「処刑」とわたし

(2012年6月12日)

 

 

凌遅の刑の画像)

 

 

 1 「処刑」という言葉

 幼少時から「処刑」に興味があった。
 断じて「死刑」ではない。「処刑」という言葉に小学生時代のわたしは魅惑されたのだ。
 「し・ょ・け・い」、この世界でもっとも短い詩ともいうべき四文字の言葉、すなわち「処刑」。わたしはいつもぶつぶつと「あいつを処刑してやる。」とか「こんなことをしたら処刑されてしまう」とか口に出していた。

 『処刑の部屋』であるとか『処刑遊戯』であるとか「処刑」という言葉が題名についている本を見るだけで、わたしはくらくらと眩暈(げんうん)にも似た感覚を覚えた。
 思えばわたしが「官能」という感覚を初めて感じたのは「処刑」という言葉からだったのかもしれない。
 残忍さと性的感情は結びついている、そんな思想を展開したのはジョルジュ・バタイユであっただろうか。
 わたしにとっての「処刑」とは「処刑という言葉そのもの」から始まったのだ。


2 狂児の夢

 わたしは小学生時代、クラスでは全く目立たないおとなしい子供であった。しかしおとなしい子供が優しい子供だと思ったら、そんなことは全然違う!
 学校から帰ったわたしはまさに豹変、狂児、残忍極まる狂った餓鬼になりはてるのであった。

 まずわたしは学校から帰ると庭で出てカエルを捕まえる。

 カエルを首だけ出して土の中に埋めてしまうと、わたしは学校のノートを開く。そのノートの中には授業をサボって書いたカエルの処刑方法が事細かに書かれているのであった。

 「汝、カエル、罪深き者よ、そなたを松の針千本の刑に処す。」とわたしは子供の裁判官さながらに重々しい声を出す。今まさに哀れなカエルに「処刑」の命が下されたのだ。

 そして松の葉を集めると、残忍極まる「処刑」が始まる。
 まずカエルの目玉ふたつを松の葉二本で貫く。次に松の葉でカエルを地面に磔にすると、カエルの腹をめがけて無数の針をつきたてていくのだ。
 カエルの腹が剣山のようになった時、「処刑」は終わった。
 この時、カエルはまだ生きている時があった。突然怖くなったわたしはカエルを草叢に投げ捨てて、家の中に逃亡するのであった。

 そしてその夜はあのカエルがわたしに復讐にくるのではないかという、異様な恐怖に苛まれるのが常であった。

 しかしそれでもわたしの「処刑ごっこ」は納まらない。
 次の日にはまた新たなカエルが犠牲になるのであった。

 なんという、、、なんという嫌な子供であったのであろうか!このわたしは!!


3 『拷問刑罰史』

 やがてわたしは中学校に進学した。
 その時期にはカエルを使った「処刑ごっこ」はもう卒業していたが、また新たな「処刑」への誘惑にわたしは心を惹かれた。

 父の書斎には、その世界では名著とされる名和弓雄『拷問刑罰史』(雄山閣発行)が並んでいた。なるほど血は遺伝するということか。
 父もまた夜毎にこういう本を捲(めく)って残忍な官能の血を滾(たぎ)らせていたに違いない。
 中学生時代のわたしもまた『拷問刑罰史』を捲ってめくるめく官能の世界に飛び込んだ。

 斬首、磔、鋸引き・・・なるほど一般的には「残酷」と思われる処刑方法が並んでいる。しかしわたしにはまるで物足りなかった。「鋸引き」といえば罪人を地下に埋めて首をノコギリで引く処刑方法である。

 わたしは絶叫したものだ。「生ぬるい!もっと!・・・もっと残忍な処刑を見せてくれ!」しかし『拷問刑罰史』には鋸引き以上に残忍な刑罰は載っていなかった。


4 凌遅の刑

 そんな中学生時代もあったという間に過ぎ去っていった。
 わたしの中から、チロチロと地下で燃えさかるような「処刑」への渇望が消え去ったかに思われたころ、突然「それ」は来た。

 それは高校の図書館であった。
 その時期から大学の哲学科を志願していたわたしは並居る哲学書の中に一風変わった本を発見した。
 その本はジョルジュ・バタイユの『エロスの涙』(現代思潮社)。
 ほぼ真四角の枡形本で堅牢なダンボールの函に入っている。とにかく他の哲学書とは全く違ったオーラがその本から感じられたのだ。

 わたしは『エロスの涙』をパラパラ捲って、あるページでギョ!と目を見開いた。
 なんとそのページにはある写真が二枚掲載されていた。
 その写真の中に写っている男は両足を切断されている。
 そればかりか胸の肉を左右二箇所で、丸くくりぬかれているではないか!

 この凄まじい処刑を受けている男は苦痛とも快楽ともつかぬ奇妙な表情を浮かべている。これこそが幼年期のわたしが漠然と感じていた「苦痛と快楽の完全な一致」の表情であったのである。

 この処刑が「凌遅の刑」という中国独特の処刑方法であることを知ったのはずっと後年のことである。

 「凌遅の刑」とは文字通り「緩慢な死に至る刑」という意味である。
 「凌遅の刑」で用いられる道具は刀、小刀、ノミ、千枚通し等。これらの道具を使って受刑者の体を少しずつ「削いで」ゆくのだ。切ってゆくのではない。
 受刑者に揮われる刃物の回数は少なければ500回、多い時は3000回に及んだという。
 処刑は三日以上にわたることも多々あり、処刑者と受刑者はお互い食べ物を飲み食いしながら、この残忍な儀式に及んだという。
 そして少しづつスライスされて、最後には心臓と首だけが残され、削ぎ落とされた肉は近所の住民の食事になったという。
 
 ジョルジュ・バタイユは精神分析学者のボレルからこの「凌遅の刑」の四枚の写真を譲り受けてから、彼の真に親しい友人だけにこっそりとこの四枚の写真を見せていたという。
 バタイユもまたわたしと同様に残忍な「処刑」に心奪われてしまった男であったのであろうか。

 わたしはこの「凌遅の刑」を知って陶然とした。そしてこれこそがわたしの求めていた究極の「処刑」だ!!と狂喜したものだ。

 今でも『エロスの涙』はわたしの書棚に納まっている。
 深夜などは、まるで「凌遅の刑」の受刑者のうめき声が本の中から聞こえてくるように。



 5 現在のわたしの考え


 さて、現在、若い時分のような熱烈な「処刑」への悶え、そういうものから脱却したかのように思える昨今でさえも、やはり「処刑」への関心の残滓はわたしの脳髄に巣くっている。
 誰もが寝静まった深夜、ネットで処刑画像を蒐めることもある。
 そして非常に少数ではあるがネット上で知り合った「処刑マニア」との交流も続いている。

 「処刑マニア」たちと話していると、その誰もが現実の死刑には慎重であるべきだ、という考えの人間が多い。
 数限りない、阿鼻叫喚の地獄絵図を見てきた者たちであるから、逆に人間に対する慈しみの情が湧くのかも知れない。「処刑マニア」の中には死刑廃止論者も少なくない。

 残虐刑がイラン・イラクなど限定された地域でのみ残される現在、世界的な趨勢は死刑の廃止に向かって動いている。
 昨今ではアムネスティ(国際的な人権擁護団体)から日本の絞首刑が「残酷だ」という指摘を受けて、日本における死刑廃止が勧告されたという。

 わたしは早急に死刑の廃止を訴えるほど急進的ではない。ヨーロッパにはヨーロッパの、アジアにはアジアの事情がある。
 しかし少年時代に見た甘美な「凌遅の刑」への憧れ、それはどうみても現実の殺風景な絞首刑とは結びつかない。
 宮崎勤の死刑も麻原彰晃の死刑もわたしの関心を惹くことはない。
 それらは官能的な「処刑」ではなく、単に無機質な「死刑」であるからだ。

 どうやらわたしの憧れる「処刑」は夢の世界の産物であるらしい。それも思いっきり官能的でエロティックな。

 今後もわたしは自らの情熱の赴くまま「処刑」への探求を続けていこうと思っている。



(了)

 (黒猫館&黒猫館館長)