象形文字精霊奇譚・日夏耿之介・・・書斎に於ける詩人

  

楽古堂主人・大内史夫

 

影姫青夜に



物其の平らを得ざれば即ち鳴る 韓退之

(1)

 今夜は、日夏耿之介の「書斎に於ける詩人」を読みます。書物への官能的ともいえる愛情を、赤裸々に語った詩です。

 彼ほどに、自己をありのままに表現している詩人は、日本でもまれだと思います。
 次の文を読んで下さい。第二詩集『黒衣聖母』の序文からです。
「今、私は、最大級の可能に於て、私のあらゆる姿態なる本体をーー憂欝な哀愁ある、神経性快活ある、瑰奇なる、美しき、醜き種々相をそれぞれの据えられた場面に置いたままに各々の詩的表現によって、あらゆる人間の批判、味解、鑑賞の弾正台にさし上す」
 この腹の座った死刑囚のような覚悟が、日夏という男の本質なのです。その苛烈さのために、ノイローゼに追い込まれることさえありました。しかし、この生き方を、原則的には生涯、変えることはありませんでした。
 「神経性快活」という言葉で、自分に神経性の病気があることを隠しておりません。バリアフリーがマスコミの流行語になる、現代ではありません。時は、1921年です。日本の元号で言えば、大正十年です。作者は三十一歳でした。
 もう一つ、同様な告白の例をあげます。
 第一詩集である『転身の頌』(光風館・1917年)の序でも、次のようにこの事情と関連することを告白していました。
「病が進み、血潮が衰えた時、わが父は狂者として、爾後三年間、わが母と、兄弟との専念の看護により、生ける屍を照る日の下に横たえた。」
 耿之介の父、藤次郎氏は、一九一四年の九月に、五十八歳で他界されています。詩人の二十四歳の時です。闘病生活は、耿之介の二十代の前半と重なっていました。その病と死は、詩人の繊細な心に、深甚たる影響を与えました。自身も、狂死するのではないかという恐怖です。狂人となる資質は、遺伝すると考えられていた時代です。
 この時の、深い心の傷を癒した時期の詩を集めた部分が、処女詩集『転身の頌』の、中心をなしていると言っていいと思います。
 彼はここで、母と兄弟が、三年間の長きに渡って、父を看病してくれたことへの感謝の念をはっきりと述べています。
 日夏は、倫理的な人です。それが、苛烈をきわめていたがゆえに、狂えるまでに懊悩しなければなりませんでした。「生ける屍を照る日の下に横たえた。」と父を描写する一文にも、彼の真情は明瞭に表現されています。
 日夏の詩では、それが「姿態の本体」の姿であれば、美醜はといません。世の常の善悪や、正常や異常という判断基準にも従いません。青年時代でも、若き詩人が自分を映した自意識の泉は、深くも暗くもあります。ただ濁っていません。驚くほどに透明です。中年期以降は、この世に入れられなかった逸材は欝屈が激しかったようです。屈折していきます。しかし、第一、二詩集の頃までの彼は、より率直な性格でした。
 この人は詩人であるとともに、批評家でもありました。目にした限りでの、批評文に見られる「繊細な感悟による正格な鑑賞」は、讃嘆に値します。特に、彼に先立つ明治の詩人の業績によせる鑑識眼の公明正大さは、高く評価されるべきでしょう。しかし、何よりも自作の詩の上に、厳しく働かされました。
 『黒衣聖母』に、次のような注目すべき言葉があります。
「詩人は如何に展開しても、哲人にはならぬ。宗教家にはならぬ。」(同上) これはわずか三年前の、処女詩集『転身の頌』の次のような言葉を、軌道修正したものなのです。
「霊感の神馬に鞭打って天界に佯俐する詩家と、思念の網を手繰って実在の聖体盒に参じる哲人と(中略)は、偏寵の神子である。神の意志による人間霊性の最大級の奔躍が彼らによって試される。」
 つまり、詩人と哲学者と宗教者を一身に具現することが最大の問題であり、目標でした。
 それが、微妙に論の重心を変化させています。
「談理に偏し、説法に急なる時、詩人はしばしば己れの埒外に飛び出したがる、外道である。古今の詩史には、この大外道も多いことを銘記する要がある。」(『黒衣聖母』の序)
 偽詩人、偽宗教家への嫌悪と否定が明確になっています。日夏の生涯は、日本の文化に寄生するさまざまな偽物たちとの、戦いの連続でもありました。
 しかし、ことは日夏自身の詩の原理的な問題として、考える時により重要な意味を持つはずです。
 ここは日夏耿之介論の、重要な眼目となるところだと思います。簡単に答えの出る問題ではありません。
 透明な泉の中で、濃度の違う二種類の液体が層をなして、光を屈折させている場所です。
 詩人エドガー・アラン・ポーの『詩の原理』を、ここでの日夏の針路の微妙な変更は、いやおおなく連想させます。一部を引用してみます。
「「詩の原理」それ自体は、厳密かつ単純に、「天上界の美」に対する「人間の憧憬」であるが、その一方、「詩の原理」の発現はつねに、ーー「心情」の陶酔であるあの情熱とも、ーーあるいは「理性」の満足であるあの「真理」とも相去ることかなり遠い、ーー 「魂」を感奮高揚せしむることの内に見いだされる。「情熱」について言えばこれは悲しいかな、「魂」を高揚させるより堕落させる傾向を持つ。反対に「愛」こそーー真の、神聖なエロスこそ、ディオーネーの娘アプロディーテーから切り離されたウーラノス(天空)の子のエロスこそーーすべての詩の主題の内でもっとも純粋なもっとも真実であることに疑問の余地はない。」
 「魂」の高揚を求めることは同じでも、詩人の天秤の秤は「真理」よりも、「情熱」へと傾いているのです。ただこの「愛」は、ポーがギリシア神話を引いて、美の女神アプロディテーから切断されていると、慎重にその起源を説明しているように、「肉」の愛ではなくて、より天上的な「愛」のことでしょう。
 『転身の頌』にあった、素朴な天才讃美の論から考えるに、日夏はこの三年間のどこかで、自分の詩人の才能が、「魂」を高揚させるという点では同じでも、キリスト教的な「天上界の美」を追い求める西洋の「天才」たちとは、異なる質のものだということに、気付いていったのではないでしょうか。
 日夏耿之介のエドガー・アラン・ポーの「大鴉」の訳業は、古今に冠絶すると讃嘆される名品ですが、「天上界の美」への「人間の憧憬」とは遠い、人間の精神の暗部へと墜落する「情熱」の劇になっていると思うのです。
 今日は、『転身の頌』から『黒衣聖母』へという二つの詩集の間の、変身の過程のある一年を、一編の詩を読むことで、追体験してみたいと思います。比較対照の軸として、ポーの「詩の原理」を使用します。 
 「書斎に於ける詩人」という作品は、『黒衣聖母』の「崇物教徒」という章に含まれます。愛書家に冠する名称として、適切だと思います。書物に崇拝の念を持って接する者を、信仰者と彼は捉えているのです。
 もちろん自分も信者の一人なのです。客観的な冷笑を浮かべた視点での、冷淡な言葉ではありません。彼は見てきたように、いつも大真面目なのです。今日は、書物の崇物教徒としての詩人の一面を読んでみましょう。

 五連三十八行の、口語に文語が交じる自由詩です。全文を引用します。(行番号は、筆者が説明の便宜のために付けました。なお原文は正字正仮名遣いですが、略字新仮名遣いで引用します。手元のテキストが、これしかありませんのでお断わりしておきます。)

書斎に於ける詩人

1  それゆえに……
2  儂は雪の降る日の午下がり
3  水晶のように明るい窓ぎはの長椅子でこれを誦む
4  嗚呼 書籍よ
5  爾の古拙な 聡明な 慣習の信仰の 肌触をただ嬉しみ泥み 
6  わが情想沈潜きて 淑やかに もの柔らかにほそぼそと
7  私語を交す 黙しあふ 
8  『クロイランド僧房年代志』その知慧深き眼光よ
 
9  さりながら……
10  春の宵は内園の樫材の内扉に凭寄り
11  思量に重い小胸のうちにいくたびも嘆息しつつ
12  おん身の淡紅の仔羊皮の美装に見惚れてをる
13  嗚呼 書冊よ
14  東方波斯『憂鉢羅苑』愛の詩薈の狂ほしい
15  一字 一字
16  心肉にひしと喰ひ入り
17  かの限りない内観と感覚との融合の
18  聖一致をば繰り展げるひまびまに
19  繊弱な情緒しなしなと鼓翼きかける

20  それからは……
21  濃緑の斑目を染める 椎の樹の森の樹陰に
22  朱夏六月の午後一時ごろ
23  阿刺比亜の『壱阡壱夜譚』の重苦しい章を繰る
24  夢青い古代史伝の血塗れの王宮の秘苑なる
25  銀色の石級をただ一息に駆けのぼる夢見心地
26  伝統の紅き幻影に喘ぐ旱天 呼吸づく大地 躍動る人間

27  いま つひに……
28  秋晴の賢い朝
29  白芙蓉の淋しい花のその梺にひとり彳み
30  内気な 悒鬱な『エラズムス』神学書の 
31  厳めしい内扉を切り開く
32  一句 一齣と思考に重い
33  深い吐息は 博覧の 奇古なる 阿蘭陀の学匠より
34  儂が身の奥の聖盒の 皎い素絹にしみこんでゆく
35  それゆえに眉を顰めて……

36  儂が書籍らは卒卒と一どきに黝重く微笑する

37  わが書籍らよ 書冊らよ    

 見ただけでは読めないですね。それで良いのです。ちょっとしたカルチャー・ショックを体験してください。この講義が終了した時には、音読できるようになっていることを保証します。ちょっと無理をして、詩の全体の読みを作成してみます。(無理というのは、彫心鏤骨の推敲を続ける詩人には、試作品にいくつものヴァリアントがあるためです。素人には、校訂がたいへん困難なのです。しかし、自分に調べられる最良の本文を、作成していくつもりでいます。)
 日夏耿之介は、「字句、用語、句読の末節に及ぶ抜き差しならぬ好みがある。」(『黒衣聖母』の序」)詩人です。
 漢文や漢詩を読む訓練という習慣を失った、現代の我々日本人が比肩すべくもない、膨大な漢字の語彙が彼にはありました。
 しかし、それも、少し詳しい国語辞典と漢和辞典が手元にあれば、越えられぬ壁ではありません。
 たとえば、冒頭の引用文にあった「瑰奇」です。読みは「かいき」です。意味も、ほぼ同じ。「怪奇」です。「瑰」は、王偏に鬼と書きます。「王」の字は、もとは斧の形を表す象形文字でした。王から、大きなものの意味が派生して出てきます。「鬼」は死んだ人のたましいです。「奇」は、もとは一本足で立つ人です。「あやしい」 「めずらしい」という意味がそこから出てきます。(本当は、 「奇」にも王偏がついていました。楽古堂のワープロに、この字がありませんでした。)二つ合わせると、大きな死者の霊魂と、大きな一本脚の怪物という意味になります。だから、「怪奇」と同じなのです。
 日夏は、この熟語の持つ、ヴィジュアルなイメージを愛しているのです。
 ここで『転身の頌』の序文から、あまりにも有名な文句ですが、次の部分を引用しておくべきでしょう。
「象形文字の精霊は、多く視覚を通じ大脳へ伝達される。音調以外のあるものは視覚に倚らねばならぬ。形態と音調との錯綜美が完全の使命である。」
 二つ目の文が省略があって、抵抗感があります。しかし、意味は明瞭です。
「(象形文字でもある漢字の持つ)形態と音調との、(視覚と聴覚の、どちらか一つではない)錯綜(する)美(の活用)が、完全 (な詩を作るためには、どうしても詩人に要求されるところ)の使命である。」
 稀用漢字の使用に、驚くことはないのです。それは、詩人の趣味によって要請されていることなのです。
 しかし、もう一つ、より壮大な意図が、日夏にはあったように思えてなりません。それは、漢字の旧訓に対する、新訓の創造です。新しい漢字の読みを、日本語の中に生み出そうとしたのではないかという仮説です。自分の詩の世界のみではありません。自分が美しいと思う漢字の音読みと訓読みによって、貧しい日本語の語彙を、豊かにしようという構想が、密かにあったのではないでしょうか。 証明はできません。
 手元に、日夏の評論や随筆があれば確認したいのですが、思潮社版の詩集一冊では無理のようです。この点に限らずに、日夏の先輩読者のご教示を受けられたら、望外の幸せです。このような大望を胸に抱いている詩人が、晩年になるにつれて、激しい欝屈を覚えるようになるのは、当然であるように思えます。

 原則として一連毎に、これらの詩行をひらがな書きしたものを、付記します。ふりがなを付けにくいという、技術的な側面もありますが、それ以上に、日夏の詩語を佶屈とした漢語の字面から解放したいのです。ひとたび音読すれば、なだらかでつややかな、古代の大和言葉の復権とも呼びたい、豊かな生命力に満ちた旋律を響かせることを、実体験してもらいたいと思っています。過去の日夏の読者は、重厚な内容面にのみ心を捕らえられて、この面を等閑視していた傾向があります。

 ひらがながきのさいに、意図的に語句を分けさせてもらいました。日夏は、ぼくのようには分けていません。詩人の韻律に、五七調と、七五調という短歌的なリズム感が、いかに深く食い入っているかを明瞭に示すためです。
 稀用漢字を鏤めた、重厚な漢字訓読文のような詩行が交替することで、音楽のアダージョとアレグロの交替のような、鮮烈な対照を生み出していきます。表面的には西洋的だと思われる二十代の若き日夏にも、博大な中国や、日本文化の教養が、根底にあることをしめしたいのです。ご堪能下さい。
 「書斎に於ける詩人」は、「形態と音調との錯綜美」の実例としては、もっとも優れた例とは言えないでしょう。しかし、ここにすら紛れもなく実行されている、美しい言葉の音楽に、耳を傾けてもらいたいと思うのです。
 おそらく、あの「咒文」という高峰の、一読忘れられぬ、魔法のように美しい一行目に辿り付く、道の途中なのだと思います。
 「夢たおやかな密誦を誦すてふ」(ゆめたおやかなみつじゅをじゅすちょう)と、「咒文」の一行目を読み始めると、謡でも詩吟でもなく、しかし、腹式呼吸のしっかりとした芯のある、鍛えられた声が、耳に重い響きをたてながら歌い始めるのを、人は聞くはずです。 それは、しょうやひちりきという雅楽の、あの大陸的なゆったりとした速度の伴奏に乗るのがふさわしい調べでありながら、しかし、古代でも、遠未来でも、もちろん現代でもない、しかし、超時間的な日本の調べと呼ぶしかない普遍的な楽を、奏で始めるのです。
 日夏の詩は、朗々誦すべき音楽に満たされています。

象形文字精霊奇譚・日夏耿之介・・・書斎に於ける詩人・1了





 

(2)

 第一連からいきます。なれるまで、一行ごとにひらがながきを付けていきます。

1  それゆえに……
 (1 それゆえに)

 
 これは、だれが言っている言葉でしょうか。各連の冒頭に、この種の謎めいた言葉があります。雪の降る日だから、外出もできない。それゆえに、本を読むのだ。とは言えます。しかし、二つの三点を打ってあるところが、きになりませんか。

2  儂は雪の降る日の午下がり
3  水晶のように明るい窓ぎわの長椅子でこれを誦む

 (2  わしは ゆきのふるひの ひるさがり
  3  すいしょうの ようにあかるい まどぎわの ながいす     で これをよむ)


 季節は冬であることがわかります。以下、これが、連ごとに変化していきます。
 「儂」は、一人称の「わたし」と同じです。やや年老いた印象のある言葉でしょう。若い詩人は年齢という徳を、自分に加味したいと望んでいるのだと思います。青年期は、自分の若さという美点を恥ずかしがる、面倒な季節でもあります。
 「水晶のように」は直喩です、現代の目からみると、少し陳腐です。それよりも、「ゆきのふるひのひるさがり」という、のんびりとした言い方が、ものうげな時間の流れを感じさせます。
 長椅子は、作者の書斎でもお気にいりの場所でした。他の詩にもたびたび登場する場所です。
 そこで、「誦む」のです。ただ、「読む」のではありません。黙読ではなくて、声に出して誦しているのです。昔は、よくこういう人がいました。日夏もその実践者の一人であったと思います。

4  嗚呼 書籍よ
 (4  ああ しょせきよ)

 言葉が省略されています。
 おまえは、有り難いわたしの友だ。
 感謝を捧げるよなどなど。
 いろいろな思いがあるでしょう。が、それは言葉になりません。 自分が、いちばん感動した時のことを思い出してください。たいてい、その内容は、すぐには言葉にはならなかったはずです。詩人も同じなのです。その思いが以下に、解きほぐされていきます。

5  爾の古拙な 聡明な 慣習の信仰の 肌触をただ嬉しみ泥み 
6  わが情想沈潜きて 淑やかに もの柔らかにほそぼそと
7  私語を交す 黙しあふ 
8  『クロイランド僧房年代志』その知慧深き眼光よ


 (5  おんみのこせつな そうめいな かんしゅうの しんこ     うの はだざわりを ただうれしみなづみ 
  6  わがおもい おちつきて しとやかに ものやわらかに     ほそぼそと
  7  しごをかわす もだしあふ 
  8  『クロイランド そうぼうねんだいし』そのちえふかき     がんこうよ)

 日夏の音調に対する技巧の冴えが、際立つ章句です。
 ゆっくりと読んでいきます。

5  爾(おまえの尊敬語)の古拙な 聡明な 慣習の信仰の 肌触をただ嬉しみ泥み 

 (5  おんみの「こ」せつな そうめいな 「か」んしゅうの     しん「こ」うの)

 カ行音のたたみかけが効果的です。詩人の語句の連想を促しています。次の濁音の多用されている行を比較すると、転調の妙にきがつきます。音調の「錯綜美」です。

 (は「だ」「ざ」わりを た「だ」うれしみな「づ」み) 

 言葉が音だけではなくて、触感としても意識されます。
 手に持った書籍の重さや、羊皮紙かもしれない紙の手に触れる感覚までも感じられます。濁音の重用が、それを読者に意識させてくれます。
 「泥む」は、意味としては「拘む」と同じです。馴れ親しんでいるということです。読むことの喜びをいっぱいに感じています。
 それを「泥む」と書くことで、泥の中に、浸るようにどっぷりと浸かっているというイメージを持ちます。「象形文字の精霊」が、活動しているところです。日夏の詩には、こうした皮膚感覚の独特な鋭敏さが、あちこちに感じられます。
 そういう言葉の肌触わりを、ただ喜んでいる。
 さらにいえば、彼にとっては、形而上学的な思惟も体感できるような実在であったのです。そのことはこの詩を読んでいくことで明瞭になっていきます。

 古風で拙ないようでもあり、また聡明でもあるのは、書籍に書かれている言葉たちのことでしょう。僧院の古い慣習についてのこともあれば、信仰と直接関わることでもあるでしょう。
 クロイランドという僧院での、僧たちの宗教的な生活のことが書かれているのでしょうか。ぼくには、この僧院がどこにあるかも、この本が現在でも読めるかどうかも分かりません。それを、読んでいなくても、詩の鑑賞はできるということを示したいのです。
(しかし、そうは言っても、この『クロイランド僧房年代志』とは、どのような書物なのか。さらに日夏は、どのような点をこれほどに評価しているのか。キリスト教に詳しい方の、教えを受けたいものです。)

5  爾の古拙な(また)聡明な(言葉の書かれている)(クロイランド僧院の宗教的な儀式や生活の) 慣習の(また)信仰の(書かれている紙の) 肌触(わり)をただ嬉しみ、(また)泥み(馴れ親しんでいるので) 

 このように散文化するよりも、詩の省略された語句の連鎖の方が、効果的に意味を伝達します。復元も容易にできます。

6  わが情想沈潜きて 淑やかに もの柔らかにほそぼそと
7  私語を交す 黙しあふ 

 (6  わがこうそう おちつきて しとやかに ものやわらか     に ほそぼそと
  7  しごをかわす もだしあふ) 

 詩人の感情も想像も落ち着いてきます。次第に、書籍の世界に深く入り込んで行くわけです。
 すると、私語をしている声が聞こえてきます。淑やかでもある、ものやわらかでもあって、感情を悪く刺激するような大きな声ではありません。
 僧院の生活だから当然でしょう。
 あるいは、沈黙を守っています。
 読書に、一所懸命になると、だれしも体験したことが何度かはある世界の消息だと思います。
 詩人は、異国の遠い昔の宗教者の中に入っていき、宗教的でもあり、知的でもある静かな対話を楽しんでいるわけです。
 「憂欝な哀愁」と「神経性快活」の両極端の感情に引き裂かれていた詩人にとって、これが癒しの時であったことは、容易に共感できることでしょう。

8  『クロイランド僧房年代志』その知慧深き眼光よ

  (8  『クロイランドそうぼう ねんだいし』
      そのちえふかき まなざしよ)

 この「知慧深き眼光」は、書物全体からと射していると言ってもよいし、その中のある人物をイメージとして、その言葉から発したものと言っても良いと思います。
 思念が肉体化しているのです。日夏の読書力が偲ばれるところです。          
 第一連は、ポーの「詩の原理」でいう「真理」と戯れる一時です。

 第二連に入ります。今度は、まとめてひらがな書きしましょう。

9  さりながら……
10  春の宵は内園の樫材の内扉に凭寄り
11  思量に重い小胸のうちにいくたびも嘆息しつつ
12  おん身の淡紅の仔羊皮の美装に見惚れてをる
13  嗚呼 書冊よ
14  東方波斯『憂鉢羅苑』愛の詩薈の狂ほしい
15  一字 一字
16  心肉にひしと喰ひ入り
17  かの限りない内観と感覚との融合の
18  聖一致をば繰り展げるひまびまに
19  繊弱な情緒しなしなと鼓翼きかける

 (9  さりながら……
  10  はるのよは ないえんの かしの うちどに          もたれより
  11  しりょうにおもい こむねのうちに いくたびも たん     そくしつつ
  12  おんみのたんこうの こひつじがはの びそうにみとれ     てをる
  13  ああ しょさつよ
  14  とうほうペルシヤ 『うばらゑん』 あいのしくわいの     くるほしい
  15  いちじ いちじ
  16  しんにくに ひしとくひいり
  17  かのかぎりない ないかんと かんかくとの ゆうごう     の
  18  せいいっちをば くりひろげる ひまびまに
  19  せんじゃくな じょうしょしなしなと はばたきかける)

9  さりながら……

 そうでありながら、です。なにが、「さりながら」なのでしょうか。まだ、発語の主体はわかりません。何ものかが、こう呟いているのです。          

10  春の宵は内園の樫材の内扉に凭寄り

 季節は春です。第一連では、時間は冬の午後でした。今度は、季節ばかりではなくて、もう少し時間も経過しています。懶い春の夕方のことです。
 内園は、家の建物に囲まれた庭のことです。そこに出るための重くて堅いがっしりとした内扉に、詩人はもたれています。もう一枚、風雨を防ぐための外扉があるのでしょう。この二つの扉に守られた庭園の存在は、現実かもしれませんが、同時に詩人の内界の象徴でもあるでしょう。ぼくたちは、あとで詩人の心の内扉を潜ることになります。

11  思量に重い小胸のうちにいくたびも嘆息しつつ

 思量は、「思考」に同じです。日夏は、考えにも重「量」を感じています。抽象な思考に物質の具体性をもたせる、詩人の感覚の冴えです。
 「小胸」の内側に重く感じられるのです。何かを悩んでため息をついています。「小胸」(こむね)は、日夏の好きな言葉です。詩には頻繁に登場します。江戸時代から日常生活の言葉です。歌舞伎にも用例があります。普通は「小胸が悪い」という風に使います。気分が悪い。不愉快だの意味です。もちろん漢字の視覚的なイメージの絢爛豪華さゆえの選択ではありません。日常の言葉ですが、気に入って使用しているのです。これも日夏の一面です。

  (11  しりょうにおもい こむねのうちに いくたびも た      んそくしつつ )

 また、このようにひらがな書きにしてみると、そこには島崎藤村を連想させるような、五七調のリズムが日本的な心情の脈を打って流れているのが見えてきます。
 ともあれ、ここでは何に悩んでいるのでしょうか。

12  おん身の淡紅の仔羊皮の美装に見惚れている
13  嗚呼 書冊よ

 書冊にも、見惚れるぐらいです。中国の漢字では、「籍」は竹を革紐によってまとめたものであり、「冊」は、紙をまとめたものです。書冊の方が、現代の本に近いのです。西洋の本ですから、紙でできています。明らかに小羊の鞣革の、薄いピンク色の美しい装幀さえ、艶かしいものに見えてきます。ここで10行目の、懊悩がどうやら恋のそれであると、想像がついていきます。詩人は女人の美しい肌を、妄想しているのではないでしょうか。

14  東方波斯『憂鉢羅苑』愛の詩薈の狂ほしい

 オリエントの国ペルシャの愛の詩集『ルパイヤート』に、胸狂おしくなっているのです。日夏は、女性との交際の活発な詩人でもあったそうです。
 詩薈の「薈(かい)」の字は、「わい」とも読みます。意味は、草木が茂っているということです。詩華集ということと同じです。

  14  とうほうペルシヤ 『うばらゑん』 あいのししゅうの     くるほしい

 七五調のリズムの、なんと日本的な情緒を乗せてたおやかに流れることでしょうか。
 ただこれは、意識的な措辞だと思います。次の漢文書き下し文風の佶屈としたリズムと、好対照を作るのです。

15  一字 一字
16  心肉にひしと喰ひ入り
17  かの限りない内観と感覚との融合の
18  聖一致をば繰り展げるひまびまに

 日夏の読書法を、明瞭に説明したところだと言ってよいでしょう。
「一字一字」を読んでいます。けして焦っていません。読み飛ばしてはいません。そうして始めて言葉が、心、精神のみでなくて、肉、身体にも食い入ってくるのです。現代の私たちも見習いたいところです。
 それを「限りない内観と感覚との融合の聖一致」というように、簡潔な言葉で説明しています。この点は重要なので、後の連で詳述します。

19  繊弱な情緒しなしなと鼓翼きかける

 自分が、真剣な行為に没入しているときにも、日本的に「繊弱な情緒」が、混入してきてしまうのです。これは、11行目の思量の内容でもありましょう。
 書物の外側、この書斎の外にある現実の恋や性の懊悩でしょう。それは、本当はそちらこそが、詩人が霊肉の全存在を賭けて、真剣に対峙しなければならないことなのかもしれません。
 「しなしなと」鶏の翼や、女の細腕が殴るようにそれは、彼の心を打ってくるのです。それを五七調や、七五調によって表現しています。このしなやかな手に打たれる痛みを詩人は、実際に体験してはいないでしょうか。
 日本の近代の詩に対する、批評的な意味を帯びた語法だとも思います。大正の詩壇では、「繊弱な情緒」を歌うことがまだ日本の詩の主流をなしていました。
 第二連は、「詩の原理」の「情熱」についての連でしょう。

 第三連です。

20  それからは……
21  濃緑の斑目を染める 椎の樹の森の樹陰に
22  朱夏六月の午後一時ごろ
23  阿刺比亜の『壱阡壱夜譚』の重苦しい章を繰る
24  夢青き古代史伝の血塗れの王宮の秘苑なる
25  銀色の石級をただ一息に駆けのぼる夢見心地
26  伝統の紅き幻影に喘ぐ旱天 呼吸づく大地 躍動る人間

 (20  それからは……
  21  こみどりの ばらふをそめる しいのきの もりのこ      かげに
  22  なつろくがつの ごごいちじごろ
  23  あらびやの 『いつせんいちやたん』の おもくるしい     くだりをくる
  24  ゆめあおき こだいしでんの ちみどれの おうきゅう     の ひゑんなる
  25  ぎんいろの せつきゆうを ただひといきに かけのぼ     る ゆめみごこち
  26  でんとうの あかきまぼろしに あへぐそら いき       づくだいち をどるひと)

20  それからは……

 さて、それから恋に苦しむ詩人は、どうなったのでしょうか。

21  濃緑の斑目を染める 椎の樹の森の樹陰に
22  朱夏六月の午後一時ごろ

 季節は夏になりました。自然の目に染みるような、新鮮な緑の美しさの描写はどうでしょうか。前の連と音調が変化します。やや単純に図式化するとすれば、女性的な世界から、男性的な世界へと言ってよいでしょうか。
 巨大な椎の木陰から差し込む陽光が、森の下草の濃い緑が、明るい緑に見えるまでに透過しているのです。「こみどりの ばらふをそめる」も軽快ですが、「しいのきの もりのこがけに」も、母音のi音の連鎖が快調です。「si−i−no ki−no mo−ri−no ko−ka−ge−ni」。字面を見ているだけの時の、うるささがありません。

  21  こみどりの ばらふをそめる しいのきの もりのこ      かげに

 明確な五七調です。
 繰り返しますが、日夏は、朗々誦すべき詩人なのです。美しい青年の、甘く若々しいテノールの朗詠が、心に聞こえてきます。黙読は、彼の世界を悪い意味で、書斎という限界に幽閉してしまうでしょう。
 詩人も、戸外に出ています。時刻も真昼を少し過ぎたころです。朱夏の日差しが鮮烈です。斑目(ばらふ)は、木漏れ日に、葉がまだらに染められている様子のことです。濃緑色の椎の葉が、明るい緑色に透けて見えています。植物への繊細なまなざしです。もちろん、この六月は旧暦なので、今の五月の風景です。

23  阿刺比亜の『壱阡壱夜譚』の重苦しい章を繰る

 アラビアン・ナイト千夜一夜物語を読んでいます。この「重苦しい章」が、どこなのか探してみるのも、おもしろいと思います。詩人が読者に仕掛けた謎ではないでしょうか。
 この連は、『転身の頌』の「傳説の朝」という詩と併読しても楽しいでしょう。

24  夢青き古代史伝の血塗れの王宮の秘苑なる
25  銀色の石級をただ一息に駆けのぼる夢見心地

 波瀾万丈の冒険活劇の主人公に、詩人はなっています。「石級」は、石の階段のことです。「級」の字に、「きざはし」「だん」の意味があります。もともと機織りが、つぎつぎと繰り出す糸の意味でした。そこから、順序の意味になります。階段も一定の順序のある構造物ですね。 

26  伝統の紅き幻影に喘ぐ旱天 呼吸づく大地 躍動る人間

 「濃緑の斑目を染める」陽光と「朱夏六月の午後一時ごろ」の暑気は、書物の世界の熱気と感応しています。現実逃避と言えば言え。全身全霊を投入しての、日夏の読書の姿勢が表現されています。喉の渇きを詩人は感じているのです。
 これほどの真剣な書物の世界への没入は、普通の人には、子ども時代にしか味わえないものでしょう。詩人は青年期が終わる頃になっても、それができているのです。こうした純粋な資質を、素直に感嘆しても良いでしょう。
 第三連も「情熱」の時です。
象形文字精霊奇譚・日夏耿之介・・・書斎に於ける詩人・2了








(3)

 第四連です。

27  いま つひに……
28  秋晴の賢い朝
29  白芙蓉の淋しい花のその梺にひとり彳み
30  内気な 悒鬱な『エラズムス』神学書の 
31  厳めしい内扉を切り開く
32  一句 一齣と思考に重い
33  深い吐息は 博覧の 奇古なる 阿蘭陀の学匠より
34  儂が身の奥の聖盒の 皎い素絹にしみこんでゆく


(27  いま つひに……
 28  しうせいの かしこいあした
 29  しろふようの さびしいはなの そのやますそに ひとり    たたずみ
 30  うちきな いふうつな『エラズムス』しんがくしょの 
 31  いかめしい うちとびらを きりひらく

 32  いっく いっせきと しこうにおもい
 33  ふかいといきは はくらんの きこなる おらんだのがく    じやうより
 34  わがみのおくの せいがんの しろいすずしに しみこん    でゆく)

27  いま つひに……

 今、ついに、どうなったのでしょうか。

28  秋晴の賢い朝
29  白芙蓉の淋しい花のその梺にひとり彳み

 季節は秋になりました。秋晴れのさわやかな美しい一日。それを、「賢い朝」と、誉めています。「賢」の字は、「貝」の「あし」が付いているように、もとは良質の固い貝を意味していました。貝を貨幣として流通させていた、古い時代の記憶の名残もあるでしょう。そこから「良い」「優良な」という意味になっていきました。ここでは、良い朝ということです。雲一つなく晴れ渡った、張り詰めたような青い空の物質感を、そう形容しているのではないでしょうか。
 「しゅうせい」「かしこい」「あした」「しろふよう」「さびしい」という、畳み掛けるような固い「し」音の重用が、「はな」 「ふもと」「ひとり」という、柔らかいハ行音に転調していきます。
 白い芙蓉の花が咲いています。木は3メートル程にまで成長します。幹の上部の葉腋に、直径十センチぐらいの花を付けます。淡紅色もありますが、詩人の庭園にあったものは白色のほうです。
 自然のはなやぎの下に、詩人は立っています。そして、真下から満開の花を見上げています。その時の素直な印象が「やますそ」という比喩になっています。
 「梺」の漢字は、「林」の下に「下」がくるということで会意文字です。「ふもと」と読みます。国字(日本で作られた漢字)です。日夏が愛好している理由は、例によって視覚に与える効果でしょう。「象形文字の精霊」の働きを感じているのです。
  芙蓉は、朝に開いて夕方には閉じてしまいます。しかも、満開の季節である故に、やがて訪れる花の落ちる日を、思わせずにはいないのです。それゆえに「淋しい」光景でもあります。
 松尾芭蕉にも、「枝ぶりの日ごとにかはる芙蓉かな」の句があります。実感として理解できます。ここも奇矯な、本人にしか理解できないような、比喩ではありません。
 視線が自然に向くとき、彼の視線はいつもやさしいのです。

 白芙蓉淋しき花の梺に一人たたずみ書を読む我は

 このような短歌に、パラフレーズしたくなりませんか。

30  内気な 悒鬱な『エラズムス』神学書の 

 秋は、ふたたび神学書を読もうとしています。(この内容にも、ぼくは残念ながら立ち入る力がありません。日夏を読んでいると、自分の読書範囲の狭さを思い知らされます。)
 第二連の春の愛の詩集『ルパイヤート』、第三連の夏の『千夜一夜物語』の「情熱」的で外向的な作品と比較すれば、たしかにエラスムスは内気でしょう。憂欝でもありましょう。しかし、詩人には親しみを覚えることができる性格です。自分と同質の人間なのです。
 秋の諸行無常を感じさせる空を眺めて、詩人は宗教的な気分に誘われているのです。自然に神を感じる時というのは、実に日本的な信仰の様態ではないでしょうか。第一連の冬の『クロイランド僧房年代志』と同様な「真理」の追求が、秋に再開されます。
 しかし、詩人は戸外にいます。心は書物の世界という内界に入っていきます。その入り口が絶妙です。

31  厳めしい内扉を切り開く

 切り開くのは、フランス装であるためでしょう。それをたぶん銀や象牙の豪華なペーパーナイフで、切りつつ読んでいるのです。つまり、新しいまだ読んでいない本です。充実した、読書の準備のためにする儀式的で厳粛な行為です。厳しいのは紙が厚いのでしょう。もちろん思想としての敷居の高い抵抗感もあります。
 この「内扉」は、現実にも詩人の庭へと開いていたことを思い出しましょう。実に繊細な語句の選択です。「うちど」「うちとびら」と単調にならないために、読み方を変化させています。シュールリアリズムのトロンプ・ルイユ(騙し絵)のような効果があります。現実の「内扉」を入り内園に立つ詩人の、手に持つ書物にも「内扉」が開いているのです。外界から内界へと、詩人は入っていきます。

32  一句 一齣と思考に重い

 抽象を具体的に感じる、詩人の読書の奥義がここでも発揮されています。「一齣」は、「いっしゅつ」とも読みます。一句と同じですが、歯で句を噛み締めているということです。詩人らしい、肉体的な充足感のある漢字の選択です。

33  深い吐息は 博覧の 奇古なる 阿蘭陀の学匠より
34  儂が身の奥の聖盒の 皎い素絹にしみこんでゆく

 いかにも、日夏らしい詩行です。オランダの学匠エラスムスの博覧強記と、古来まれな深い人生に対する省察の吐息は、詩人の身の奥の聖なる、キリストの聖なる遺物をおさめている「聖盒」に染み込んでいきます。蓋の付いた聖なるものを入れる容器のことです。これはもう「真理」ですらなくて、ポーのいう「天上界の美」を 「人間の憧憬」する、深く宗教的な場所と呼んでも良いでしょう。
 ただし、詩人は、哲学的な内容の「真理」を、精神的にだけでなくて、肉体的に官能的に「情熱」的に体感します。
 それが日夏の読書の秘法なのだと読んできました。
 この感動は、詩の言葉においても現実化されています。「しろいすずしにしみこんでいく」の「し」音を中心とした水晶の珠の零れる、ベネディッティ・ミケランジェリのピアノの打鍵のような、磨きぬかれた音のつらなりは、ため息がでます。詩を読む生理的な快感があります。
 キリスト教の比喩が出てくるのは当然です。次の二行とも対応します。

17  かの限りない内観と感覚との融合の
18  聖一致をば繰り展げるひまびまに

 素絹は、絹糸で織られた布のことです。白い美しい絹の布を通して、学匠の深い吐息の温もりも肌に感じられるのです。それは、肉体の秘部にまで浸透していきます。異常とは言えませんが、極めて特異な体験ではありましょう。日夏らしい官能的な体験です。彼以外で、こうまで率直に書物への愛を語れる詩人は、他にだれがいるでしょうか。 

 なおこの部分は、ボードレールの『悪の華』にある「懲戒詩」を、ぼくに連想させます。佐藤朔訳で引用しておきましょう。

 老いたるプラトンのけはしき眉を顰しめよ。
 快き国の女王、愛らしく気高き土地よ、
 汝はその放逸なる接吻により
 つねに尽きざる風雅に赦さる。
 老いたるプラトンのけはしき眉を顰しめよ。

 心よりも、ことばを借りたということでしょう。秀逸な趣向だと思います。

 汝はその放逸なる接吻により
 つねに尽きざる風雅に赦さる。

 このボードレールの二行を知っていると、『書物に於ける詩人』は、さらに面白いのではないでしょうか。日夏には、こういう場合が無数にあります。

 「限りない内観と感覚との融合の聖一致」にも、新に鮮明な意味が付与されていきます。
 内観によって得られる「真理」と感覚による「情熱」は、ここに融合されて聖なる婚姻を果たしています。難解なので、もう少し説明します。
 「聖なる一致」とは、キリスト教神学の用語でしょう。「神」と「精霊」とその「子」イエス・キリストとの、三位一体を意味します。
 「感覚」は、詩人が言葉によって、繊細に掬い上げてくれる、五感の与えてくれるものです。形而上的な思惟さえ物質感を持っています。
 これが、詩人の生来の「限りない内観」と、融合していくのです。詩的想像力の世界とだけ言っておきます。日夏でも、他の言葉で呼ぶことは出来ないのです。
 「感覚」は、「精霊」であり、「限りなき内観」とは、「子イエス・キリスト」に対応するはずです。詩人の「詩の原理」としては、そうでしょう。しかし、「神」は、どこにいるのか。唯一なる宇宙の中心としての神は。
 ぼくは、それは日夏耿之介という詩人の、「肉体」であると思います。物理的な自分のからだという実在と、精神という指示できないが、慥かに存在するものが、そこで融合している場所です。
 「肉体」という場所で、「感覚」と「限りない内観」が、融合するのです。日夏のもっとも深い「詩の原理」があると思います。思想と言っても良いでしょう。
 「神の子イエス・キリスト」である「限りない内観」は、「感覚」という「精霊」によって、「神」である「肉体」に昇天するのです。
 三位一体が、成就しています。つまり、日夏耿之介こそが「神」なのです。
 彼は、これが明らかに異教徒の発想であり、異端であることを熟知していました。だから、これ以上に明確に、言葉にすることはしません。
 「詩の原理」の、二冊の詩集の序文の間の転換は、この自覚によるところが、大だろうと思うのです。
 しかし、他にどうしようがあるでしょうか。ここまで、読んで来たように、彼は、思考を体感できる天賦の才能がある詩人でした。少なくとも、詩人の内部の現実としては、そうなのです。

 ともあれ、詩人は白い芙蓉の梺で、充足の時を体験しています。「ひまびま」は、暇暇でしょう。閑暇というように熟するような、外面的には無為の時間が、「肉体」を過ぎていきます。
 第四連は、「真理」についての連でした。


 第五連です。
 
35  それゆえに眉を顰めて……

 (35  それゆえに まゆをひそめて……)

 しかし、そうであるゆえになおさらに。
 だれがでしょうか。眉を顰めている存在は、もう読者に明らかだと思うのです。詩人を囲んでいる書斎の書物たちの、これはつぶやきではないでしょうか。
 四季おりおりの読書は、なんと一貫性を欠いているのでしょうか。 詩人は、なんと浮気ものなのでしょうか。
 放埒なまでに破廉恥な奴なのでしょうか。
 僧院の禁欲と愛の詩。
 「真理」と「情熱」、もしかすると肉としての「愛」へ。
 アラビアンナイトの冒険とエラスムスの哲学。
 なんというアンバランス。

36  儂が書籍らは卒卒と一どきに黝重く微笑する

 (36  わがしょせきらは そつそつと いちどきに
     くろおもく びしょうする)

 しかし、これも別に、有名な「ゴシック・ロマン詩」風の、占星術や隠秘学上の、「瑰奇」な情景とだけ受け取る必要はないでしょう。日夏は、エドガー・アラン・ポーのような、磨きぬかれた言語による、ある種の怪奇小説が大好きな人でしたが。
 「卒卒」は、「卒」の字が、たとえば「卒伍(そつご)」と熟します。中国の周時代の、軍隊の編成の名前でした。五人一組が「伍(ご)」、百人一組で「卒(そつ)」になります。その整列した軍隊のように、書架に整然と並んでいる本達の様子でしょう。(この「卒」の字には、穴かんむりが付きます。楽古堂のワープロにはない字です。)
 それが、一時に音も立てずに、微笑しているのです。
 不気味な、怪奇な情景です。しかし、ぼくたちは、自分が読んだ本達が、ときおりこのような微笑を浮かべているのを感じないでしょうか。
 「黝重い」(くろおもい)は、詩人の愛用する形容詞です。
 普通は「かぐろい」と読みます。「か」は、接頭語です。「くろく」を強調します。くろぐろとしているということです。
 それに「黝」の字をあてています。すると、この字は青みがかった黒の色をしめします。木々が重く茂って暗いところの色です。
「くろおもい」も、同じ意味だと思います。
 森鴎外に、「春来ても寂しかりけり遠めにはかくろき楡のはなのむらさき」という歌があります。日夏と同じ用法です。
 このあたりは、「かぐろい」という言葉の意味を、もう少し分かり易くして、「くろおもい」に日本語の中で永続した生命を、持たせたかったのではないでしょうか。彼の詩の中には、頻出する語彙の一つです。
 詩人は戸外の庭園にいるのですから、書物の顔の表情が、影に隠れているようで見えないのは当然なのです。
 想像の書斎で、(その一冊一冊の背表紙を、書物を愛する詩人は克明に読むことができるでしょう)黝重く微笑しているのです。
 屋内の闇の中に、直立して整列する書物の軍隊たちは、暗く深い森の木々の並びと、なんと似ていることでしょうか。的確な表現だと思いませんか。
 仔羊皮の装釘の洋書の、点金の輝きまで見えるようです。それは、たぶん軍服の階級章や装飾のきらめきでもあるでしょう。
 書物たちは、こんなおしゃべりをしているのではないでしょうか。
 いまでもこんな海外の本を、新刊で海外から取り寄せてまで読んでいる。
 『エラズムス』と、あの『クロイランド僧房年代志』との関係はどうなっているのか。
 いやさらに、『憂鉢羅苑』や『壱阡壱夜譚』とは、いかなるつながりがあるのやら。
 ないのやら。
 精神の一貫性は、どこにあるのか。
 君は、キリスト教とはなんだと思っているのだ。
 文学とはなんだ。
 詩とは、畢竟して何だ。
 「真理」と「情熱」と、どちらを選ぶのか。
 「愛」はどこにいったのか。
 いったい、お前の考える「詩の原理」とはなんなのだ。
 書斎の書物は、たしかにその持ち主の、けして他の人間に見せないすべてをのぞき見て、知っているのです。
 書物のこのような真摯な問い掛けは、これからも毎年繰り返されていくことでしょう。
 しかし。
 詩人は、愛情をこめて、自分の知の軍隊に、こう呼び掛けないではいられないのです。
 第六連です。一行のみです。


37  わが書籍らよ 書冊らよ    
 (37  わがしょせきらよ しょさつらよ)    

 書籍と書冊を区別して使用しています。西洋の本と、アラビヤやペルシャの本との区別もあるように思います。自分の蔵書のすべてに、呼び掛けているのです。
 第一連と第四連の後では、この人の西方の精神が「真理」を探求することへの関心の強さが明らかです。
 それとともに、第二連と、第三連では、東方のペルシャ、アラビアへの、主として肉体的で官能的な方向からの「情熱」への接近、興味関心の強さも明確です。
 この放蕩を許せ。
 書物らよ。
 これが、わたしという人間なのだ。
 それが書物を統括する将軍でもある、日夏の答えでしょう。
 この詩は、書物を愛する詩人の、一年間の読書の報告なのです。
 詩は、「真理」という「実在の聖体盒に参じる哲人」と、「情熱」に親炙する一年間を、書物の視点からユーモラスに語っています。「それぞれの据えられた場面に置いたままに各々の詩的表現によって」克明に記録している一編です。
 「書斎に於ける詩人」は、詩集『黒衣聖母』(1921年・アルス刊)に収められています。
 日夏の詩集の序文は、この批評家の精神を兼備した詩人が、自作を分析した果てに書き付ける、透徹した内容のものです。作品理解の鍵になります。長いので、詩人とこの詩の読解に有益だと思う部分を、そこから再度、引用してみます。
「私は自らの雰囲気と性格とのため、多くの心的逆境に終始して来た。」として、三十一歳の詩人は半生を回顧します。
「意志力弱く激情のみ徒らに熾烈にして、一旦憤怒すれば眩暈を感じて易く言語をも発することが出来ないのが恆であった」とあります。「一個病弱の驕児」とあります。口調は激越ですが、要するにわがままな子どもであったわけです。言語不自由になるというから、吃音でもあったのでしょうか。
 「純樸守旧の地方なる旧家から追い出して」という運命の変転を経験します。耿之介は、1890年に、長崎県の現在の飯田市に生まれました。1904年の3月に上京します。政治評論家だった叔父の家に寄寓します。そして、京北中学校に転入学させられます。そして辛い体験をします。
「如何にあらゆる背景の前に彳立せしめて慚愧すべき軽佻と怯懦と惨敗と自縛とを行はしめ、如何に峻烈に斧鉞を加へ、如何に斬りかつ苛んだことだろう。」
 1906年の春には、「脳神経病」を患って中学を退学します。
 今の言葉で言えば「イジメ」に会い、「落ちこぼれ」てしまったわけです。激烈な体験だったのでしょう。
 今回、みなさんがあまり興味関心を持っていないだろう、日夏耿之介という詩人を敢えて取り上げた理由を、納得して頂けたでしょうか。彼の問題は、現代の青年が直面するものでもあります。

 彼は最愛の処女詩集をも、わが子を神の命により犠牲に捧げようとした義人アブラハムのように、勇気を持ってあえて差し出すのです。

「あらゆる人間の批判、味解、鑑賞の弾正台にさし上す」(『黒衣聖母』序)

 逃げてはいません。
 ぼくのような一知半解の徒が、このような詩についての鑑賞を自由に記せるのも、日夏の宏量な覚悟のことばに励まされてのことです。
 日夏耿之介は孤独に耐えて、知識も技術も日本の詩人としては前人未到の高みにいたるまでに、独自な「詩の原理」を探求し、刻苦勉励していきました。
 日本近代の多くの詩人が、時間という冷酷無比な審判に耐え切れずに、消えていきました。
 日夏は数は少ないものの、現在も読者の心に生きて活動しています。書物の作り出す「真理」や「情熱」の世界という、深い伝統に根ざしていた者の強みでしょう。
 これほどに書物を崇拝した、東洋の異教徒の詩業を、キリスト教の世界に投げ返して、その達成の水準を問う仕事は、我々の時代とそれ以後に残された責務だと思うのです。 国内でも、その時代時代の、心ある読書家によって、つねに発見され読まれていく、希有な詩人の一人だと思います。
 ここまで読めば、もう言っても良いと思います。「書斎に於ける詩人」は、日夏耿之介の力量からすれば、上々の作ではありません。常凡の詩でしょう。「霊感の神馬に鞭打って天界に佯俐する」詩人の恐るべき実力は、ぜひその目で御鑑賞下さい。次の詩集が、もっとも容易に入手できます。

 日夏耿之介詩集 思潮社 現代詩人文庫 昭和62年 初版

 この講義の日夏の詩の理解のすべては、この書物一冊によっています。視野が狭いための誤読は、いくつもあるでしょう。疑義を正し、教えを乞いたいと思います。ご教示をいただければ幸甚です。

象形文字精霊奇譚・日夏耿之介・・・書斎に於ける詩人・3了
                  (2001・09・15)

【後記1】
 今回、匿名の読者の方から、欠落部分と読みの四ヶ所の訂正のご教示を得た。氏は、日夏の稀覯本を多数所持されている。日夏を朗々誦すべき詩人とする、素人の筆者の見解に賛意を表された。寛容は、日夏を愛する読者の特徴であろうか。殺伐とした近年の世情の中で、実に嬉しい体験であった。無償の好意を記し、深く感謝する次第である。(2001・11・18)
【後記2】
 幸運にも、講談社版全集の第38巻『北原白秋・三木露風・日夏耿之介』(講談社・昭和38年)を入手できた。詩人の生前発行のものである。それによって、詩の本文三ヶ所と、読みを七ヶ所訂正した。(2001・12・3)
【後記3】
 黒猫館館長の影暗き廃墟の講堂の一隅に、本稿が置かれるようになったことは大きな喜びである。拙文は、特にさまざまな出会いを筆者にもらたしてくれた。さらに新たな読者との出会いを期待したい。
(2003・08・12)