クリスマスイヴの夜に考えたこと

(2013年12月13日)

 

 

 

 

 

 さて今夜はクリスマスイヴである。
 わたしはいつものとおり夕方から秋田市新国道のモスバーガーに出かけて、志賀直哉の『暗夜行路』(新潮文庫)を読みながら紅茶(210円)を飲んできた。

 うすうす予想はしていたがモスバーガーの店内はカップルで一杯である。
 それを見てわたしは毎年のことながら、ちょっと複雑な気分になった。

 「なぜわたしには彼女ができないのであろうか・・・?」

 別に自慢するわけではないが、わたしは友達が少ない。ましてや彼女など一度もできたことはない。要するにわたしは彼女いない暦=年齢、なのであ る。その理由は色々考えられるのであるが、ズバリと答を出せば「そういう運命のもとに生まれている。」この答に尽きるのではないだろうか。
 だからいつもクリスマスイヴはひとりぼっちなのだ。

 昔はこういうじぶんの運命を呪ったりしたこともあったが、最近は慣れてしまった。

 「な〜に、彼女など居なくても死ぬわけじゃないよ。」こういう開き直りの境地についに達してしまったのである。だから別に彼女などいなくても痛くも痒くもない。

 2ちゃんねるなどでは「リア充(もてる男(女))爆発しろ!!」などと声高に叫ぶ者もいるようであるが、わたしはもちろんそういう考えを否定しない。
 人間の自然な感情として、隣の男に彼女が居て、じぶんに居なかったら悔しいのは当たり前である。だからむしろわたしのように「悟り」の境地に達してしまった人間のほうが「極めて珍」であるのかもしれぬ。

 しかし世の中には色々な人間がいる。
 クリスマスイヴだからと言って、ホテルで彼女とセッ◎スし放題の者もいれば、イヴだろうが正月だろうが関係なく徹夜でサービス残業させられる者もいるだろう。
 そういう社会情勢から見ればわたしなどはむしろ「中の上」ぐらいの位置で恵まれているほうだと思う。

 もし誰かがわたしをうらやんだとしてもその誰かはわたしにはなれない。
 もしわたしが誰かをうらやんだとしてもわたしはその誰かになれない。

 要するに「他人とじぶんを比較することはナンセンス」こういうことに尽きる気がする。

 大槻ケンヂがいつも絶叫調で叫んでいるとおり「人生は平等ではない。」だからといって誰かをうらやんだりせずに、悄然と「じぶんに与えられた運命を受け入れる」これが人間の本当の幸福に繋がるのではなかろうか。
 誰かをうらやめばじぶんの人生がなんともみすぼらしく哀しく思えてくる。だからそういう考えはもう止めてしまうのだ。

 「みんな平等な社会」から「みんなの違いを平等に受け入れる社会へ」、そういうパラダイム・シフトが現代の格差社会には必要だと思う。経済的な面においても恋愛&結婚の面においても。

 新自由主義経済の導入が声高に叫ばれる現代の日本社会は今後ますますアメリカ型の超格差社会へ接近してゆくだろう。
 そういう時代をできるだけ楽にやり過ごすには、上記のような頭の切り替えが必要なのではないだろうか・・・?そんなことを思ったクリスマスイヴの夜であった。


 (了)

 

(黒猫館&黒猫館館長)