだけに絞られ、テレビ放映スポンサーのコマーシャルは試合前のみに集中した。サムは最初のタイトル・チャレンジ戦

を含め7たび闘っただけで引退した。ウィリー卿の、アマチュア精神を取り戻したいとの願望が十分に満たされたためである。異常

とも言えるアリ以来の人気に支えられて、サムは7試合で115億円(その頃のユーロ換算で)を稼ぎ、通常の生活に戻った。やが

てサムは故郷のアメリカで結婚し、衣料品関係の事業を営み少しずつ財産を殖やした。

ウィリー卿は、重水と生命体とのバランス維持のために開発したあの特殊試薬に、もう一つの効能があることを見出した。

サムが施設内に居たころ、野菜畑に出て日光浴はしていたものの、通常の生活に比べて太陽に触れる機会が極端に少なかった。し

かし、サムの体の色素が心持ち薄まったのはそのせいばかりとは思えなかった。ウィリー卿は、遺伝子組替え技術の応用による特殊

試薬の、副次的効用の影響を読み取ったのである。あの特殊試薬を5〜6ヶ月服用し続けることで、そばかすや老人性のシミや、黒

子さえもが跡形もなく消え去ることを発見したのだ。

世界中の、そばかすや老人性のシミを気にしている人々や、日本、中国、東南アジアに住む、顔や体のとんでもないところに黒子

があるため悩んでいた若い女性たちなどが先を争って買い求めたので、ウィリー卿はわずか2年という短期間でサムのために拵えた

ジムの経費の半分近くを回収してしまった。試薬の販売量はまだまだ伸び続けていたから、ウィリー卿はいずれ全額を取り戻すこと

になるだろう。

 

 

     Home Page