『クーロンズ・ゲート』ノート

・・・懐かしき異世界の伝説

 

 

楽古堂・大内史夫

 

 黒猫館館長に捧ぐ



「この町で起きたことは、絶対に自分の胸にしまっておくんだ」 リッチ

注意:以下は、紹介ではない。ノートといっても、正面からのゲーム批評である。論証の必要のある場合には、ゲームの「ネタばらし」をしている。これからゲームを楽しもうとしている人は、読むべきではないだろう。クリアーしたら、もう一度、ここに戻ってきてくれればうれしい。
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1・
 いま『クーロンズ・ゲート』をクリアーした。午前一時である。これが、バッド・エンディングなのかどうなのかも区別が付かない。ゲームには、マルチ・エンディングという、いくつかの結末を用意した作品も、あるという。後味の良いものがグッドで、悪いものがバッドであるとすれば、ぼくが経験したよりもハッピーな、グッド・エンディングの終幕の可能性も、ありえるように思える。(どうやら一種類のようである。)
2・
 ただ、自分が体験したことのみから、この作品の意味を分析していきたい。四十八歳の多忙な中年男が、ここまでくるのに、二十歳代前半の若い頃にドストエフスキーの長編小説である『カラマーゾフの兄弟』を読んだ時の、(一回が、十五分間ぐらいに分断されてはいるけれども、)累計すれば何倍もの長い時間をかけた。四ヵ月が過ぎてしまった。肌寒い春に始めた。季節は梅雨があけて暑い夏になろうとしている。自分にとって無視できない事実がある。いま終わったばかりの世界に、もう一度旅をしたい気分になっている。なぜ、ぼくは此れ程に、このゲームに魅了されてしまったのだろうか。その意味を探ってみたい。
3・
 長いRPGをするのは、初めての体験である。RPGとは、ロール・プレイング・ゲームの略称である。文字通り、ロール(役割)をプレイング(演じる)ためのゲーム(遊び)である。ゲームの初心者である。以下に書くことは、ゲームに親しんでいる人とは、おのずから異なる視点になるだろう。そこに存在価値があればと思う。
4・
 この作品については、1997年の発売の前から高い評判は聞いていた。凄いゲームが出るという噂である。発売直後に、教え子からハードも借りて、冒頭の部分だけをプレイした記憶がある。(彼も現在は、孫正義氏の会社で働いている。)ネットによる情報社会なのだと実感する。
5・
 様々な印象が交錯している。ゲームが一冊の書物のように、深いところまでを読んでみたいという解釈の欲求を、これほどに喚起するとは思ってもいなかった。なぜかと言えば、主人公に感情移入をするという、昔、小説の読書で体験した至福の時間を、久しぶりに再現できたからである。
6・
 子供のするゲームを見ていると、主に指先の反射神経に頼る、勝負の世界であるような気がしていた。あれはアクションRPGという別な世界であるようだ。RPG(ロール・プレイング・ゲーム)に、指先のアクションという面白さが加わったものである。
7・
 『クーロンズ・ゲート』のリアル・ダンジョンという部分では、指先のアクションの速度という要素が存在するような気がしていた。迷宮にすむ怪物たちは、勝負を待っていてくれる。急がされているという感覚は、最初の焦っていた時だけだった。そこを過ぎてからは、いつのまにかなくなっていた。むしろ豊富な体力を持って、七宝刀に吸収した気によって相克する作戦が重要だということが分かってくる。
8・
 それに呼応して主人公とともに、巻き込まれている状況の意味を、考えるようになってきたのである。ぼくは、先程、「感情移入」ができたという言葉を不用意に使用した。普通の小説の登場人物の「感情」に共感するという気持ちを「移入」すると言う。それとも、まったく違う種類の新しい経験なのだ。どうも、この新しい体験を説明する、適当な語彙を持っていないために、説明がおかしなことになる。主人公の心理は、一切描写されていない。原理的に不可能である。主人公にいわゆる「感情」の表出はない。身体さえもない。そうではなくて、プレーヤーであるぼくの「感情」が、主人公の「感情」になっているということだ。主人公という間接的な仮面は存在しない。自分の素顔で、直接に仮想の世界の歪んで汚れた濃密な空気感を、体験するのである。それが気持ちがいいのだ。
9・
 プレーヤー自体の肉体は、モニター画面の手前にある人間の形をした不可知の空間である。そこに、すっぽりとぼくの「感情」が入り込んでいる。小説では不可能な、共感ではない「感情」の「移入」が成立している。画面の中の現実を眺めたり、状況に動かされたりしているという感じがした。自分の心身の重心が、次第にモニターの内部の世界の方に傾斜していくというと、この微妙な体験を説明したことになるだろうか。小説というメディアではありえなかった程に、主人公と自分が一心同体という関係になっている。この時空間は、小説を読書するよりも細部の密度が濃密なのだ。ゲームとは凄い表現手段である。並みの小説の力では対抗できないだろう。若い世代が、活字から離れてしまうのも当然である。小説も、それに慣れてくると、ゲームでは不可能な現実感を体験できるのだ。光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』(早川書房)というSF小説で、ぼくはある惑星の上で互いに衝突する銀河という荘厳な風景を、たしかに見たという記憶がある。十四歳の時だった。あれに少しでも近い体験が可能になるのは、周囲360度の空間のすべてが、3DのCG画像で囲まれるような装置ができた時だろう。が、そこまでの作中世界に没入した体験ができるためには、子供の頃から何冊も本を読むという練習が必要である。
10・
 たとえば、一枚の漢字が描かれた看板の脇を通り過ぎる。この看板は平面ではない。三次元の空間の中に置かれている。あなたは、それに斜めから近付き、正面からちらりと眺めて、さらに通過していくのである。文字は斜めになって看板全体が、死角に入って見えなくなっていく。こうした看板は、作中に数えきれないほどに登場する。どこにあったか忘れてしまったが、たしか「SOUTH」が「SOUSE」に、「電脳」が「電悩」となっている誤字の看板まであった。それらはコンピュータの、人間とは異なる迅速な演算速度によって、二進法のデータから時々刻々と作り出されて、人間の目に見える画像という形で書き出されているものと考えられる。(おそらく機械の内部のどこかに、出来上がった画像データとして一時的に貯蔵しておく、中間の溜め池のような場所があるのだろう。そう考えないと迅速すぎる気もする。)
11・
 コンピュータ・ゲームに慣れた世代には、何を馬鹿なことを言っているのかと思われるかもしれない。けれども、四十八歳の男性としては、自分の初体験の意味を、このあたりも確認しながらでないと、落ち着いて先に進めないのである。もし女性の肉体を知らない男性に、性交という言葉の意味を正確に伝達しようとすれば、女性性器についての回りくどい説明が必要なのと同じことである。やれば分かるということも、ほぼ相似であるとしても。
12・
 それでは、人間像においてはどうだろうか。見立てを受けた登場人物たちの印象の鮮烈さは、どこから来るのだろうか。そこに反復は少ない。『クーロンズ・ゲート』の世界の原則が、双子に象徴される原理に則っているということは、はっきりしている。何度も同一のモチーフが繰り返される。人間の場合だけではなくて、世界の構造そのものが双子になっている。二重性の世界というように言いなおして見る。自分の言いたいことが、定まってくるように思える。
13・
 ここでの善と悪の生き方の分類の基準は、明瞭である。陰界という異界に放りこまれることで、陽界にあっては見ることができなかった人間の内なるものが、肉化されて明瞭に見えている。それが、この世界の特徴なのだ。迷宮といいながらも、分かりやすいことが、この世界の居心地の良さの原因である。人形浄瑠璃を連想させる、ぎくしゃくした人形ぶりの動きは、CGの限界のためもあるのだろうが、この世界が作り物という印象を強めて、適切な距離を取らせてくれる。現実の人間関係は、形さえ定かではない迷宮である。
14・
 善とは、他の人のために自分の人生を捧げる生き方である。悪とは、自分のために他の人の人生を利用するという生き方のことである。この両極の間に、時には利用したりされたりするという、路人たちの庶民の生活があるのだろう。
15・
 「なんとか屋」という職業名だけで、名前もない男たちの何人かが、プレイを終えた今になって、非常に懐かしい。彼らが、自分たちに刻々と迫ってくる、悪の力に対抗するという、主人公と共通の目標があるにせよ、時には無私になって、主人公であるぼくに協力する態度を示してくれる。鏡屋の嬉しそうな声音などが忘れられない。闇が暗ければ暗い程、光は輝きを増して見える道理である。男人街の門番に、あり金全部をだまし取られて頭に来たのも、楽しい思い出である。
16・
 中国の陰陽五行説に則って生み出された世界なのだから当然だとも言える。陰と陽という二重性が存在する。しかし、二重の世界というものが持つ意味を製作者達が、かなり徹底して追求していったということが、この作品の大きな魅力の源泉であるように思える。
17・
 クーロンズ・ゲートは、中国に実在した九龍城という陽の場所が、陰の世界にも実在するという設定で起こる奇怪な物語である。実際の九龍城は1993年には解体されてしまっているから、1997年の時点で現実世界には存在しない。この陽界というのも、ぼくたちの住む世界とは、すでに別の場所のことである。
18・
 そこでは聖と俗、光と闇がせめぎ合っている。人間性の崇高と汚辱が、ともに高温の状態で融合して存在する。錬金術師が夢想する、世界の坩堝のような場所である。
19・
 クローン達の物語であるという意味で、題名そのものがクローンとクーロンの(発音的には少し苦しいが)二重になっている。いや苦しくないのかもしれない。中国の「九龍」を、日本の文字で、出来るかぎり発音を性格に表記すれば「クワォルーン」であろうか。これとクーロンは発音の似た言葉ではない。しかし、クローンと日本語のクーロンならば似ている。
20・
 この作品から、今のぼくが興味を持って考えることができる、もっとも重要な問題のひとつは、そうとは語っていないが、現在の日本の文化とは何かということである。文化論という問題意識を持っている点ではないかと思う。
21・
 たとえば、中学、高校と六年間、英語の文法の詳しい教育を受けてきた日本人のほとんどは、英会話ができない。それに対して、フィリピンの人たちは、現地の訛りのある、文法的に不正確な英語であろうとも、それによる会話での意志の疎通が欧米人と可能である。ここには文法の構造が、膠着語である日本語や韓国語が、非膠着語である英語やフィリピン語と、まったく異なるという困難な状況が存在しているとしても。
22・
 もうひとつは、日本の文化は、第二次大戦後にアメリカ合衆国に占領されてから、過去五十年間にアメリカナイズされてしまったということである。文化的には、日本はアメリカ合衆国ジャパン州という状態にある。たとえば、日本の若者は、『クーロンズ・ゲート』という英語をカタカナ書きした言葉を、 「クーロンの門」と訳すことは比較的に容易であっても、『九龍風水傳』を 「くうろんふうすいでん」と正確に読める若者は、前者よりも少数だろう。特に「伝」の正字である「傳」を「でん」と読むことは、他のゲームなどで出会っていないかぎりは、難しいことである。教育漢字にもない。
23・
 これらの矛盾は、解決されていない。
24・
 しかし、まあ。先を急ぐまい。一歩一歩を丁寧に歩いていかないと、ゲームも批評も迷宮に迷い込んでしまうだろう。一足飛びに結論に飛び付く、SFのワープ航法のような展開は、論証には危険である。
25・
 ゲートとしての門とは何か。以下では、その意味の探求から入ってみたい。論考は、方向性の選択が難しいのだ。ぼくは、このゲームをクリアーした人にも、もう一度、楽しんでもらいたいという密かな意図を持って、この文章を書いている。つまり、宣伝という行為である。詳細な作品世界の紹介や、攻略本を再発売してもらいたいからだ。
26・
 それと、ゲームの全体の、興味深い構造の二重性を分析したいという、批評の欲求の板挟みになっている。
27・
 結局、両者の中間で、折り合いのつく場所を、発見できれば良いのだろうが……。
28・
 このゲームに特徴的なイヴェントのひとつに、途中で主人公が時間旅行をするということがある。1850年代の中国である。清の時代である。歴史を遡るということである。時間旅行は、陰陽師の技術によって可能になっている。
29・
 質屋の季弘も、自分なりの方法でそれを実行している。
「この時代の物なんかにゃあ興味もないんだ」
 SFファンには、いかにもうれしいセリフを語ってくれる。妄想の島の桟橋で語られる、1920年の上海という不安な時代を、ひとつの芸術作品のように鑑賞する彼の生き方は、人間の歴史を鳥のように俯瞰できる視点を持つ者にのみ可能な、贅沢極まる人生の選択肢である。
30・
 激しい戦いの勝負を決するのは、秦の始皇帝廟である兵馬俑に封印されていた、馬の霊魂達の正の力である。それをぶつけることで、毒念悪念の集合体の負の力と相殺して、零にしたのである。彼らは、中国の国土が危機に瀕している時に蘇り、その土地を守ったのである。主人公は、遥かな過去から、祖国の危急存亡に目覚めた力に、方向性を与えただけである。
31・
 このゲームは、中国史が高校の世界史のレベルでも頭に入っていると、それだけ感動が大きくなる。感動が焦点を結べるのだ。清が満州民族の国であり、それまでの漢民族の王朝とは、支配階級の民族が異なることを知っているだろうか。1850年には、清は1840年の第一次阿片戦争に負けて滅亡寸前の状態であった。またこの年には、「太平天国の乱」が起こった。その時代に生きようとする人々の意志に感動が深まるだろう。
32・
 1920年の上海という都市の状況について、何人の人が知っているだろうか。いや。それ以上に、ベトナム戦争について多少なりとも知識のある者は、若い世代でどれくらいいるのだろうか。その点は、少し不親切ではなかったかと思う。九龍という場所を生み出した中国と清朝の歴史について、このゲームをプレイする前に調べてみようという者がいるとは、ちょっと思えない。ゲームには、厚い豪華なパンフレットがついている。そこで中国史の梗概を一人の執筆者が担当して、もう少し丁寧に紹介しても良かったのではないか。
33・
 先程の、日本と、中国と、アメリカの文化の距離の遠近の問題と関係する。日本は文化的には地理的な距離とは反対に、中国に遠くアメリカに近い。アメリカから中国へ、若者の興味と関心を自主的に移行させるという意図が、もしかすると制作側には存在しているのかもしれない。が、このゲームひとつだけでは難しいことである。工夫が必要であったように思う。
34・
 何作もの、優れた長編のSF小説が書けるような壮大なアイデアが、惜し気もなく盛り込まれている。その質と量に驚嘆させられる。優れたSF作家の5年分の仕事が、この一作のゲームに凝縮されているかのようだ。
35・
 ウェイもゲーム・キッズも、この時代よりも未来の世界から、過去に時間の流れを遡ってきた存在なのだろう。彼らは、この時代の陰陽が不安定になっているのを察知して、それを正そうと未来からやってきた存在であるように思える。陰陽にも超能力にもクローンにも、おそらく、より優れた操作能力(テクノロジー)を持っている。この作品は、スケールが大きいのだ。サイバー・パンクやスチーム・パンクというSFのジャンルの作品として分類しても最良の達成だろう。
36・
 双子が原理である。この世界で、それでは主人公は誰の双子であるのかと、プレイの間、ずっと考えていた。最後に双子四天王が、お前は私の生まれ代わりのようだという。あの声も、四人の声が合わさったものである。あれ自体が集合したひとつの意識の言葉だと考えられる。主語は一人称の「私は」だった。だとすれば、それを言ったのは妖帝のはずである。つまり、主人公は、妖帝の双子であったということになる。時空を越えた輪廻転生の姿である。
37・
 このノートは、原則として、自分の記憶以外には何の資料にも当たらない。それが、ぼくの方法論なのだ。ネットでの情報の安易な検索が、思考の自発性を弱めているのではないかという、現代の状況への批判もある。拙くとも良いので、自分の頭で考えることの自由だけは、少なくとも確保しておきたいのだ。すでに六年前のゲームだから、ネット上だけでも多くの言説が存在していると思う。しかし、それらは、まったく読まないで書いている。もちろん書き上げた後で、読ませてもらうつもりでいる。夜郎自大は、避けたいから。
38・
 大学ノート2冊分に、迷宮の地図や、登場人物の会話から、将来の展開のヒントを得たことまでをびっしりと書いてある。裏表紙には、大きく「木・火・土・金・水」の相生と相克の関係を、五方線形の形で描いた図形がある。
39・
 迷宮の地図には、自分の現在位置をマーキングすることができる性能がある。たとえば、閉まっている扉に、灰色のマーキングをしておく。ゲームの後々の展開が容易になる方法も、徐々に自分で分かって来たことである。
40・
 ゲーム中の鬼から邪気をお祓いしてやるために、我が家の超高級風水師の意見が、たいへん参考になった。八歳の息子は、テレビゴミの言葉を忘れずに、協力してくれた。鬼の邪気の属性を、形で覚えてしまった。適切なアドヴァイスをしてくれたのである。ぼくは、魚の形をしたものが水の属性をしているなどの、いくつかの分かりやすい例外を除いては、とても記憶できなかった。
41・
 ゲーム中は、本物の町の通りを歩いても、シャッターが、閉まっている店の前で立ち止まることがあった。妙に目が止まった。「鍵が閉まっています。」「誰もいません。」と横文字で、前に出ているような気がした。それだけ、ゲームの世界に、どっぷりと「はまっていた」ということになるのだろう。
42・
 データの保存が出来る端末の場所は、目立つように青色にした。緑色の障気がたちこめるところにも鬼がいる。ここで気を使っておかないと、迷宮をさまよっている内に、気に取り憑かれてしまう。ぼくの場合は冷蔵庫にさせられた。「イ〜ア〜ルサン〜」と繰り返される、あの人を小馬鹿にするような音楽を何回も聞かされた。緑色のマーキングをしておくとよい。ただマークは13個しかない。扉が開いて不要になった灰色のマークは、その場所でこまめに回収しておかなければならないだろう。ぼくの、攻略のためのアドバイスである。
43・
 迷宮の地図も、自分で作成する必要があった。見かけには捉われずに、名前のついている点を、線でつなげていくだけでよかった。ゲームのシナリオということが見えてきた。何かの条件をクリアーしないと、先に進めないということである。
44・
 ベトナム語を話す写真家の青年グエングエンが、口に壊れた翻訳機をつけて、重要な役割を演じる。その思念の強さは、ベトナム戦争を経験してきた国の若者であるからなのだろう。九龍城にはベトナム戦争当時には、多数の難民が流入していたはずだ。そういう歴史感覚は、かつてその戦争の継続する時代を生きてきたぼくには、たぶん、現在の日本の若者たちの多くよりも、差し迫った重い現実感のある意味を持っている。それは2003年を生きる若者に、イラクという国名が持っているのと、質は違うかもしれないが根本的には同種である。戦争と平和という視点である。
45・
 この世界の迷宮が、ある一人の人間の体内の臓器の内部に建築された、建物の内部という、象徴的な悪夢のようなリアリティを持った世界であるということは、だんだんと分かってくることである。詩人天沢退二郎が、日本人が書いた、もっともすぐれたファンタジーのひとつである『光車よ、まわれ!』(筑摩書房)において使用したアイデアが、より大胆に徹底して活用されている。迷宮が五行説によって作られていることにも、西城路地下の「水」と妄人路の「木」に至って、ようやくにぼくは気付かされた。沙角で急に「金」が必要となったのは、そのためであったのか。人間も五行によって作られている。まことに奥の深い世界である。内臓の名前のついた古い建物の中を彷徨するのである。体内探険をしているのだ。
46・
 存在を続けるためには、自分が人間ではなくて品物であるという妄想を信じて継続しなければならないという、苛酷な運命を背負わされた妄人(ワンニン)。物になろうとしている人間達の、アイロニーに満ちた存在の様態が、この作品のオリジナリティの中核に存在するだろう。彼らのペーソスやユーモアも忘れられないものである。
47・
 女性の耳ですらなくて、そこに付けられていたピアスに、異常に強烈な愛情を示す男のフェティシズムにも、彼の主人公への親愛感にも、爆笑を誘う強力なものがある。それが、彼をこの世界で、致命的な邪気に侵害させられることから長い時間に渡って守ってくれたのである。いわゆる「オタク」の生き方のモデルになる人物像が何例もある。
48・
 ガタリからのメールは、有名な哲学者の名前を連想させるネーミングからも、ある大事なメッセージ性を帯びているのだろう。ゲームのクリアーに向けて加速している状況で、丁寧に読んでいる暇がなかったのは、残念である。後半部の、ゲームの世界崩壊の加速度には、凄いものがある。猛烈に加速するジェットコースターに乗ったままで、前方の線路が、溶岩の煮えたぎる火口に落下していくのを見ているようなものだろうか。悪夢のようだが、そこには何か言葉にできない、このゲームで初めて体験した種類の、破滅というものの持つ浄化作用があるのだ。前半のアクション主体の緩やかなゲームの展開と、好対照をなしている。ゲームの構造にも、陰と陽の二重性が仕組まれてあったのか。
49・
 コスマスには出会ったが、もうひとりの隠れキャラらしいダミアヌスには、残念ながら面会してもいない。このあたりがバッド・エンディングの理由だろうか。
50・
 陰陽師には、声優の青野武氏の生彩に溢れた名演技もあって、熱い生命の息吹が吹き込まれていた。好感を持った。その明るさは暗い世界での救いだった。時代を越えて同じ顔と性格で存在するこの人物は、倦怠に陥らない。ある種の不老不死という理想を実現した人物である。英雄豪傑のたぐいか。傑物だと思われる。
51・
 陰陽師、ウェイ、ゲームキッズ、質屋たち等々。この作品は。その時代と場所という限界状況に生きなければ、他に生きる場所はないという人間の群像を描きつつ、一方で歴史という限界を越える自由を獲得する。彼らは、いつも別の時代を愛さなければならないが、そこでは中国の歴史、アジアの歴史という広大な視野が獲得されているのだ。『クーロンズ・ゲート』が、ぼくに主人公に「感情移入」させてくれた原因のひとつが、製作者のアジアという視野を持った歴史意識の、広大さと鋭敏さにあるだろう。何のために、主人公の風水師が戦っているのかという目的が見えてくる。世界認識の共通性と言っても良いだろうか。アジアについて興味と関心を持っている人が中にいるのだと思う。
52・
 清の偉大な皇帝である道光帝は、人間としての生涯の最期の時にも、未来の民の幸福を心配していた。ベトナム人のグエングエンは、ベトナムの国のことだけを案じていたのではない。二人は中国の清の時代にも、ベトナムの歴史そのものにも、意識が限定されていなかった。スイジェンも、玄太と玄機もそうである。ぼくたちは、ただ現在に生きているということだけで、特権的な意識を持って、過去を断罪する。彼らは、それに対しての 「否定」を、存在そのものによって提出している。
53・
 玄機の最期の、すべてが徒労であったという諦観も、他の者が英雄的であるのと比較して、より人間的な感慨である。多くの若者が、共感できるだろう。ぼくも彼が、もっとも好きな登場人物の一人である。若い時代の、遊びは終わったのである。彼は、彼にならなければならない。彼が自分だと信じていた水面に映っていた妄想は、すべて他者の影である。問診屋という他者の病気に耳を傾ける職業の選択も、彼が自分自身の問題に直面する勇気がなかったことを示している。妄人になっても、満たされることはない。他の妄人を拷問することで、憂さを晴らそうとしていただけである。水という他にはない種類の妄人になったことが、彼の力の証明になっている。しかし、ついに自分は、自分でしかなかったのだ。長い闘争に疲れた若者は、運命を受け入れたのである。年画の玄機は二人いた。双子だったのだろうか。一人は邪気に捕らえられて時を越えて、桃児という妄人になっていたのかもしれない。この四神獣になる力を持った優れた血統は、妖帝に目を付けられていただろうから。もう一人の彼も、逃げなければ見立ての日はこなかったのだ。玄機を玄太と同じく医者に育て大井路に送ったのは命名札を信頼の証にとくれた健気な母だろう。玄機は、自分の長い長い回り道の生涯が、けして無駄ではなかったことを悟る。父の玄太や道光帝という偉大な精神と同じ選択をする。「色即是空」。「色」という、「即ち」さまざまな色相を帯びて、眼前に見えている存在の姿そのものが、 「是れ空なり」と玄機は悟ったのかもしれない。見立てるとは、人間が本然の自己に辿り着く、その場所、その時に、立ち合うことであるように思われる。千葉繁氏の深い疲労を滲ませた声の名演技が、最期の瞬間に血肉を与えた。千葉でなければ不可能な人物の造型である。演出者の力量とともに、高く評価しておきたい。言葉の表面的な意味だけではない。人間の肉声が、音として内蔵している膨大な情報量を、再認識させられた。このゲームは低俗なセンチメンタリズムで、プレイヤーを泣かそうとは全くしていない。それだけに深い感動を与えてくれる瞬間がある。
54・
 このようなゲームを継続するためには、動機付けの鮮烈さということが重要な条件になるだろう。なぜ戦うのかということである。指先のアクションによる快感に、頼ることができないRPGにおいては、特にそうである。つまり、悪の像をどう定めるかということである。どうしても、悪を倒さなければならないと信じさせることができなければ、失敗だと言えるだろう。『クーロンズ・ゲート』は、その意味でもかなり成功している。もちろん、単体としての評価である。他のゲームについては何も知らない。
55・
 妖帝の追求しているのは不老不死である。しかし、すべての人間のそれではない。自分自身のためだけである。そのためには、すべての他者を犠牲に捧げるのである。この世界の善は他人のための行為であり、悪は自分のための行為だから、これは最悪の行為ということになるだろう。不老不死は、死すべき運命の人間には、普遍的な願望だろう。それは、双子四天王のような直属の部下から、庶民に至るまで悪い病気のように伝染している。妖帝というのは、歴史に実在した支配者の悪を、濃縮したような存在である。代々の支配者は、その支配の永遠を願っていたのである。秦の始皇帝もその一人である。最終的に主人公を助けた意志の目的は、単なる善意ではない。主人公は、そうした暗黒の意志と戦うのである。
56・
 何のためか。ひとつが小黒というヒロインを守るためである。この主人公の感情は、プレイしている内に、共感できるように巧妙に作られている。リッチのためでもあるというようにだ。しかし、この役目は終幕において、悲劇的な結末を迎える。彼女のためにしてきたことのすべては、実はその人間としての人生に終止符を打たせるための、準備であったことが分かる。苦いアイロニーがある。なぜ小黒が、あれほどに焦り、自分の一歩先を走っていたのか。その理由が判明した時が別れの時である。見立てにかかることが分かっていて、生涯の最後の時間を無意識に全力疾走していったのである。少女の可憐な表情が忘れがたい。
57・
 この作品には、ゲームの物語の表面に、王冠に象嵌された宝石のように、無数の物語が埋め込まれて独自の光彩を放っている。玄機の物語がそうであるが、もう四例を挙げておこう。
58・
 軽いものから。妄想の島のヴァンドームの間にいる半身を失った伯爵には、さまざまな寓意を読み取ることができるだろう。ブラックユーモアの傑作である。ぼくは、租借地香港が99年ぶりに中国に変換されたことで、生まれた国を失ったイギリス人を連想していた。
59・           
 もっと重い例は、占い部屋のマダム馮(フェイ)の物語である。蘭暁梅(ラン・シャオメイ)が朱雀となる力を持ちながら、見立てを受ける定めにないと分かった。そのときに、心に空虚が生まれたのだろう。王兆銘(鏡屋の前世か?)は、狂気に逃げ込んだ。しかし、彼女は彼よりも強かったのだ。悪に付け込まれる隙が生じた。彼女こそが、後の媽妃(マー・フェイ)ではあるまいか。名前の字が似ているだけではない。彼女の部屋にいた占いをする文鳥と鳥かごは、コニー・楊の部屋にあったものだからである。あの小鳥は、主人公の目の前で息絶える。お前には、このような小さな命さえ救えないと、嘲けられたはずである。コニー・楊は彼女の腹心であったのだろう。しかし裏切ろうとした。媽妃の逆鱗に触れたのだ。ハンドバッグの妄人に、変身させられる。肌身離さずに持ち歩かれる。蘭暁梅のように、自分を捨てないためである。狂気ではあるが、強欲は強い愛情の裏返しだった。中国には、楊貴妃(ようきひ)という絶世の美人が、いたことも付け加えておこう。人間の汚辱と欲望のドラマが、高貴と無私の崇高な物語の反面に蠢いている。
60・
 美羅花園の『夜總会(ナイトクラブ)』にいる美安(ミーアン)は、ある女性が妄人になる時に、はがれ落ちた欲望の欠片だという。この女性とは、コニー楊のことではないだろうか。悪の半身が脱落したために、彼女は善として主人公を助けてくれたのではあるまいか。美安は、この世界に登場する存在の中でも、本当のおばけと呼んでよい存在である。ミスター・チェンは、美安に肉体を与えようとしていた。彼が、永遠の生命を求めることに執着した原因に、彼女の存在があったのだと想像すると、物語の陰影はさらに深まると思う。チェンは、ブルークロウという麻薬の力を借りることで、単に裁縫のトルソーでしかない美安と、妄想の世界で美男美女として逢瀬を重ねていたのだろう。その死んで腐った顔の皮膚を、なんとか張り合わせて保たせながら。哀れな男の物語が背後にある。チェンの海鮮中心での亀の殺害は、去勢を連想させる。彼は男としては、もう性交の役には立たない肉体の持ち主だっただろうから。
61・
 『妄想機』という名前の、ウルトラQのカネゴンのような、ユーモラスな外見のクーロネットの内部から、おそらくは生かされている死者の頭部が、出現したのにはまいった。どんな忌まわしいテクノロジーに頼って、ネットをしていたのかが分かったからである。ぼくがネットしているパソコンの内部も、まったくのブラックボックスである。機能も理論も分からない。機械というものの恐怖を、見事に表現している。本当にまいった。これが、双子四天王の一人を斥けるアイテムを選択する時の、伏線にもなっているのだろう。
62・
 この上海の妄想の島のエピソードは、物凄い速度と密度で、今までの世界を絵解きしていく。単なる答えではなくて解釈を迫っている。妄想的哲学的問題群のようなものである。馬蹄型磁石女の台詞は、まったく理解できなかったことを告白しておく。
63・
 『クーロンズゲート』の暗い閉塞された空間の物語が、ぼくたちを連れ出してくれるのは、妄想であっても広い解放感のある、海中の島の山頂のような場所である。中国やベトナムや日本(陰陽師は、中国の陰陽五行思想と欧米の科学文明を融合した、この世界での日本人の理想型であろう。)などのアジアの歴史という、人間の生み出した濃密な時間が展望されている。空間が、時間に向かって開がれている。空間の迷路が、歴史という時間の迷宮に変化したと言ってもよい。つまり、いかに暗い妄想であっても、ある価値があると肯定的に評価しているのが、この一見すると「ネクラ」な物語の根底にある奇妙な明るさの源泉なのである。だからこそ、ぼくたちは引き付けられるのだ。二十世紀末の日本の創造の中で、これほどの作品は、ゲームの世界だけに限らずに小説でもアニメでも、ほとんど存在しえなかった。蛇足だが、この作品をぼくはジャンルの垣根を取り払って傑作と評価する。作品の思いは、一語に要約されている。

64・
 『小さな摂理は、より大きな摂理につながっている』
 このゲームのテーマのひとつだろう。中国にもベトナムの歴史にも、ぼくたち日本人の生活は、表面的には関係がないようでありつつ、摂理という視点からすれば、相互に緊密な関係を持っているのである。それが、双子たちが持つはずの究極の力である鳴力(ミンリー)というものの正体であろう。共鳴する力のことである。ぼくたちの顔は、とても似ているのだ。もう一人の自分である双子や、友人や恋人がアジアの土地に生きていたら、どう生きるだろうかという素朴な視点のことである。妄想でもかまわない。「インターナショナル」な、「ヒューマニズム」という訳の分からない思想よりも、よほど信頼のおける視点である。それが鳴り響く時にアジア人のぼくたちは、アメリカの文化的な植民地の民であることの不合理に気が付いて、アジアの同胞にも興味と関心を抱いているだろう。それが『クーロンズ・ゲート』が、21世紀に向けて開いた新しい心の門の鍵であると見立てておく。
65・
 最後に、この汚れた異世界の与える懐かしさの理由を、表現の効果という点から分析しておきたい。現実に強烈な短期記憶が、なかなか消えない長期記憶となって脳の細胞の内部に定着するためには、感情の変化が必要であるという。あれと同じことが、この仮想空間にも、起こっているのではあるまいか。反復という学習効果がある。九龍フロントの路地を何度も彷徨し、龍城飯店に入っていく。そのたびに、カウンターにもたれたリッチの姿を安堵という感情とともに見る。馴染みの情景として、脳は記憶に定着させてしまう。それは、実は一枚の止まった絵だからではあるましか。動いていない。記憶がしやすい。 『クーロンズ・ゲート』は、電気で動く紙芝居なのだ。終わってみて、それもいくつかの風景が懐かしいという感情を生み出す、理由なのだろうと思う。コンピュータを使用したゲームという媒体の、ヴァーチャルなリアリティの力を身を持って体験したことになる。動きに動く3DのCGの進歩も結構であるが、それ以外にも、このメディアには人間の脳の構造からして、未だ探索されない表現の可能性が秘められているように思うのだ。電気紙芝居も捨てたものではない
66・
 ゲームの冒頭に、シンボルマークが登場する。三本の爪が、陰陽の玉を鷲掴みにしている。この手が玄武、朱雀、白虎、青龍の内で龍のものであることは、少し知識のあるものには検討がついてしまう。おそらく最後の敵が、青龍であろうという予測を、多くのゲームのプレーヤーに与えてしまったことだろう。ゲームの製作者たちの自信を、感じた点である。双子四天王の入っていた玉も、三本の爪によって支持されていた。この爪は、ゲームの最後のシーンにも登場していた。
67・
 ぼくの体験したエンディングでは、主人公の腕が三本爪の青龍のようになって、美少女蘭暁梅を背後から抱き締めて拉致しようとする。主人公が、プレイヤーから独立して肉体を見せて存在を始めた、唯一の場所である。青龍に変身したのは、妖帝の意志がまだ完全には滅んでいずに、主人公に憑依したせいであろうか。主人公は、腕を切り落として、少女の身をからくも守ったのである。続編の展開を期待させる。これが唯一のエンディングではないかもしれない。(繰り返すが、どうやらひとつらしい。)製作者としては、予告編のつもりであったように思う。作品世界そのものは、すでに完成している。蘭暁梅は予言されたように、死の眠りにつくことなく時を越えてきた、もう一人の小黒である。神獣朱雀になりえる資質を持った女性であった。小黒は守れなかったが、蘭暁梅は守る。新しい物語の始まる予感を持って、全編が閉じられる。文字通りに画龍点晴というべきか。これ以上の終わり方は、ちょっとぼくには考えられない。蘭と梅は暁に咲くだろう。「梅華世界起」。梅の華(花)が開くときに、世界が花開く。日本の道元禅師の有名な言葉を連想する。
68・
 最初に引用した、リッチのあの印象的な忠告の言葉の意義について述べておきたい。
「この町で起きたことは、絶対に自分の胸にしまっておくんだ」
 ノートは、彼のこの言葉に背反する行為をしてきたのだろうか。そうは思わない。彼は、この町で起こったことを、忘れないでくれと言っているのだ。ぼくはそう信じる。ゲーム中に考えたことを、胸にしまいこむために書き出してみた。最後の敵を倒すために、どのようなアイテムを選択するのかという点においても、この作品はパズルを解くような解釈を要求してきた。ヒントはあっても手強かった。男油が九本なければ無理だっただろう。そこで、明らかになったこともずいぶんある。中国の歴史という過去と、伝説の道教の神仙たちの諸力によって、倒すしかなかったということである。
69・
 このノートには、思い付きの部分も、あえてそのままに書いた。『クーロンズ・ゲート』について、全国の未知のファンの方々と感想を交換できれば嬉しいことである。感想に69個の番号を振ったのは、それを容易にするための方便でもある。何番からでもよい。ぼくも思いつくままに書いている。寺山修司の『天井桟敷』の見せ物小屋のような芝居を強く連想する世代である。寺山が現代に生きていれば、俳優の肉体という限界のない、アニメやゲームの制作にも携わっていたかもしれない。そんな夢想を楽しんでいる。自分の解釈が、唯一絶対のものだとは全く思っていない。古い世代のものだろうなと分かっているつもりだ。このゲーム自体が、多様性を持っている。それだけに、さまざまに異なる方向からの感想を、お聞かせ願えれば幸甚である。まもなく夏の早い朝があけようとしている。東の空が白んできた。


『クーロンズ・ゲート』−九龍風水傳−
SLPS 00669〜00672
ソニー・ミュージック・エンターテインメント
標準価格7800円
1997年
『クーロンズ・ゲート』ノート・・・懐かしき異世界の伝説 終わり
(2003・07・27)