『サド復活』(帯付き)

 

  

澁澤龍彦著。弘文堂発行(現代芸術論叢書)。昭和34年9月15日初版発行。カバー・帯完本。定価400円。装釘&挿絵=加納光於。

 正直言ってわたしは澁澤龍彦が苦手である。
 もちろんこれは彼の論説に異議があるという意味ではない。
 彼の言わんとすることが全く掴めないのだ。

 例えば『黒魔術の手帖』『毒薬の手帖』『秘密結社の手帖』から構成される「手帖三部作」をわたしは大学時代に読んだが、はっきり言って、そのときの読書は苦痛でしかなかった。
 澁澤龍彦はこれらの本のなかで「博覧強記」な素振りで、「昔、こういう変わった人物がいました。」「昔、こういう変わった出来事がありました。」「昔、こういう変わった物がありました。」と次々と「引用」を重ねる。
 わたしはここで躓いた。
 わたし「まるで世界史の教科書を読まされているみたいじゃん!!受験でもあるまいしお勉強なんてマッピラなんだよ!!」
 「引用」の限りない連続、それが澁澤の「博覧強記」として世人の褒め称える部分であるらしいのだが、わたしは正直ウンザリした。 わたし「澁澤さんよォ~、、、他人の引用もイイんだがアンタ自身のオリジナルな考えが全く見えてこないんだが。」

 要するにわたしはこれらの書物から澁澤自身の「魂の叫び」が全く聞こえなかったのである。
 「切迫した魂の叫び」そういうものが聞こえてくるような血で書かれた書物のみをわたしは愛する。
 学生時代のわたしには澁澤が安楽椅子に腰かけてじぶんの「高雅な趣味」についての薀蓄を延々と垂れ流す鼻持ちならない野郎に思われたのである。

 わたしの「澁澤嫌い」はこうして学生時代に始まって、それからなんと30年間も続いた。 


 さて、ごく最近のことである。
 神保町のA古書店の店主が澁澤の『サド復活』を売ってくれるという。
 価格は3万円である。
 このA古書店の「売り」はこの『サド復活』に「帯」がついている、ということらしい。

 澁澤龍彦の『サド復活』の昭和34年元版はカバーのみであれば相場2000~3000円の本である。
 しかし帯がついた途端に相場が5~6万まで撥ね上がる。
 つまり『サド復活』という本は「帯付き希少本」という部類に入る。
 話を澁澤のみに限定すれば『悪徳の栄え』(現代思潮社)、『ホモ・エロティクス』(現代思潮社)、『フローラ逍遥』(平凡社)などの本が澁澤の「帯付き希少本」に分類される本である。
 これらの本は函、あるいはカバーのみだと数千円、しかし帯がつくと数万円に古書価が撥ね上がる。
 古書の世界を知らない人がこんな話を聞いたら驚くかもしれないが、古書の世界とは「初版か重版か」とか「帯なしか帯つきか」など非常に瑣末な部分が重視される世界なのである。

 澁澤の『サド復活』も帯がついたら5~6万円はするだろう。
 わたし「3万円は安いッ!!はっきり言って「買い」だ!!」
 わたしは即座に澁澤の『サド復活』の帯つきを3万円で購入した。

  

 さて、とわたしは思った。
 せっかく『サド復活』の帯付きを買ったんだから、ひさしぶりに澁澤を読んでみるか。
 学生時代に読んだ頃とはまた違った感触があるだろう。
 そのように思って、わたしは非常に軽い気持ちで『サド復活』を読み出した。
 するとどんどんわたしの眼が血走っていった。

 わたし「この本は『本物』だ。・・・」

 3~4日ぐらいだったと思う。
 あっという間に『サド復活』を読了したわたしは深い溜息をついた。
 わたし「凄い、やはり澁澤は凄い。この男に人気があるのは必然だ。」

 さてわたしはいったい何にそんなに驚愕したのであろうか?

 さて本書『サド復活』は「暗黒のユーモア」「暴力と表現」「権力意志と悪」「薔薇の帝国」「母性憎悪」「サド復活(サドの評伝)」から構成される。
 「暗黒のユーモア」から「母性憎悪」まではあまりサドの思想とは関係がないように思われる。
 もちろんサドも扱われるのであるが、時にはジョルジュ・バタイユ、時にはアンドレ・プルトン、また時にはニーチェやヘーゲルまで援用しながら、澁澤流の「悪の哲学」が展開されてゆく。

 常識を破壊する「黒いユーモア」、日常生活の倫理を逆倒させる「エロティシズム」、悪の進化の過程「否定弁証法」、さらにはカニバリズムや涜神、最後は父親との同性愛に至るまで「ありとあらゆる」社会通念上の「タブー」が澁澤の鮮やかなペンタッチで破られてゆく。
 換言すれば澁澤の暴力的な筆圧で、神聖が否定され不浄が肯定されてゆく。

 こういう言い方は誤解を招くかもしれないが、この澁澤の論理展開は溜息がでるほど「美しい」。
 散文詩のようなポエジーさえ感じられると言っても過言ではない。
 そして、ここが重要な部分なのであるが、まさに澁澤の魂の絶叫「俺はこんなに過激なんだぜーーー!!」という叫び確実に聞こえてくるようだ。

 まさに本書は澁澤龍彦30歳の「世界への宣戦布告」の書であり、さらには30歳でしか書き得なかった「青春の書」でもあるのだろう。そういう意味で本書は三島由紀夫の『仮面の告白』や太宰治の『人間失格』に連なる青春文学の傑作として捉えるべき書物である。

  最後にしっかりを釘を刺しておかねばならないが、本書で肯定される「悪」は「犯罪」ではなく「文学理論上の悪」である。
 そこを混同してしまうような馬鹿と餓鬼は本書を読んではいけない。

 本書を読めば確実に貴方の中の「何か」が変わる。
 そんな起爆剤を持った真の意味での「文学的冒険」を貴方も味わってみてはいかがかな??

 

 さて本書は「ハルキ文庫」から文庫化されている。
 興味を持った方はまずその文庫から本書に入門してみるのも良いだろう。
 この元版『サド復活』の他にも昭和40年代の新装版『サド復活』、平成元年&バブル絶頂期の澁澤ブームに於いて復刻された日本文芸社の『サド復活』など本書には様々なヴァージョンが存在する。
 もちろん本書に心の底から惚れ込んだ読者は、この昭和34年版の帯付き『サド復活』に行き着く運命であることは言うまでもない。


 最後にあまり言及されることがない事実を付け加えておくと、本書の装釘を担当した加納光於は本書において確実に「良い仕事」をしている。
 本書のカバーに描かれた向日葵の絵はまさに「悪の紋章」のごとく燦然と輝いている。
 この加納光於の装釘の仕事がなかったら、本書は埋もれていたかもしれない。

 そういう意味で「内容と装釘の幸福な一致」を見事に果たしているこの昭和34年弘文社版『サド復活』こそまさに最初にして最後の本書の「決定版」である。

 

 

(了&合掌&南無阿弥陀仏)

 

 

(2017年8月13日&黒猫館&黒猫館館長)