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俳  句  集

歌  謡  集

俳諧と都々逸

煩     悩

・小説『常羽有情一、常陽の巻』 東洋書院 420頁 1900円

 佐竹義宣の生涯。義宣誕生から伊達政宗との決戦まで。

 膨大な資料、徹底した現地調査、限りないロマン、これぞ戦国武将の生きざま。


・小説『常羽有情二、山河の巻』 東洋書院 402頁 1900円

 佐竹義宣が豊臣政権下にさっそう登場。 名護屋から帰国まで。

 律儀を忘れた現代への鏑矢。佐竹の目を通した当時の日本史。
『常羽有情』一、二巻で秋田県芸術選奨受賞(平成四年二月)。


・小説『常羽有情三 繚乱の巻』 東洋書院 432頁 2000円

 豊臣秀吉没、義宣の石田三成救助、等々関ヶ原合戦の開幕まで。

 家康をして「天下一の律儀者」と感嘆せしめた佐竹義宣という男!


・小説『常羽有情四 落花の巻』 東洋書院 421頁 2000円

 関ヶ原合戦、義宣の苦悩、佐竹左遷、秋田統治、譜代と新参の確執。

 文学作品とはいえ、その実証性に心をうたれる。土居氏の文学の在り方を学ばねばならない。 歴史をやっている者にとってひじょうに参考になる。 実証主義だけでなくロマンを求めることは文学も歴史も同じである(国安寛)。


・小説『常羽有情五 羽陰の巻』 東洋書院 421頁 2000円

 父義重出府、大坂の陣、将軍上洛供奉、福島正則改易、和子入内。

 義宣の見事な幕府への忠勤ぶり、その驚くべき巧妙さはまさに天下絶品。 舌を巻く梅津政景の超能吏ぶり、現代に通じる宮仕えのノウハウ。


・小説『常羽有情六 残照の巻』 東洋書院 423頁 2000円

 本多正純改易、亀田藩成立、義継廃嫡、義宣の死。

 常陸の日の出、出羽の落日、臨終の義宣に去来するものは…。


・史伝『佐竹義宣 その時代』 秋田魁新報社 63頁 500円

 『常羽有情』の余話14章の構成。
 


・小説『宝暦の嵐−佐竹騒動−』 東洋書院 372頁 2000円

 佐竹20万石を揺るがした銀札事件と御家騒動の真相。

…この事件で斬首された那珂忠左衛門を軸に、豊富な秋田藩や佐竹家についての知識を生かし、事件とそれにかかわる人間模様を緻密に記述している。また、歌舞伎や邦楽、街並みなど当時の江戸の風俗・地理についても書き込んでいる。…(秋田魁新報)


・史伝『秋田騒動 その背景』 秋田魁新報社 64頁 500円

 『宝暦の嵐』出版後の覚書を十章にまとめたもの、その年表。


・史伝『佐竹史探訪』 秋田魁新報社 334頁 1800円

 秋田魁新報社朝刊に連載した佐竹氏の血脈、家臣団など7部構成。

 単に歴史をたどるだけではなく、大名・武家社会の盛衰などに関して独自の考察を加えており、その面でも興味深く読み進むことができる。…(秋田魁新報)


・小説『出羽の落日ー安東実季ー』 東洋書院 358頁 2000円

 波乱激動の時代を生きぬいた出羽の貴公子の果敢なる生涯を活写。

 …当時の旅費、船賃を米相場から換算して現代と比較するなど、著者の該博な歴史知識が随所に生かされており、こうした面からも興味深く読み進めることができる。(秋田魁新報)


・小説『蘭画大名−佐竹曙山−』 東洋書院 405頁 2000円

 主要登場人物:田沼意次、平賀源内、司馬江漢、小田野直武。

 彼の波乱に満ちた生涯を縦糸に、同時代を生きた多彩な人物を横糸に物語は編まれている。…著者の近世に関する豊富な知識が駆使され、事件や騒動の背景にあるものを解き明かしてくれる。(秋田魁新報)


・史伝『羽州久保田の原風景』 秋田魁新報社 63頁 500円

 佐竹氏入部のころの久保田町(秋田市)を知る小事典。


・小説『最後の藩主−佐竹義堯−』 東洋書院  442頁  2000円 

 佐竹800年の栄光としがらみ。養子義堯の苦悩と相馬一族。諒鏡院と佐竹三十六歌仙の新解釈。

 …本書では、佐竹家と相馬家の関係をはじめ佐竹八百年の哀歓をプロローグに、養子のため孤立していた義尭が次々と相馬家の人を佐竹家に取り込もうとしていた状況、義尭と諒鏡院の微妙な関係などを浮き彫りにする。史料を交え、長年佐竹氏研究に没頭している筆者ならではの解釈も披歴している。…(秋田魁新報)     


・小説『家ー佐竹盛衰』 東洋書院  437頁  2000円 

 著者究極の課題「家」を悠久の佐竹氏を素材に多岐にわたって解折を試みた会心の作。

 …重厚な歴史絵巻を展開。…一族や家臣の葛藤と団結、源氏の名門という誇り、歴代当主の人間的魅力、時の権力者への巧みな接近。…実に多くの人々を登場させながら、そうした迫真の局面を織り込んでいく。…(秋田魁新報)

「研究会で求め会員に配布勉強いたしております」(常陸太田市・大縄義行)。


・史伝『大河−悠久の佐竹氏』 東洋書院  461頁  2000円

平成14年4月29日発行・発売。

秋田市加賀谷書店ベストセラーズ第2位(5月27日)。

 歴史がもたらした数々の事柄をたどりながら、人々の有為転変の軌跡と悲喜こもごもの人間模様を活写する、著者会心の「佐竹史」珠玉集119話。 「佐竹という小さな針穴から日本史を覗き、歴史という過去の事柄から人の生き方を考えてみる」(著者)。

・「すばらしい内容で全県民に読んでほしいですね。こうした逸話の一齣一齣が大事です。楽しく大事な史実を記憶できる良書です」(井上隆明)。
・「短編小説を読んでいるようで楽しい。大野の撫で斬りなど、民衆の叫び声がきこえてくる様だ」(秋田善一)。
・「各項目とも魅力的で面白い。特に著者の探訪記はいちばん感銘を受けた。ものすごい説得力がある。読者を歴史の舞台に引きずり込んでしまう」(倉橋保夫)。
・「常陸紀行のなかで再び私共のことを取り上げていただいておりありがとうございました。あれから十四年の歳月が流れたわけで今昔の感一入でございます。小場の安藤さん、石塚の今瀬さんもすでに故人となりました。私も精々自重いたし世の変遷を今少し見て行きたいものと思っております」(茨城県那珂町戸村・和田政男)。

「四百七十年間の常陸支配、関ケ原の戦後の国替え、二百六十年余にわたる秋田での領国支配。歴史の波涛にもまれた佐竹氏とは一体、どんな存在だったのか。佐竹史のエッセンス百十九話を盛り込み、その答えを導き出そうとする。/単なる解説書ではない。佐竹史を『生きた歴史』として輪切りにし、オムニバス形式でまとめた。しかも百十九の史伝は時系列的ではなく、どこから読んでも完結するユニークな編集だ。/著者は、『常羽有情』全六巻をはじめ『宝暦の嵐』『蘭画大名』など数々の"佐竹作品"を著した歴史作家として知られる。豊富な取材と鋭い洞察力に裏打ちされた独特の視点が、歴史に新鮮な息遣いをもたらす。/例えば、小田野直武の死因は暗殺・毒殺でも自害でもなく『肝臓病』だったとし、『不衛生な江戸下町で流行性肝炎に罹患して肝硬変になり、しかも栄養を取らずに大量の酒を毎日のように飲んだため』と推論する。/幕末期の関西と秋田の経済力の差を示す話もある。十二代秋田藩主の佐竹義尭が元治元(一八六四)年に上京した際、京坂の商人十五人から七十一万五千両を調達したのに対し、久保田では六十四人から四千百五十二両。『京坂商人のO・五八%』にすぎなかった。/遊里がなかった久保田城下にも私娼はあったなどとする風俗に関した記述も。茨城や金沢、京都、佐賀などを取材で訪れた際の興味深いエピソードもちりばめている。/ジャンル別の索引もあり、興味のある個所だけ拾い読みするのも一興だろう。著者は平成四年の県芸術選奨受賞者。」(秋田魁新報2002年5月19日)


・『鬼園抄ー戯れ歌・エッセー・小論集ー』

秋田市文化章受章記念。

佐竹史探求を中心に取材メモの数々。 

松原印刷社出版部発行 四六判・460頁・2000円。

平成15年4月20日発売。

120ページにわたる短詩形によるメモ。「久保田城址の四季」「秋田の風土」「旅のつれづれ」「煩悩」
98項目に及ぶエッセー・小論。「そこはかとなく」

・「短編で綴られており大変読み易く、私のような門外漢でも楽しく読ませて頂き、少しづつページを進めております。」(佐竹敬久)
・「滋味溢れる内容祝着に存じます。愈々土居史観冴え渡る季節。」(井上隆明)
・「僭越ながら、新たな土居カラーが良く出ていると感じました。」(小国裕実)
・「幅の広さに感じ入るばかりです。」(倉橋保夫)
・゛著者は歴史作家。取材で抱いた思いを多彩な形式を用いて記録してきた。日記代わりともいえる断片をまとめて一冊とした。「鬼園」は戯号。/「久保田城址の四季」(句集)、「秋田の風土」(短詩形・歌謡)、「旅のつれづれ」(俳諧・都々逸)、「煩悩」(短詩形・歌謡)、「そこはかとなく」(エッセー・小論集)の五部構成。/近世をテーマとした著作が多いだけに、取材過程で浮かぶ言葉も同じ色彩を帯びることになる。/「驟雨来て 中土橋まで 駆け下る」「秋風や 孤高嘯く 隅櫓」「久保田城址の 乾の方に 平和観音 泉山 常陸太田の 乾の方は 佐竹守護神 金砂山」といった具合だ。/佐竹氏や秋田での治世に関する事柄になると、筆に弾みがつく。▽義宣が千利休と緊張の中で、茶席を共にしたこと▽秋田入部間もなく、家老・川井忠遠とその一派を人心一新のため殺害したこと▽義宣の正室・正洞院が自害に至ったいきさつ▽佐竹三十六歌仙絵巻がたどった数奇な運命ーなど、興味深い史実が登場する。/また、「佐竹義宣略年譜」では、元亀元(一五七0)年七月十六日の誕生から、寛永十(一六三三)年一月二十五日の江戸での死までを克明に記している。左遷に等しい常陸太田からの転封。慶長七(一六0二)年九月十七日の湊城到着からの領国経営に腐心する姿が浮き彫りとなる。゛(秋田魁新報2003年4月27日)
・「夜、手元に置いて少しずつ読んでいます。゛北荻貿易゛゛関ヶ原と奥羽大名゛゛安東氏の秋田進出゛゛岡本新内゛等、おもしろく、しかも歴史に暗い私にはためにもなりました。まるで土居さんの肉声を聞いているようで楽しんでいます。」(北条常久)

・史伝『扇紋飛翔ー佐竹夜話ー』松原印刷出版部発行 四六判・558頁・2000円。

平成16年7月13日発行・発売。

・「土居輝雄様。 先生、ありがとうございます。 『扇紋飛翔』おめでとうございます。 本日森下を通じて、いただきました。 毎年精力的に発行してますが、またいい内容の素敵な本になりましたね。 今回特に感激したのは、表紙のすばらしいこと。  参勤交代(江戸御登)が、美しく現れたことと、地色(地紋)は、本当にいい色で す。全体のトーンが調和がとれていますので、目が落ち着きますね。この色合いは、 本の表紙としては珍しいものではないでしょうか。五本骨軍扇は、くっきり見えなが らあくまでも地模様に収まっていて、いいバランスだと思います。  これ自体が、作品のような気がします。  読み終えても、本棚で日焼けさせない方法はないだろうかと考えます。  すみません。表紙に見とれているのが目的ではなかったのですが、佐竹のドラマが トランプの神経衰弱のように並べられていて、読み終わったら、立派な桐箱にしまわ れるような感じです。  ラジオスタジオでのお顔は、自然でいいですね。使っていただけてうれしいです。  ABS塩田睦子」
・「山河眩しい季節となりましたが、先生にはご健勝のこととお慶び申し上げます。  先日は貴重なご著書をお届けいただきありがとうございます。自分の一族のことについては、なかなか人に聞く訳にもいかず、先生のご著書などで頭に入れることが多いのが実情です。また建都四百年関係でもお世話になっており、あらためて御礼申し上げます。向暑の折、ご自愛を。 佐竹敬久 花押・印」
・「書名がすばらしい。この種の中で抜群である。『史実と推量』では歴史作家の態度がはっきりしていて読者の勉強になる。お百に関する小品は江戸情緒とキャラクターに興味をそそられもっと読みたい。『佐竹義処年譜』は小説に入る前の段階でかくも詳細に資料整理するものかと感心する。(倉橋保夫談)」
・前作「鬼園抄」も大変楽しませていただきました。泉が湧き出るように「佐竹さん」に関する話題が沢山沢山出てまいりますのには大変驚かされます。いかに沢山の資料をあたって豊富なデータをお持ちかが推しはかられます。また、最近のお作では、まるで先生がその時代、時代に現場におられて直接見聞されたのかと思いたくなるような登場人物の会話などがあり、ついつい引き込まれてしまいます。何と表現してよいか、適切な言葉をしらないのが残念なのですが、画家で言えば画境が澄んできたとか、一段と進んだといった表現がありますが、何か、そんな味わいが深まられたような感じがいたしまして、ついついその場に引き込まれて読んでしまうという楽しさを感じております。……群馬大学教授 佐々木義智
・慶長七(一六O二)年に常陸から入部した初代藩主・義宣から十二代藩主・義尭まで、藩政時代の秋田藩を治めた佐竹氏。その軌跡を、史話を中心に講演記録や戯れ歌などを交えながら、どこから読んでも楽しめる一話完結のスタイルでつづっている。  多彩な内容の中で、著者独自の考察を随所に盛り込んでいるのが目を引く。  全国各地に足を運び、数多くの資料に目を通した豊富な取材に裏打ちされているだけに説得力がある。 例えば、明治期の本県産米の収穫高などから、秋田藩では新田開発が進められた結果、幕末には約百四十万石の収穫があったと推測。藩政時代、藩別では全国一の米どころだったと主張する。  また、今年、建都四百年の節目を迎えた秋田市の原型である久保田城下の建設過程を明瞭に説明している。一面に湿地帯が広がっていたため、初めに沢や沼から流れ込む水を食い止める土手を築き、排水を兼ねた堀割を実施。旭川の掘り替えによって生じた土で各家臣の屋敷地を盛り土し、土手や道路も築いたとする。  このほか、藩の機構改革や秋田市御所野の開墾などを行っていながら、あまりスポットが当たることがなかった三代藩主・義処の生涯を年譜にして詳細に紹介。その業績を浮き彫りにした。大名の暮らしぶりの一端も知ることができる。  著者は歴史作家、秋田市在住。平成四年に県芸術選奨を受賞し、十四年には秋田市文化章を受章した。「常羽有情」全六巻、「秋田騒動 その背景」など、佐竹氏に関する著書多数。(平成16年11月28日秋田魁新報朝刊掲載)

●マンガ『青山くんの夏休みー秋田市400年物語』土居輝雄原作、倉田よしみ作画。 秋田魁新報社発行 A5判・200頁・680円。

平成16年12月18日発行・発売。

・今年は佐竹氏による建都四百年の節目の年。これまで記念イベント、壮大な国づくりをたどる出版など関連事業を展開してきましたが、締めくくりとも言うべき漫画「青山くんの夏休みー秋田市400年物語ー」を、12月中旬、出版します。秋田市建都400年記念事業実行委員会が企画し、歴史作家・土居輝雄さんが書き下ろした作品を基に、同市出身の漫画家・倉田よしみさんが作画、秋田市が監修しました。1年半にわたる取り組みが結実した同書は、小、中学生から大人まで、手にとって楽しめる出来栄えです。多くの方々に読んでほしい一冊です。  同書は、東京に住む小学校6年生の男の子(青山くん)が、秋田の親類宅を訪れ、現在の秋田市の原型を作った佐竹氏の歴史を学ぶ形で展開します。清和源氏の一族として名門の誉れ高い佐竹氏の国替え、初代秋田藩主佐竹義宣の秋田入り、久保田築城と城下(現秋田市)の都市計画に情熱を注ぐ藩主と家臣団の姿、藩経済の柱である米づくり(検地)の様子、飢饉を教訓として商人らの献金を基に作られた貧民救済機関「感恩講」の由来…など、内容は多岐にわたっています。  さらに、建都に当たり若手を積極的に登用したため、代々佐竹氏の要職を務めてきた重臣らと対立が生じ、暗殺事件が起きたり藩を去る藩士が出るといった影の部分にも触れ、興味深い章も盛り込んでいます。漫画ではありませんが歴代藩主の肖像画、街道や城下の絵巻、絵図、年表も収録しました。掲載資料は歴史的な価値も高く、大人の方々にも読んでいて楽しい一冊に仕上がっています。  体裁はA5判、202n。定価680円。お求めは県内各書店、さきがけ販売店、本社出版部(018・888・1859)および県内総支局で。

●『常羽有情』全六巻再版。ご要望に応えて限定出版しました。体裁:丸背特上製本、クロス貼り、背文字金箔押し、扉見返し・本文紙上質紙使用、セット箱入り。定価:12,000円。刊行:平成17年7月29日。発行所:東洋書院。購読希望者は〒010-0041 秋田市広面字二ツ屋61-1 土居輝雄(018-832-8708)へ。

●小説『旅に病んでー佐竹義処―』。松原印刷発行。平成20年7月5日発売。定価 2,000円。

 泰平の世、大名家内における父子・夫婦・兄弟・妻妾の確執や謀略や葛藤や怨恨が渦巻いていた。史実に忠実に日本正史を横目で見ながら当時の秋田や江戸の風景をも作者独自の手法で描写。週刊アキタ連載(700枚)。

 大変ご無沙汰しております。新作『旅に病んで』をいただき、ありがとうございます。私にまでお気使いいただき、大変恐縮しております。先生の『旅に病んで』は、時々、週刊アキタで読ませていただいていました。正直、一般の歴史書での取り扱いは、義処は非常に小さく、エピソード的にも語られる.ことが少ないかと思います。そのなかで先生の新たな義処像は非常に新鮮さを感じています。先生はこれまでの著作でも、義敦(芸術家 政治家としての力量は疑問)+義和(名君)という形での従来の、いわばありきたりの人物評価を義敦(芸術家であり優れた改革のパイオニア)+義和という全く新しい視点で書き換えられました時と同様の驚きを感じています。実際、江戸時代とひとくくりにしましても、その時代ごとの様相は大きく異なるはずで、時代の変換点は数多くあろうかと思いますが、その中でも戦国のルール・気質、いわば君主の独断が大きな影響力を持っていたが家康の時代から合議制、法治国家?として国家制度が整えられていった家光〜綱吉の時代、さらには新井白石に象徴される朱子学的政治理念が主流となり、田沼意次などの商業主義との対立が顕在化.した時代は、幕末とまではいかなくても大きな時代の転機ではないかと思います。義処は前者の時代の転機、義敦は後者の時代に主体性を持って藩経営に臨んだ名君ではなかったか…というのが先生の著書をよんでだ後の私のイメージです。歴史上の人物の評価とは、非常に難しいですが、いちばん良くないのは固定観念で、あの人は名君、あの人は暗愚というイメージが先行することではないでしょうか。先生の著書を読ませていただくと、まさにそのことが実感させられます。高校生の頃、山本周五郎の『樅の木は残った』を読んで、それまでの逆臣・原田甲斐のイメージが一変した(もっとも本当に原田甲斐が小説のようなイメージなのかは疑問ですが)時の懐かしさを思い出しました。『旅に病んで』、じっくりと読ませていただきます。本当にありがとうこざいました。(納谷信広)

 前略 先生には、お元気で過ごしのとと存じます。この度は貴重なご著書をお送りいただきありがとうございました。先生のご著書で先祖を知るたびに一族の名に恥じぬ市政をと心を新たにいたしております。心配事はご本家の跡目がおらぬことで、何とか宗家の形だけは残したいものと思っております。少し落ち着いてから、それこそ先生にお知恵をお借りしたいと思います。まずは御礼申し上げます。(佐竹敬久)

 

 藩政時代、二百六十年余りにわたって秋田藩を統治した佐竹氏。これまで初代義宣、秋田蘭画の祖である八代藩主義敦、名君の誉れ高い九代藩主義和らの陰に隠れがちだった三代藩主義処に光を当て、歴代藩主で最も長い六十七歳まで生きた生涯を史実に推察を交えて丹念に描いた。義処は寛永十四(1637)年、二代藩主義隆の正室の子として生まれた。当時は群雄割拠戦国時代、そして大坂の陣の混乱も収まった太平の世。しかし、その裏側では二十万石余りに上る北東北の雄藩を治める主の座をめぐり、肉親の間で確執、謀略、怨念が渦巻いていた。その真っただ中にいる義処も、自らの子を後継ぎにしようと腐心。長男は亡くしたものの三男を大事に育て思惑通りに事は運んでいたが、江戸から領国に向かう道中で体に異変が生じて倒れ…。資料調査、現地視察など緻密な取材を縦軸に、そこから導かれる推察を織り交ぜた展開の巧みさは佐竹氏に関する歴史小説などを数多く著してきた著者の面目躍如たるところ。細かな心理描写も読む者を引きつける要素になっている。佐竹氏にまつわる豊富なエピソードが盛り込まれているのも魅力の一つ.。かつて江戸に設けた上・中・下屋敷などの位置が現代ではどこに当たるかといったことも紹介しており、探訪の際のガイドブックにもなりそうだ。元教師の著者は1928(昭和三)年生まれ、秋田市住。92(平成四)年、県芸術選奨受賞。本書は二年間にわたり週刊紙に掲載された連載を一冊にまとめた。(2008年7月20日、秋田魁新報朝刊所載)

 

 お世話になっております。過日は弊社までご足労いただいた上、新著をプレゼントしていただき大変ありがとうございました。書評というにはおこがましいのですが、過日の紙面に新著の紹介記事を掲載させていただきました。至らぬ所が多々あるとは思いますが、ご容赦いただければと存じます。500ページに及ぶボリュームある内容でしたが、ページをめくるにつれて本の世界に引き込まれ、一気に読んでしまいました。自作の準備も進めていらっしゃるとのことでしたので、刊行を楽しみにしております。また何かありましたら、お気軽にご連絡ください。それでは、また。(秋田魁新報社文化部 下村直也)

 

        土居日記.『鬼園日乗』平成22年8月1日。松原印刷発行。非売品。あとがき「元来、ものぐさなので日記など書いたためしはなかったが、パソコンを購入した時、原稿執筆練習と備忘録を兼ねて記してみることにした。平成12年12月11日である。しかし、妻の介護で疲れ果て平成19年12月26日をもってやめてしまった。/その後.、日記のことは全く忘れていたが、先日、数年前のあることを調べようとその糸口が見つからずあきらめていたところ、そのころ記した日記が思い出され大いに助かった。備忘録として役立ったのである。/このついでにその周辺を読んでみると、かなり忘れていたことがリアルタイムで記されている。しかも筆者個人だけでなく皆様にも何か役立つことがあるかもしれないと思った。/それに、折角の記録が諸所散逸していることが分かった。/これは今のうちにまとめておかないと消滅するかもしれないと思い、数年の短期間のものだが題して『鬼園日乗』、一書を親しい皆様に謹呈する次第である。」

        史伝『佐竹史余滴』平成23年6月1日。松原印刷発行。四六判上製本524ページ。2000円。

        史論 鬼園叢書(コンパクトシリーズ)T『曙山と直武』平成23年10月1日。松原印刷発行。A5版87ページ。500円。

        史跡探訪 鬼園叢書(コンパクトシリーズ)U『佐竹城下を歩く』平成24年4月1日。松原印刷発行。A5版100ページ。500円。

        史話 鬼園叢書(コンパクトシリーズ)V『羽陰古譚』平成24年11月1日。松原印刷発行。A5版90ページ。500円。

        史話 鬼園叢書(コンパクトシリーズ)W『佐竹史ミステリー』平成25年5月1日。松原印刷発行。A5版102ページ。500円。

 

 

土居輝雄の受賞歴

昭和41年7月12日 第15回読売教育賞秋田県代表(長澤昭治・秋田市立旭北小学校教諭)

昭和42年8月5日 第7回実践国語賞(長澤昭治・秋田市立旭北小学校教諭)

平成4年2月14日 秋田県芸術選奨(土居輝雄・歴史作家)

平成14年11月3日 秋田市文化賞(土居輝雄・歴史作家)


 

近況(平成25年)

      秋田カルチャースクール講師「佐竹史探訪」キャッスルホテル3階、毎月第ニ・第四月曜10:15〜12:15。6/1現在 受講生46名。

      佐竹史探訪の会(事務局長 佐藤紘一郎)主宰。 本年の主たる予定 11/12〜11/14 京都。

      佐竹城下を歩く会主宰 毎月第三土曜10時〜12時、現地集合。

      鬼園会(幹事 鈴木禮子・佐藤立子)顧問。毎月第三水曜 夏季県内探訪、冬季講座。

      4月20日(土)佐竹城下を歩く会4月例会。テーマ「内堀巡り」。10時、明徳館図書館前集合。56名参加。

      5月1日 久保田城址歴史案内ボランテイアの会顧問(創立以来)。

      5月1日『佐竹史ミステリー』(鬼園叢書)出版。500円。松原印刷発行。

      5月17日(土)秋田市生涯学高齢者学級鈴杖大学講座「佐竹義宣の関ヶ原と秋田入部」。西部市民サービスセンター10時。

      5月18日(土)佐竹城下を歩く会5月例会。テーマ「手形社寺巡り」。10時、秋田大学正門前集合。晴天59名。

      6月5日(水)、12日(水) 佐竹史料館学習講座「佐竹義宣 秋田新時代」。13時30分、ジョイナス。一般公開。

      6月13日(木) 本荘高校同窓木曜会講話「酒田街道」。11時30分、アルパートホテル。

      6月15日(土)佐竹城下を歩く会6月例会。テーマ「八橋社寺巡り」。10時、八橋・八幡日吉神社前集合。雨天32名参加。

      7月20日(土)佐竹城下を歩く会7月例会。テーマ「北の丸散策」。10時、二の丸・弥高神社前集合。快晴56名参加。

      7月24日(水)秋田の史跡を学ぶ会講演「佐竹の石高」。10時、東部公民館。一般公開。約80名出席。

      8月1日(木)北都駅前会講演「佐竹義宣の関ヶ原」。17時50分、ビュー・ホテル。

      9月21日(土)佐竹城下を歩く会9月例会。テーマ「油田街道―藩政時代の羽州街道散策―」。10時、寺内地域センター前集合。朝方雨にもかかわらず63名参加。

      9月22日(日)秋田パディオ協同組合主催「まちなか神社巡りウォ−キング」講師。9時、通町橋集合。募集人員50名。

      10月11日(金)中通小学校3年生野外学習「学区内の歴史」。10時半。

      10月18日(金)中通小学校3年生授業「学区内の歴史」。10時半。

      10月19日(土)佐竹城下を歩く会10月例会。テーマ「根小屋町巡り」。10時、広小路中土橋集合。晴天50名参加。

      10月26日(土)エイジフレンドリーあきた市民の会「神社巡り」講座と案内。10時、現地・ねぶり流し館。

      11月16日(土)佐竹城下を歩く会11月例会。テーマ「保戸野社寺巡り」。10時、通町橋たもと集合。晴天54名参加。

      12月8日(日)御野場新町二丁目町内会講演・懇親会「御野場の歴史」。11時、御野場新町二丁目会館。

      12月11日(水) 久保田城址歴史案内ボランティアの会講演「安東氏の秋田進出」。13時30分、ジョイナス。

(平成26年)

佐竹史探訪の会主宰。会員研修、5月28日 横手・増田探訪、11月4日〜6日 大阪探訪。

佐竹城下を歩く会主宰。一般自由参加、毎月第三土曜日10時〜12時。秋田市内散策。

秋田カルチャースクール講師「佐竹史探訪」。月2回(第2・第4月曜10時〜12時)、キャッスルホテル3階。現在46名。

4月24日(木) 秋田コンベンション新人研修講座講師。10時「佐竹氏沿革」、13時30分「久保田城概要」。ジョイナス。

5月8日(木)本荘高校同窓木曜会講師「佐竹江戸屋敷の変遷」。11時半。アルバートホテル。

5月21日(水) 佐竹史料館講演会講師「佐竹三十六歌仙絵巻の流転」。13時30分。中央図書館明徳館。定員50名。

5月30日(水) 赤れんが郷土館ボランティアの会講演会講師「外町について」。10時。赤れんが郷土館。

6月4日(水) 佐竹史料館学習講座講師「佐竹義宣 秋田新時代@」。13時30分。中央図書館明徳館。定員30名。

6月11日(水)佐竹史料館学習講座講師「佐竹義宣 秋田新時代A」。13時30分。中央図書館明徳館。

7月10日(木) 寿大学講座講師。13時「秋田市の古道」。八橋老人憩いの家。100名余の盛会。

7月23日(水) 秋田の史跡を学ぶ会一般公開講演会講師「安東氏の秋田進出と実季の関ヶ原」。10時。東部公民館。70名余。

10月19日(日)ノースアジア大学シティーカレッジ講演「佐竹義宣の関ヶ原と秋田入部」。10時〜11時30分。大学大会議室。200名を超える盛会。

12月1日(月)中通小学校4年生野外学習講師「根小屋砦を歩く」午前。

12月9日(火)中通小学校4年生授業「佐竹時代の中通学区」9時半。

12月10日(水) 久保田城址歴史案内ボランティアの会講演「東家史略」。13時30分。ジョイナス2階。

      4月.19日(土) 佐竹城下を歩く会4月例会。テーマ「南通り今昔」。10時。五丁目橋集合。快晴、85名参加。

      5月17日(土) 佐竹城下を歩く会5月例会。テーマ「富士山散策」。10時。明田郵便局前場集合。雨天にもかかわらず40名参加。

      6月21日(土) 佐竹城下を歩く会6月例会。テーマ「亀の町巡り」。10時。大町5丁目橋集合。炎天下40名参加。

      7月19日(土) 佐竹城下を歩く会7月例会。テーマ「」内堀巡り」。10時。明徳館図書館前集合。40名参加。

      9月20日(土) 佐竹城下を歩く会9月例会。テーマ「手形社寺巡り」。10時、秋田大学正門前集合。40名参加。

「鬼園小研究」

 

T 伊勢堂考―.五庵山探訪に因んでー   土居 輝雄

 

  五庵山:天徳寺境内にある庵・末寺・末社の伊勢堂、永源院、熊野社、泉福院、宜祥寺を差すが、他に清昌院・泉照院・十王堂・大日堂・遍照院等、子院(塔中)・寺内社があったが現在は跡形もなく探す便とてない。「五」は一種の語呂合わせで元来は「御」であろう。また、仏教の五戒も考えられる。だから数の五に限ることはない。 

 なお、神社の中の末社を境内社、寺を神宮寺という。因みに、秋田市寺内にある古四王神社(古四王社)は四天王寺の境内にある寺内社であるから、四天王寺が主で古四王神社は従の関係であった。つまり古四王神社は四天王寺の別当役である。

 

伊 勢 堂」とは

 楢山天徳寺が焼けた寛永元(1624)の翌年正月二十一日、義宣は江戸参勤出発に際し、梅津兄弟に「新天徳寺は泉山麓に再建したい。そのほうたちもよくよく見分して後、そこに定めよ。」と言い残して発った。兄の憲忠は三月廿一日に新天徳寺屋敷の地を見に行ったが義宣の言ったとおりだと思った。弟の政景日記にも「屋形様仰せ置かれ如く候。草生津御伊勢堂立ち候所より外これなく候。その段天徳寺御使僧衆へも申し渡し候」と書かれている。つまり、現在の天徳寺本堂辺りにお伊勢堂がすでにあったのである。

 

T 語 源

 @ 五十瀬「いせ」。「五十」は「多い」という意。

 A 飯稲「いせ」、または 五十稲「いせ」。  *早稲「わせ」

  B アイヌ語「いせ」(イ=音、セ=発する。音の発するところ)。アイヌ語ではなく 「古代東北方言」と言いたい。

 

U ま と め

  つまり、「水が多く米作の豊かな所」

  由来が「八幡」と酷似しているが、それよりかなり前の時代(原始宗教の時代)。

   故に、「八幡」同様、日本各地にこの名があったと思われる。

 「伊勢堂」の名は秋田県にも数多く残っている(秋田市、山本郡、仙北郡、平鹿郡、北秋田郡)。

 

V 参 考

 「伊勢湾に流れる諸河川によって形成された伊勢平野は、『伊勢米』として知られる良 質の米を産し、…」(『日本百科大事典』より)

 

U当高算出公式について

               土居 輝雄

 

1/2籾高×免×10/6=当高 *1/2籾高は実高。10/6は説明不足、一般人には理解困難。なお、当高×6/10(六ツ成)=年貢高

 

例えば、100石の実高で免6割の場合

 100×6/10×10/6=100石…(当高) それにしても10/6の意味が分からない。説明

                                      が不足なのである。

@そこで、土居式の考察

 藩の基本として六つ成は厳守したい。そこで、何かに6/10を乗ずれば年貢になることを考える。この何かが当高。だから、当高は年貢高が決まった後につくられた架空の石高。この当高を算出するには下の公式が考えられる。

 

 X(当高)×6/10(六ツ成)=60(年貢高)

             X=60×10/6  10/6は6/10が移項されたものであった。

                             =100石…(当高)

A又は次のことも考察

 実高:当高=免:六ツ成

   100:X=6/10:6/10

       6/10X=100×6/10

           X=100×6/10×10/6

             =100石…(当高)

 

当高とは要するに、藩の平均年貢率を六割にするために考案された擬似高

 

*実高は当高の2.4倍の算出法.について 

  X×1/4×10/6=当高…1/4とは一公三民之法の導入。Xは実高。

        X=当高×4/1×6/10

        X=当高×12/5

        X=当高×2.4 

         つまり、実高は当高の2.4倍である。

         この方式は1枚ごとの田でなく藩全体の実高を調べる場合に適用(藩全体の実高がなく幕府への報告は内高つまり当高だから)。

                       「一公三民之法」は善政の象徴的な税法。詳しくは別稿。

V 貨幣・米価・物価換算法(江戸時代)

                         土居 輝雄

1 貨幣換算の公式

 

      貨幣÷貨幣交換相場×現1両換算額(10万円)

 

2 米価換算の公式

 

      1石米価相場÷貨幣交換相場×現1石米価(10万円)

 

3 物価換算の公式

 

      物価相場÷貨幣交換相場×現1両換算額(10万円)

 

@ 1石=1両(江戸時代)

 

A 貨幣公定交換相場

    慶長9年 1両=1000文(明銭)、4000文(和銭)

       慶長14年 1両=50匁=4000文   1匁=80文

    元禄13年 1両=60匁=4000文    1匁=66文    

       天保13年 1両=60匁=6500文    1匁=108文

 

B 貨幣換算単価

    17世紀 1両=10万円、1匁=2000円、1文=25円

    18世紀 1両=10万円、1匁=1700円、1文=20円

    19世紀 1両=10万円、1匁=1700円、1文=17円

     〃       〃       〃                1文=15円(1840年以降)

                       

C 枚と両

    金1枚=金10両、銀1枚=銀10両=金1両

 

 D 1両

     金 4匁4分、 銀 4匁3分

 

E    一両の重さ 3.75×4.4×1000=16500g=16.5 kg(純金)                     

 13.2kg(18金)

 

*C〜Eから純金の現相場からの換算法

    現・金相場(1g)×3.75×4.4=純金1両の価格

    平成26年6月4日の金相場は1g=4500円

     ∴ 4500×3.75×4.4=74250円(1両換算)

    つまり、江戸時代の物価(1両単位)×74250円が現換算額となる。

     なお、匁・文単位の場合はその時代の公定比価を当てはめればよい。

      例えば、元禄13年

     物価50匁の場合、1両が60匁だから

     50/60×現・金相場×3.75×4.4

     物価3000文の場合、1両が4000文だから

     3000/4000×現・金相場×3.75×4.4 

        以上のような公式になる。

 

  F 匁(文目)= 文 = 銭  = 3.75g

 

  G 足袋・靴の大きさの単位  1文=2.4糎(寛永通宝直径の長さ)

 

 H 貫高と石高の関係(戦国時代)

  ア、全国的な基準の年貢高

    1段=500文、1貫=1,000文 、つまり1貫=2段

  イ、標準収穫量(畿内中田の場合)

    1段=1石3斗、1貫=2石6斗、常州はやや下げて1貫=2石5斗

  ウ、貫高の石高換算(佐竹氏の場合)

    天正18年8月1日の朱印状 216,758貫

    文禄4年6月19日の朱印状 545,800石

 

   216,758貫×2石5斗=541,895石 天正18年と文禄4年ほぼ符合     ※豊臣政権(石田三成)がいかに指出帳に基づいて算出したとしてもその指定と計   算は確かであった。なお文禄4年の石高に佐竹の加増はない。検地に基づく石高算定である。

 

 I 太閤相場

   天正16(1588)年、豊臣秀吉は賞賜・贈答用に大判を製造した。金44匁で10両である。これにならって銀1枚という呼び方がある。銀10両のことである。   銀は伝統的に1両が4.3匁だったから、銀10両は銀43匁である。これは金1両相当とされていた。つまり、銀43匁が金1両の交換レートだったのである。

   それを秀吉は大判製造を機に金1両を銀50匁のレートにした。そもそも相場とは経済の成り行きである。それを秀吉は人為的に定めた。

      銀安・金高である。銀建て経済の上方つまり秀吉自身も、これによって輸出産業の利益が増大した。それとは逆に地方からの輸入は権力と資本力で安く買いたたいた。

   この辺の事情は文禄3、4(1594、95)年における出羽国安東氏の木材輸送に関する会計記録からも容易に推測できる。

      秀吉が金1両を銀43匁から50匁にした太閤相場とでもいうべき銀安レートは、秀吉没後も大坂商人に受け継がれ、元禄13(1700)年には幕府公定相場が金1  両が銀60匁になった。

      それ以後は、金銀の公定相場は変わらなかったが、こんどは庶民の通貨である銭が物価高から安くなり、幕末に向かって加速していく。

   秀吉が大判を製造し太閤相場をつくった天正16年は、もしかしたら近世上方の銀建て経済発祥の年だったかもしれない。

   なお、秋田は古くから上方経済圏に入り銀建てであった。それは日本海の海上交通に因るものであるが、その点、同じ東北でも出羽は陸奥より中央に近く情報も速    かった。

 J「奥の細道」芭蕉の経費

  aの計算方法 一日400文の150日は400×150=60000文

        当時の1文は25円だから25×60000=1500000円

        150万円ほどだったと思われる。

  bの計算方法 400×150÷4000=15両 15×10万=150万円

W 梅津家の菩提寺

                                  土居 輝雄

 梅津家は元来、浄土宗である。

 元和三(1617)年十月二十六日、憲忠・政景兄弟の父道金が「今八ツ時相はてられ候。同七ツ時、誓願寺へ半右衛門を始、一類共無残供致参り候。」(梅津政景日記)にあるように菩提寺を浄土宗誓願寺(現・秋田市旭南1丁目5ー28)に決めていることが分かる。誓願寺は慶長十(1605)年の建立、開山である。

 秋田初代藩主・佐竹義宣の生母は伊達晴宗の女(宝樹院)で阿弥陀信仰篤く元和六(1620)年に窪田城内本丸に阿弥陀堂を建立した。その別当職を浄土宗の誓願寺が務めたのは宝樹院の実家と関係があるからである。彼女の実家を思う気持ちは人並みではなかったのである。もっとも、彼女は秋田に一度も来ていない。また、道金以前の梅津家は伊達氏の家臣であった。

 因みに、この阿弥陀堂は後世、明治八(1875)年に誓願寺に納められ、本尊の阿弥陀坐像も現存する。

 なお、堂の長押に飾られている三十六歌仙絵は甚だ興味・感心が持たれるものである。何しろ十代藩主義厚が和歌を書き、刀番の根田某が絵を描いたというのである。おそらく、佐竹家に伝わる三十六歌仙絵巻を写したものであろう。佐竹本三十六歌仙絵巻研究にとっては必見に価するものである。この寺は一宗の触れ頭として秋田藩内の浄土宗寺院を支配することとなる。

 以上の幾つかの理由から梅津氏が誓願寺に接近し菩提寺にすることは納得がいく。

 同月二十七日「今八ツ時、道金さうれい仕候。」(同)

 同月二十八日「中隠に候とて、諸寺家・諸山、焼香として、御出被成候。各御奉公之衆御届、或は夜詰、或は寺に夜昼共に住する衆も御座候。是以、上様御重恩不浅仕合に候。」(同)

 霜月一日「今朝卯刻に中隠払致候て、寺より罷帰り候。」(同)

 この中で「寺」とは誓願寺のことである。当時、憲忠は現・仁井田地区の新田開発をしていたのでこの地区五か村の住民は領民みたいなものであった。彼は亡父の位牌をこの地に安置慰霊するとともに事業成功を祈るべく草庵を結んだ。本寺は誓願寺でこの庵は子院である。

 この跡地は「昭和初期の仁井田村中丁佐藤作右衛門家宅地」(昭和九年刊『河辺大観』)である。

 寛永七(1630)年七月十七日「十一日申刻日付にて信太大学飛脚卯刻参着。半右衛門相果候よし被申越候。同源左衛門殿よりの飛脚参着。兵部少私所へ書状有、半右衛門傷寒にて六日晩より煩、十一日未刻相果候よし、兵部少を以致披露候。不及是非不敏之由被仰出。」(同。政景、義宣に従い江戸に在り)

 同年八月三日「外記所より書状有、半右衛門葬送、?信寺(曹洞宗、義重菩提寺、天徳寺傘下)にて天徳寺御引導、去月十五日、窪田衆は不及申、諸在郷取立迄御出之由、屋形様御重恩有難仕合に御座候。」(同)

 この手厚い佐竹一門待遇は義宣の指示命令によるものであった。一族の感激は一入であったろう。これによって息子忠国は義宣の温情に応えるべく我が宗派は曹洞宗と決めたのである。

 忠国は父憲忠の一周忌を期して知行地の桜村に萬雄寺を開創した。かの仁井田五か村の村人たちはこぞって萬雄寺の檀家になったのである。

 明治になって梅津家の寺領もなくなり、仁井田地区の檀徒も遠距離不便の理由から要望により桜村から現在地(秋田市楢山金照町1ー31)に移転した。

 誓願寺門前町はもともと南接する室町を含めた町でなかったろうか。藩政時代の町名はない。室町は道路の東西とも梅津氏の下屋敷であった。その町名は誓願寺門前町であったろう。少なくともそう呼ばれていたに違いない。

 梅津氏の武家町を憚ることなくそう呼んでよかったものかと思うだろうが、元菩提寺であれば下屋敷はいわば菩提寺を守る屋敷と言ってよい。梅津氏はこの通りを「誓願寺門前町」と称されたことをむしろ喜んだに違いない。

 なお、室町とは明治二(1869)年に秋田藩御用商人の那波氏が梅津氏武家屋敷を譲り受けた時に先祖所縁の京都・室町の地名から命名した町名である。

参考までに仁井田村の社寺について蛇足ながら敢えて記す。

 庵主寺 現在の東光寺境内の南隅に大野撫で斬りの犠牲者の位牌を安置した寺。今も東光寺付近を庵主町と称されている。

 東光寺 明治19年、川尻村上野から移転。

 神明社 寛永2年、梅津憲忠が羽前・湯殿山を勧請して村開拓の祈願所とした。また 同年、村の鎮守として大日堂を建立した。これが明治になって神明社と改められる。仁井田村堂回にある。 

 八幡社 昭和8年、仁井田村大野道下に本殿新築。

 誓願寺跡地 昭和初期の仁井田村中丁佐藤作衛門宅地に梅津家の菩提寺・誓願寺があったという。寛永8年に梅津氏が河辺郡桜村に菩提寺を建立し満雄寺と号し仁井田にあった誓願寺は窪田に移転。しかし仁井田誓願寺は窪田誓願寺の末寺であったと思われる。

X 東家史略   土居輝雄

 

一、 中世東家

 初代は佐竹十五代義治の五男政義である。本家十六代義舜の同母弟である。文明十六(1484)年生まれで、初め、僧となって周悦と号した。後、還俗して南酒出氏を賜り左近太夫将監と称す。太田城東に住したので東殿と呼ばれた。天文三(1534)年、五十一歳で没している。

 子の義堅、孫の義喬と二代・三代を酒出氏を継ぐが、義喬は二十六歳で死に、嗣子がなく、弟の酒出義久が後を継ぐことになる。このころは酒出と東を併用していたものと思われる。つまり酒出は本姓で東は通称としてである。『佐竹家譜』では元亀三(1572)年閏正月十日に酒出義久が清書を船尾昭直に寄せている。同書で東義久の初出は天正十七(1589)年十一月六日であるから、酒出から東(佐竹)を本姓にしたのはこの十七年の間であろう。おそらく天正一桁と思う。一方、酒出氏は義久の次兄義忠が僧であったのを還俗して継ぐこととなる。なお、そのころ、南北酒出家が統合されて酒出家となっている。

 ここで、南北酒出家についてその概略を記しておこう。両酒出家は前期・後期に区分される。前期は、@治承4(1180)11月8日「被収公秀義領所常陸国奥七郡ならびに太田・糟田酒出等所々……」(吾妻鏡)。秀義とは佐竹氏四代当主。A文治5(1189)、所領復活。秀義の二男義茂が南酒出を、秀義が北酒出を各々苗字とする。 酒出とは鎌倉期から見える地名(茨城県那珂町の内)。B元弘3(1333)年5月25日、美濃国の佐竹氏北酒出家に勅命が下り、義基(北酒出家当主)弟の光基が上洛して足利高氏軍に属す。当時の北酒出家は佐竹四代秀義の三男季義が分家した流れである。C同じ頃、南酒出氏の美濃国転出後、足利幕府の評判がよく、佐竹宗家を凌ぐほどの勢力になった。D戦国時代、両家は常陸に帰って来る。しかし定かではない。あるいは、戦国の世の習いで没落してその地に帰農したかもしれない。後期は前述のとおりである。

 さて、義久は武勇、衆に優れ、天正年中、総侍所を賜り、山城守となり御床几代を務め、数々の合戦に功名を挙げた。

 天正十八年に豊臣秀吉から従五位下、中務大輔に任ぜられ、羽柴の姓と桐の紋を賜り、常州鹿島・茨城・新治など各郡から都合六万石の知行地を宛がわれた。このことは秀吉がはっきりと義久を大名に取り立てたことを意味する。だから、義久は宗家義宣と同格であって他の一門衆のように豊臣政権下の陪臣ではないのである。これをもってみても当時、東家は一門衆の筆頭であった。

 義久は慶長六(1601)年十一月二十八日、水戸で死去、四十八歳。遺体は水戸の時宗藤沢山神応寺に葬られた。

 佐竹義宣の影の人物として第一に挙げられるのはその父義重であるが、次に挙げるとすれば東義久であろう。義重はすべて同年代の若者を義宣の側近にした。すなわち北義憲、南義種、小場義成、石塚義辰、大山義則らである。そして自分は彼らの親たちやその同輩の重臣を配下にした。だから義宣が軍役や出府で常陸を空けるときは、留守番は老武者どもであった。ただし東義久だけは義宣の傅役としていつも義宣の側に仕えさせ、御床几代として、また相談相手として務めさせた。義宣より十六歳.年長である。

 慶長四年閏三月三日夜の石田三成救助には、相馬義胤と共に救助を思いとどまるように説得したが、義宣の決意の変わらないことが分かると、相馬と共に平服で先発隊として大坂備前島の石田屋敷へ馬を飛ばした。

 また、関ヶ原の時も、石田方に味方することを必死に諌めたが、義宣の態度が堅いため、どっちに転んでもいいように徳川方へ神経を使った。信州上田城攻めに三百余騎で赴いたのもその一つの表われである。

 やがて、西軍が敗れてからの義久の活動がめまぐるしくなった。慶長六年六月、伏見へ家康を訪ね弁解に努める。

 同年十一月、義久は江戸へ行って家康と面会している。この時、家康から義久に「其許に宇都宮十五万石を与え、常州殿には遷封を考えておる」との声があった。家康は義久を上杉の直江兼続以上に買っていた。無論、義久は本家安泰こそ大事と断っている。家康は義久がいる限りは佐竹を左遷できないと思った。しかし、義宣は家康と義久の関係を知って疑心暗鬼に陥る。

 義久は江戸から帰って間もなくの十一月二十八日に急死する。その死については毒殺の噂が飛んだ。だれが毒を盛ったか。家康とも言われるが、筆者は義宣ではないかと推理する。影の人物ほどであってもこのような悲劇に遭うとは誠に痛恨の極みである。しかし、義宣は遺族を大事にし、東家を御苗字家筆頭に置いている。

 義久の長男義賢は幼年の時、徳川秀忠に謁見して太刀「長光」をたまわっている。寛永元(1624)年十一月二十五日、四十一歳で死去。その子義直が家督を継ぐが同四年十一月十一日死去。二十九歳。無嗣のため、義久の末子小野崎宣政の長子が嗣子となった。義長と称す。

 

二、近世東家(高倉流)

 義長家督の時、三歳なので藩主義宣は小野崎宣政に後見役を命じた。当然ながら義長は引渡二番座に着けられた。この義長も病弱で寛永十七(1640)八月十九日、病気療養のため京都へ赴かんとして道中で死去、行年十六歳。もちろん無嗣なので公家高倉永慶四男の於七丸を後嗣とし、同年冬、京都から秋田に下着、義寛と称した。

 この義寛が義賢以来宿願の五ケ村堰の大工事を成し遂げた。

 義賢は六千石の知行地(十日町・袴形・板井田・中田新田・内小友)に用水路としての堰開発を思い立った。雄物川から取水する計画である。だが寛永元年、義賢が四十一歳で死亡、義直も堰の開削計画を立てたが在職三年で二十九歳で死亡。次の義長は千五百石減ぜられ四千五百石となり、検分・測量・開削計画を立てたが実現に至らず十六歳で死去した。そして、義寛の時代となり千五百石減ぜられ三千石。

 彼は寛文四(1664)から工事に着手し、開削を進めていった。工事資金調達に非常な困難を来たしたが自力で本郷から雄物川の水を引き入れ、十二年後の延宝四(1676)年に竣工した。貫通後の石高は六千石になったと言われている。

 この年十二月、義寛は五十二歳でこの世を去った。この大偉業を讃えて「佐竹山城」から「山城堰」と命名された。

 義寛に嗣子がなく後嗣は実兄の北義隣二男義秀がなった。

 宝永五(1708)年九月二日、御当家準三男、扇紋の幕、義の一字の相違ない証文を藩主義格から賜った。北家・西家・南家・石塚・戸村が準二男家なのに東家だけが準三男家なのは納得がいかない。義久以来、一門筆頭と目されていたからである。義秀時代になって何か宗家の不興を買ったことがあるのだろうか。だが、そんな記録は見当たらない。相次ぐ養子のせいか。そう言えば、養子が相続する度に禄高が減った。これは末期養子の罰則の一つと考えられるかもしれない。こんな例は他家にもある。いや、幕閣政治にも多くあった。

 義秀の子、義本は子福者で長男義道は佐竹壱岐守義長の養子となり、二男義智が東家を継ぎ、三男義邦が北義拠の嗣となり、その他まだいるが、右の三人は秋田騒動(銀札事件)の主要人物として登場するのである。

 東家十三代義府は文化二(1805)年四月九日、添川村の御休所の酒席で十二人を殺傷するという大事件を起こして廃嫡されている。それで藩主義敦の弟義方の長子を義路(義府の父)の跡目に立て義富と称した。

 

三、近代東家(相馬流)

 十七代義典は相馬益胤の二男、十八代義祚は相馬樹胤の五男で、これによって東家から佐竹の血脈がなくなることになる。ただ、そり血は大海に赤インク一滴ほどは残るが、ないと言っても誤りにはならない。というのは、実は佐竹三代藩主の義処から遥か七代孫に当たるのが義典・義祚である。その間百四十数年。それに傍系どころか他家なのである。これではもはや血族とは言えないであろう。

 明治に入ってから十九代義寿は父以来の藩主義尭との確執が募って没落の一途を辿り、ついに知行地の平鹿郡大森町に隠棲し、本郷の番屋で明治十七年九月四日死去。この後、特筆すべきことが起こった。

 (松浦流)

 残った継母銀子(亀田藩主岩城家女)は義寿妻(戸村家女)を離縁し、九州平戸の松浦詮四男の準を養子にした。俗に言えば男爵の株を売ったわけである。準は義準と名乗る。

 

付記

 藩政時代の東家上屋敷は東根小屋町南端東側(旧制秋田中学校地)。

 同下屋敷は楢山南新町、通称「御東町」。東端に氏神「東館神社」。

 菩提寺は手形大沢の曹洞宗白馬寺。

 高清水五輪坂東側にある遥拝殿は東家上屋敷玄関の移築。

       佐 竹 氏 と 大 阪

                                        土居 輝雄

一、誉田八幡

 古い秋田の地名に八反田というのがある。言うまてもなく八反歩という田圃の面積である。八反歩は農民の平均であった。つまり、「八反田」は農業の別称である。その音韻変化は、ハッタンダ→ヤハンダ→ヤハタとなって「八幡」の字が充てられ、それが音読みでハチマンになった。無論、ヤハタからヤワタへの変化もある。

 八幡大神はこのようにして農業の神として生まれたものと思う。だから各地の氏神であったわけである。九州豊国の豪族宇佐氏にも氏神八幡があった。それに゛神功皇后の三韓遠征時、宇佐が難波と朝鮮の中間の要衝となり氏神八幡も戦勝祈願のするところとなって朝廷に信仰され後に皇后が合祀されて武の神へとしだいに変わっていったと思われる。

 それを貞観元(八五九)年、朝廷が大山崎男山に勧請したのが石清水八幡宮である。祭神は応神天皇、神功皇后、比売大神。すっかり農業の氏神が隠れて朝廷の武神となった。武の神というところからやがて武家の信仰するところとなり八幡太郎義家がここで元服して以来、河内源氏の氏神とされた。

  ここに誉田八幡宮がある(大阪府羽曳野市誉田)。初めは応神天皇陵の祠(神を祭った小さな建物)であったが、永承六(一0五一)年、現在地に移った。祭神は応神天皇、神功皇后、仲哀天皇、住吉三神である。

 さて、佐竹氏の八幡宮だが、応保元(一一六一)年、佐竹初代の昌義が嫡男の忠義に家督を譲り常陸太田の馬場に誉田八幡社を創建した。祭神は誉田別命、比売大神、応神天皇。後の大八幡である。これは本家義家流への反抗であった。遠祖義綱以来の怨恨の故である。

二、佐竹屋敷(大坂城三の丸)

  秀吉最晩年の慶長三(一五九八)年?に佐竹氏は屋敷を拝領している。 場所は大手門前の要衝の一等地である。この地は関白秀次の屋敷内?であった。だが不確かである。現地で確認したいとかねがね思っていた。 

三、備前島(三成救助)

 家康が見舞いのため大阪へ前田利家を訪問した慶長四(一五九九)年三月十一日から二十一日目の閏三月三日の朝、利家は死んだ。三成はいつものように前田屋敷へ見舞いに行こうとしていた。そこへ利家の死が知らされた。行こうか行くまいかと迷った。また、登城して秀頼に悔やみを申すこともあったが、結局は身の安全を考えて家に篭ることにした。

利家が死ねば清正らが三成を襲撃するかもしれないという噂は大坂・伏見市中にも広まっていたほどだからである。

 午の刻になった頃、秀頼近習から石田三成へ内報があった。清正ら豊臣武将七名が大坂城内の一室で密議し三成の首級を挙げることに評議一決したというのである。

 佐竹義宣が伏見でこの通報を受けて三成救助に決意した。東義久は義宣を翻意させようと説得したがその決意の固いことが分かると、平服で先発隊として大坂は備前島へ馬を飛ばした。

 義宣はかねて準備していた千数百の軍勢を率いて石田屋敷へ疾駆した。そして無事に三成を救い、伏見の佐竹屋敷へ逃れた。まだ夜も明けやらぬ丑三つの頃であった。

四、今福(大坂冬の陣合戦場)

 慶長十九(一六一四)年十一月二十五日、初め京橋方面の片原町に兵を集めて鉄砲戦を展開した。城兵が三町ばかり攻め寄せて来たが堤を掘り柵を構えていたのでこれで防いだ。それから転じて今福方面に赴いた。

 この今福の地は大坂城の東北に位置し大和川を挟んで鴫野とほぼ南北に相対してその距離わずかに一里ばかりである。今福・鴫野はともに左右は深い水田が遠くまで連なって人馬は通れず、ただ一筋の細い堤上の道があるのみであった 城兵は今福堤を三箇所にわたって切断し柵を四重に設けた。この地勢は守るに利あって攻めるに難い。これは佐竹軍と川を隔てて並んで城方と相対している鴫野の上杉も同様であった。

 二十六日午前中は佐竹軍が勝利したが、午後になって大坂方は反撃して来た。新手であり大勢であったので佐竹隊は雪崩を打って敗走した。渋江内膳は敗走の中で戦死した。

五、蔵屋敷(中之島)

  江戸時代、大坂経済の中核地で各藩の蔵屋敷が集中し秋田藩も無論軒を並べていた。

 

 以上が佐竹氏所縁の地である。

  

  佐竹史探訪の会は佐竹氏ゆかりの地を訪ねて今年で十年目になる。二泊三日の旅程で平成二十六年十一月四日十時五十分、伊丹空港到着。大阪に入る前に姫路城に立ち寄った。

  改装成った世界文化遺産の大天守および小天守群は、まさにその名を示すがごとく白鷺が青空に舞っているようであった。一行はオーッとしばらくは息を呑んで見惚れた。

 十一月五日、ホテルを八時に出発して四天王寺を参拝して大阪城に向かった。城に入る前に大手門前の大阪府庁舎周辺整備事業事務所に立ち寄る。大阪府文化財センターの事務局次長と総務企画課長補佐のお二人が待ってくれていた。佐竹屋敷跡の案内を頼んでいたからである。

 平成二年から大阪府庁舎周辺整備事業にともなう発掘調査が行われた。以下はその報告書とお二人の話である。

 調査区域の東側の区画で東西に細長い掘立柱の建物が六棟以上並んでいた跡が発掘され、同じ区画の井戸等から「扇に月丸紋」の軒丸瓦が出土した。 佐竹の家紋である。佐竹屋敷跡だ。大阪市中央区大手前三丁目にあたる。ちょうど大阪府警本部の西半分と府庁新別館北館・南館の東半分を含む範囲である。南北百メートル・東西百五十メートル、一万五千平方メートルの広さである。「さ竹内」と書かれた木簡が出土したという。佐竹屋敷という標である。

 この屋敷内から土師器皿、備前窯擂鉢、瀬戸・美濃窯天目碗等とともに「扇に月丸紋」の軒丸瓦や土器が出土した。これらを目の前にして当時の佐竹氏の豪勢さがうかがわれる。

 さて、この地は大坂城三の丸で秀吉最晩年の築造である。死期の迫った秀吉が豊臣の将来を心配して城の防御を固めるための工事であった。宣教師パシオがローマのイエズス会総長に宛てた手紙にもこの工事のことが書かれている。商人や職人の家屋が七万軒以上あったが、すべてニ、三日間で取り壊した。

 しかし、大手近くには有力大名の屋敷が既に配置されていたと思われる。その筆頭が秀次の屋敷であろう。幅五メートル、深さ三メートルの堀に巡らされ、東西百二十メートル、南北二百四十メートルの二万八千八百平方メートルの広さである。中央区大手前四丁目で佐竹屋敷とは本町通を挟んだ南側である。

 したがって佐竹は秀次屋敷の隣であった。

秀次の生害は文禄四(一五九五)年だからその屋敷はそれ以前にあったわけである。無論、佐竹はじめ有力大名の屋敷が大手門近辺には三の丸築造前、既にあったはずである。

 ところで、秀次死後、その屋敷はどうなったであろうか。聚楽第の例からして撤去されたろう。その地は空き地になったが、火除け地にして大手門前を整備したろうか。いや、もっと軍事的に考えたろう。馬出し(橋頭堡)か。軍勢の根拠地、大手門橋を守る陣地が当然考えられる。佐竹義宣はその地を管理するように豊臣の将来を心配したことだろう。

  お二人は時あたかも「大坂冬の陣四百年祭」開催中の城内も親切に案内してくれた。一行は義宣の三成救助の備前島で昼食を摂る。

 休憩後、今福古戦場佐竹本陣跡に建つ若宮八幡大神宮と、鴫野古戦場上杉本陣跡に建つ八劔神社を参詣してから真田丸跡に立ち寄り中之島へ行く。

 全国諸藩の蔵屋敷が並んでいたこの中之島から古絵図を頼って佐竹の蔵屋敷を探し出した。堂島川右岸で現在の大阪市福島区福島一丁目である。また、今年発見された絵図から生駒氏蔵屋敷も見つかった。「矢島」と記されている。堂島川左岸で北区中之島六丁目である。

 十一月六日、九時前に羽曳野市の誉田八幡宮に向かった。佐竹大八幡の本社である。広大な応神天皇陵に隣接し陵の墓守という存在である。常陸太田では「ホンダ」、こちらでは「コンダ」と呼称しているが「ホンダ」が正しいと言う。大阪のほうが「コンダ」と訛ったそうだ。筆者は誉田八幡が石清水八幡より格が上とみた。

 帰途、仁徳天皇陵、堺の南宗寺・鉄砲鍛冶屋敷町跡に立ち寄った。南宗寺は茶道発祥の地とも言える。千利休と縁が深い。

 佐竹義宣は京都で二度ほど利休の茶席に招かれている。一度目は暁の茶事で茶席は四畳半、相客は石田三成と萬代屋宗安であった。宗安は堺の人で茶を利休に学び秀吉に仕えて御伽衆に列し茶道八人衆の一人であった。利休の女婿でもある。二度目は正午の茶事で茶席は四章半、相客がなく独客だった。義宣はこれで自信を得て「俺は関東随一の数寄者になってみせるぞ」と豪語するほどであった。

 茶人大名で有名な古田織部は利休の高弟であり義宣の師匠である。彼は関ヶ原前の義宣を親身に心配し、そのため家康から不興を受けている。それも遠因の一つとなったろうか大坂夏の陣直後、切腹を命ぜられている。秀吉と利休といい、家康と織部といい、当時の天下人と一流茶人とはどうも肌が合わなかったようである。

 

近況 平成27年

      秋田カルチャースクール講師「佐竹史探訪」。キャッスルホテル毎月2回(第二・四月曜午前2時間)。入会随時。受講者現在45名。

      佐竹史探訪の会主宰 春の研修、5月下旬、角館。秋の研修、11月上旬、鹿児島。

      佐竹城下を歩く会主宰  今年から申込による会といたします。いつでもご希望に応じます。個人でも結構です。無料。申込先(рO18―832―8708土居)

      6/3 佐竹史料館学習講座講師「佐竹義宣 秋田新時代@」明徳館研修室1時半。一般対象。

      6/10 佐竹史料館学習講座講師「佐竹義宣 秋田新時代A」明徳館研修室1時半。一般対象。

      7/10 秋田寿大学講演「八橋の歴史」。秋田市八橋老人憩いの家、13時。

      8/26 秋田の歴史を学ぶ会講演「伊勢堂と五庵山」。秋田市東部公民館、10時。一般公開。

      10/14 佐竹史料館講演会「佐竹義宣の窪田町づくり」。13時半〜15時半。一般公開。なかいち二階アート工房2。

      11/25 中通小学校4年生野外学習「藩政時代の根小屋町と土手長町」講師。

      12/1 中通小学校4年生授業「佐竹義宣」講師。

      12/9 久保田城址歴史案内ボランティアの会学習研究会講演「佐竹義敦と田沼意次」。ジョイナス13時半〜15時。

平成28年

●秋田カルチャースクール講師

鬼園小論

佐竹義敦と田沼意次

               土居 輝雄

一、出会い

 宝暦十二(一七六二)年閏四月十日、湯島の料亭で平賀源内が師匠と共に物産展を開催した。草木・鳥獣・魚介・昆虫・金玉・土石の千三百余種が出品され、その産地は日本・清・阿蘭陀の三ケ国にまたがっていた。曙山は前評判を聞いて興味を覚え、先々代義真後室(金沢城主前田吉徳女揚姫)の喪中であるにもかかわらず下谷三味線堀の上屋敷を抜け出して湯島へ見物に行った。其処で平賀源内を知り田沼意次と出会った。

 人間の出会いというものは不思議なものである。直観的に好意を持つこともあれば嫌悪することもある。そこに理由なぞいっさいない。そしてそれが二人の運命を決定づけることが多々ある。田沼と曙山がまさしくそうであった。

 田沼は好意的に曙山を見つめていた。それは一緒に蘭癖になろうという眼でもあった。また、わが子をいとおしく見る慈父のような眼でもあった。曙山にはそれがはっきりと感じられ彼自身も父を慕うような感情であった。馬が合うという言葉がある。二人はまさしく初対面で馬が合ったのである。

 幼年という理由で曙山はいまだ将軍謁見がなかったが佐竹家に将軍拝謁が明年二月中の予定という通知の来たのがその年の十一月であった。田沼意次の働きかけである。佐竹家は田沼へ留守居役を遣わし礼として進物を届けた。

 

ニ、阿仁銅山上知令

 二年後の宝暦十四年五月十六日、秋田藩に青天の霹靂が起こった。老中松平周防守康福の屋敷に呼び出されて留守居役の安田直温が参上すると、松平家の用人野村栄左衛門から幕命が伝えられた。

「阿仁銅山、追年出銅定額を欠く。これ資力の不足をもっての故に因る。これにより銅山及び麓邑一万石、公入の地とし、替わるに他の地をもってす。」

 阿仁銅山の産出量が近年減ってきているが、これは資本力の不足が原因しているので銅山と周辺の土地一万石を没収して幕府の力で経営する。なお、没収の地は他の地をもって替える、という通告である。上知令である。

 三味線堀の上屋敷は大揺れに揺れた。留守居は早速飛脚を秋田へ走らせた。十七歳の曙山は幕命といいながらとても承諾できるものでないと思った。彼は幕府の狙いを独り考えてみた。なるほど、阿仁銅山の産出量は年々減少しておる。これは秋田藩の資本力不足が原因なので幕府が代わって経営に当たれば解決するというのは表向きで実際は阿仁銅山の有望性に目をつけてその直轄化を狙ったのだろう。曙山がここまで考えるのにそれほど時間は掛からなかった。

 さて、阿仁銅山上知令にどういう手順で反対していくか皆目見当がつかなかった。留守居役達も藩主と一緒になって幕府を批判するようなことは論じない。いや、そのようなことは論じられるものではない。それどころか諫めるようなことを言う。幕命に反対するなど藩を取り潰すことにもなりかねない。藩を安泰にするには幕命に唯々諾々と従わざるを得ないのが当時の常識であった。それでも田沼意次に接近するのが今後のためにもよいだろうという意見は出た。

 曙山は阿仁銅山上知令撤回を田沼に頼めばそれに越したことはないと思ったが、今を時めく田沼意次に接近することすら不可能だとあきらめていた。家中も不可能が当然な田沼の名を出すような無責任ぶりだった。無責任というよりは藁をもつかみたい気持ちで一縷の望みを持ったのが本当のところだったかもしれない。しかしそれよりも幕府の心証を害さないような手立てばかりを考えていた。それが現実的であった。

 そんなとき、曙山は二年前の物産会の田沼の眼を思い出した。あの眼には「二人とも蘭癖大名と呼ばれようか」という親しみがあり、いや明らかに田沼は自分に好意を寄せていたということを強く感じた。曙山は幕命を拒否する恐ろしさより田沼の自分に対する好意に妙に自信が持てたのである。

「そうじゃ。田沼様に頼むよりほかに手はない」と曙山は決心した。

 早速、留守居役を呉服橋内の田沼屋敷へ遣わして曙山訪問の伺いを立てた。

 そうしておいて、曙山は田沼邸に出入りしている平賀源内を通して田沼へ接近することも考えた。曙山は手柄岡持という狂号を後に持つ平沢家養子、江戸神田生まれの平沢平角常富が源内と親しくしているということを知って、平沢に命じて源内を下谷三味線堀邸へ招くこととした。

 手順として源内招待を田沼邸訪問より先にした。売名家の源内は喜んで三味線堀の屋敷を訪ねた。話はほとんど阿蘭陀物についてであった。

 源内でわたりをつけて数日後、曙山は呉服橋内の田沼邸を訪問した。型通りの挨拶口上が済むと、意次は人懐っこく曙山を見た。二年ぶりの対面であるが、曙山にはその後も何度か会っているような親しさを覚えた。

「右京大夫殿は入部のお暇はいまだ賜ってござらぬな」。

(ちゃんと調べておる。俺が昨年十二月十日に右京大夫を許されたことも、いまだ入部をしておらぬことも。)

 曙山は感激した。二人はそれから終始蘭学に関する話ばかりしてとうとう阿仁銅山の件は話題に上らなかった。いや二人とも申し合わせたようにその件を上らせなかった。

 この辺が田沼の腹芸である。曙山来訪の意図は初めからわかっていたことで、ここで改めて話題にする必要はなかった。それより彼は折角の機会に曙山をじっくり観察したかった。もちろん、それはどこまでも期待を持ってである。

 一方、曙山はそんな田沼を若年ながら見抜いていて、あえて阿仁銅山の件は忘れたかのように話題に出さなかった。曙山も腹芸を決め込んだのである。田沼はますます曙山が気に入った。驚いたのは曙山随行の重役達である。用件をそっちのけにして蘭学を話し合うなど、田沼にしてやられたと思った。

 数日経って老中松平武元の命により留守居役の安田直温が武元邸に参上すると、松平家臣の小堀十太夫から「幕府は五月十六日付けの令を改め、銅山が繁栄すれば再び返還すべし」という伝達があった。ひじょうに好意的な計らいに石塚・今宮の両家老及び留守居役はじめ重臣どもは胸を撫で下ろした。

 ところが、曙山ただ一人が、たとえ一時的でも没収されるのは承諾できぬと反対した。そして安田を松平武元邸へ遣わして松平家の小堀へその旨を伝えさせた。両家老や重臣どもに相談しても忠告されることは分かっているので、曙山の独断行動となったのである。このようなことは何と藩祖義宣以外はかつてなかったことである。家中は皆、幕府に反対するなど大事にならねばよいがと心配した。

 案の定、断りの使者安田が「幕閣はこれ以上、下がることはならぬ」と威丈高に突っぱねられて帰って来ると、曙山は怖れもせずに「佐竹七百年の名に懸けても阿仁銅山公入の事、受け入れ難し。御再考を請う」と翌日、老中登城前に再び安田が遣わされた。

 六月六日(明和元年、改元六月二日)、松平武元から佐竹邸に呼び出しがあって、留守居役の安田直温が松平邸に参上した。其処で松平家臣小堀十太夫から「先に令するところの秋田藩内阿仁銅山及び麓邑一万石公入の事、国体において頗る障碍の事あるを以て請うにより公入の命止めて旧の通り領知すべし」の令が伝えられた。結局、阿仁銅山上知令は撤回され、そのうえ長崎御用銅も従来の約六割に引き下げることで決着した。

 全く田沼意次のお陰である。冷徹な彼は感情で人を判断することはなかったが、既に述べてきたように佐竹曙山には初対面の時から好感を持ったようである。そしてこの度の幕府を恐れぬ幕命拒否の態度と度胸にいよいよ好感度が増したのである。それが彼に、曙山の中に一歳下の息子意知を、曙山の向こうに三歳上の島津重豪を見させるのであった。そしてこの三人に共通するのが蘭癖大名であり頭脳優秀であり、やがて彼らが手を携えて新しい政治の担い手になるだろうという期待が意次にあったのかもしれない。

 それから間もなく、老中松平武元から、「明年、初入部のお許しが出るであろう」という通達があった。田沼意次の計らいである。

 

三、友 好

 安永三(1774)年三月、二十三日に義敦は参勤のため江戸へ出発の予定であったが体調が思わしくなく四月初旬(八日か九日)出発と決めた。この急な変更を体調の理由にせず雪水の洪水のためとした。そこで、扈従予定の太田伊太夫を急ぎ江戸へ向かわせて江戸屋敷でこのへんの事情を相談して幕府へ届け出ることとなった。

 江戸では、洪水を前もって知って参勤恒例の時を延引するようことを幕府に届け出ることはよろしくない、ここは正直に義敦の病いの故にしたほうがよいという衆議に決まった。なぜこれほどまでに病いを隠したかったのであろうか。義敦は四月九日に秋田を出発し二十四日に越谷より下谷に到着した。十六日間の道中である。病いが治ったものと思われる。

 四月二十八日、将軍家治の使者として田沼意次が義敦参府の慰労に下谷邸を訪問した。形式的な儀礼の後、二人は打ち解けた。

「上杉騒動については詳しくお知らせをいただき、かたじけのうございました。」

「あれは他山の石にござる。改革は急いては仕損じます。何しろ相手は人にござる。それもごく近親の一門や譜代にござればむずかしきこと測り知れぬ。計画の時は物事や数字にて容易に運ぶが、いざ実行となれば人が前に立ちはだかる。十分に心すべきことにござる。」

「肝に銘じます。」

 義敦は田沼の思いやりに感謝した。

「時に右京大夫殿、御女子を薩州殿へ下さらぬか。向こうもお望みにござる。」

「薩州殿? 島津重豪殿にござりますか。」

「左様にござる。お相手は嫡男の虎寿丸にござる。」

「願ってもない良縁! 万事よろしくお願い申します。」

 義敦は島津七十七万石もさることながら、田沼意次の口利きが有難かった。意次も島津・佐竹・田沼の蘭癖三家が強い絆で結ばれることに夢を描いていた。これが六月に入って現実となった。

「六月二十七日 長女梅子、薩州の世子虎寿君に許嫁す。是日織田図書(幕吏)薩州侯の為に来て婚約を相定む。戸田五助(幕吏)吾公の為に往て答約す。既にして薩州侯、其臣佐久間九十九(用人)をして来て鯛一折を贈る。公、亦太田丹下成孝を使して鯛一折を送りて以って使い酬はしむ。」(『佐竹家譜』)

「七月十八日 公(義敦)登営す。昨日閣老の連署に因てなり。薩州候も亦登営。閣老、白書院に列し、直月の老(御用番の老中)板倉佐渡守勝清、二候(島津重豪と佐竹義敦)に令して、其さきに請ところ、梅子の縁約許可の命を伝ふ。公、薩州候と与に拝して命を承け、又、西城(西の丸。家治世子家基居住)に至り、奏者に謁して前令を拝謝す。」(『佐竹家譜』)

 この日、重豪と義敦は下城後、神田橋の田沼邸に招待された。すでに意知が下城して二人を待っていた。島津重豪、三十歳。薩摩国鹿児島藩主、父は重年、宝暦五年遺領相続。妻は一橋の女。蘭癖と称されるほど蘭学に傾倒しオランダの文物の収集に熱心である。石高の七十七万石余は前田氏に次ぐ第二位。江戸城大広間詰め筆頭。同じ大広間詰めの佐竹義敦とは顔を合わす機会が多く、蘭癖の趣味で親交の間柄となり、それが田沼意次の引き合わせでいっそう親密になった。

 佐竹義敦は重豪より三歳下の二十七歳、田沼意知は義敦より一歳下の二十六歳。この三人が田沼上屋敷の客座敷で意次の帰宅を待つ間、四方山の話に打ち興じていた。やがて意次が入って来た。彼は楽し気に話し合っている三人を見て一瞬立ち止まり「おう、これぞまさに三料(三人の貴公子)じゃ」と満面に笑みを浮かべた。

 膳部が出され酒が回るにつれてこの蘭癖大名達はいよいよ饒舌になった。話題はあっちへ飛んだり、こっちへ来たり、さながら無礼講であった。

「主殿頭様は今や飛ぶ鳥をも落とす勢いじゃ。政事に張り合う御仁はございますまい。」

と重豪が酒の酔いにまかせて言った。

「いやいや、とんでもござらぬ。日夜悩み通しにござる。」

「そんな御仁がおられるなら、ぜひ伺いたいものにございます。」

と義敦ははしゃぐように尋ねた。

「それが思わぬところにおるものにござる。」

 意次はニヤニヤと応える。

「はて、どなたにございましょう。薩摩守とんと見当がつき申しませぬ。」

「御三家、御三卿にござる。」

と意次は低く静かに、しかしきっぱりと言った。その眼は笑っていたが、言った内容は穏やかではなかった。

「今、幕府において最も警戒.しておるのは将軍家親戚のわがままにござる」と言って意次は最近の例を語り出した。

 

四、相良旅行

 安永六(1777)年十月。

「武助あん、相良へ行ってみねえかい。」

「相良? 田沼様の?」

「そうや。今夜、田沼さんより頼まれたんや。」

 平賀源内はしぜんに上方言葉を使った。小田野直武は相良行きのわけが分からずぼうっとしていると「相良の物産を調べてさ、そん中より殖産になるものはねえかってえんだ」と、べらんめえ口調に変わった。

「司馬さんも一緒でござるか。」

「あいつぁ連れていかねえ。お前さんと俺らあ二人旅だよ。田沼さんへそう頼んだ。」

 源内は直武の江戸在住の期限を知っていた。今年五月の義敦下国の時に扈従すべき

であったが何となく別れがつらく、そのうち機会をみて帰国させようと思い、田沼意次にもそのことを話していた。それが今、現実となったのである。田沼・源内どちらからともなく相良旅行が持ち出された。いってみれば小田野直武慰安旅行である。これはいってみれば田沼から義敦への贈答なのである。この粋な計らいに義敦が感激したことはいうまでもない。

 領主田沼意次の声掛かりとあっては源内・直武の二人は普請中の相良城内・城下いずれでも歓迎を受けた。源内は何もせずに立ち去るのは彼の性分からして許されず、凧を残すこととした。この凧は尾を付けない独特のもので、凧糸の先に「びいどろ糸」と呼ばれる糸を使い、絵柄も祝儀用の明るくデザインされた、いかにも源内ならではのものであった。無論、絵は直武が手伝った。

 これが相良では初の男子誕生を祝って毎年五月三日から五日までの三日間揚げられる相良凧である。紅白二組に分かれ、敵の凧とからめ、秘術を尽くして糸を切り合い、凧を落としたほうが勝ちという凧合戦である。相良の春の風物詩である。土地の者は源内凧とも呼んでいる。

 帰路、直武は黄瀬川縁で富士山をスケッチし、源内邸に帰ってから「富嶽図」制作に取り掛かり完成している。

 

五、源内覚書

 @源内を長崎に行かせた『紅毛本草』とは原題は『コロイトブック』(薬草書物)、著者はヘルギー人の植物学者で1608年にオランダ語訳で出版された本である。当時       のヨーロッパの植物書の集大成ともいわれる本で、源内を特に惹きつけたのは薬の効 能の詳述と写実的な図譜であった。彼はこの本を五年前の明和二(1765)年三月に高額な金子で買っていた。

  彼はこれを日本語訳で出版することをその時から思っていた。しかし、彼にはオラ  ンダ語を十分に読む力がない。マルチ人間の彼にはオランダ語に没頭するような時間がなかったのである。だからといって、これからオランダ語を本格的に学んで翻訳しようという気はなかった。彼は長崎へ行って大通詞の吉雄幸左衛門から薬草の能の部分を解読してもらい、それを自分なりに翻訳しようと思い立ったのである。彼は長崎に着くと吉雄の家に寄宿した。

 A源内唯一の油絵が今日残っている。その頃長崎に持ち込まれた婦人画を模写の形で彼が絵の具や画法を工夫しながら描いたものと思われる。源内二度目の長崎遊学中のことだから明和七年の末かもしれない。縦一尺二寸五分(四十一・三センチ)、横九寸二分(三○・四センチ)の大きさ。一見してアマチュアらしい稚拙さが目立つ。ところがその稚拙さが実に面白く、かえって見る者に強烈な印象を与えてしまう。その大きな目、怒った小鼻、厚ぼったい唇から源内の息遣いが感じ取られるのである。筆者はこの絵から写楽が浮かんできてしようがない。そういえば、写楽が雲母の粉を用いて銀刷りのような効果を出した雲母刷りも、この源内絵に見られる漆を混ぜた絵の具の工夫とどこかつながりがある。これは当時、源内を措いて制作のできる者は見当たらない。又、役者の似顔絵のデフォルメの具合が源内のけっして上手ではない素人っぽいデッサン力とうまく溶け合っている器用さは源内ならではの才能であった。

 B源内は安永八(1779)年十一月に人を斬って投獄され翌十二月に獄死している。実は田沼意次が自分の領地相良にかくまったという説は当時からあった。写楽が突然世に出て忽然と消えたのが寛政六(1794)である。源内が生きていれば六十七歳。源内が写楽と重なってくるのである。

 C土居輝雄著『蘭画大名』「跋」より)天明六年八月二十五日明け方、将軍家治がこの世を去った。家治の病状悪化と併行して反田沼派が意次失脚を企み八月二十七日に意次は老中解任となった。

   閏十月五日、意次の所領である遠州相良五万七千石のうち二万石および江戸神田橋屋敷と大坂蔵屋敷が没収された。また、江戸城への出仕も止められた。

   天明七年十月二日、残りの所領から二万七千石を没収され身は謹慎・蟄居を命ぜられ孫意明が家督を相続し、奥州下村(福島市内)一万石へ移封となった。そして十一月に相良城は没収された。

   この年、六月十九日に松平定信が老中首座に就任し、吉宗の享保の改革を手本とした改革を行っていくのである。

   天明八年一月十六日から二月五日にかけて相良城取り壊しとなった。三月四日、松平定信が将軍補佐役に就任した。七月二十四日、田沼意次は失意のうちに病没した。江戸駒込蓬莱町の勝林寺に葬られた。戒名は隆興院殿耆山良英大居士。享年七十歳だった。九月、田沼意明は川普請役を命ぜられ六万両(約六十億円)徴収された。定信の田沼いじめはしつこかった。田沼家はその後、意次二男意正のとき文政六(1823)年、一万石で相良に戻った。明治元年、上総国小久保に移され、明治17年の華族令で子爵となる。

  さて、安永八年十二月から相良城内にかくまわれていた平賀源内は天明七年十月の  田沼氏移封で意明に従って奥州下村へ下ったものと思われる。田沼憎しの定信のいる  江戸に入ることは不可能であったろう。

   寛政六(1794)年五月、江戸に突如、特異な面貌の役者絵をつぎつぎと発表し、大  評判を巻き起こした浮世絵師が現れた。その名は東州斎写楽。日本橋通南二丁目油町  の蔦屋重三郎が版元である。

     その絵は江戸の都座・桐座・河原崎座へ出演中の歌舞伎役者をモデルとした雲母刷  りの大首絵であった。雲母刷りとは雲母の粉を用いて銀刷りのような効果を出す手法  である。読者は明和二年春の鈴木春信の錦絵を思い出すことができるであろうか。錦  絵は単色か二、三色の紅絵から混合色や多色刷りになった当時大評判の絵のことであ  る。この工夫考案が平賀源内だった。これは明和七年に描かれたと思われる源内唯一  の油絵「婦人画」に見られる漆を混ぜた絵の具の工夫ともつながる。

   また、同じ明和二年から三年にかけて大小暦が流行した時、その交換会で源内の提出した大小暦が絶賛を博した。絵は大場豊水に描かせた源内のアイデアだった。それまでの役者絵は役柄が分かっていても役者がだれなのかはっきりしなかった。

   写楽を、もしや源内ではないかと司馬江漢がだれよりも一番先に思った。雲母刷りの手法は錦絵の延長である。当世、源内を措いてこういうのに気がつき制作のできる者はいないと江漢は思った。また、役者の似顔絵で大小暦の評判をとった経験が今度  のデフォルメされた役者絵につながっていると思った。そしてそのデフォルメの具合  が源内のけっして上手ではない素人っぽいデッサン力とうまく溶け合っていてその器用さはさすが源内だと司馬は感歎したに違いない。

   司馬は蔦屋を訪ねた。しかし写楽に会えなかった。主の重三郎が会わしてくれなかったのであろう。すでに銅板画で一家をなしていた彼は、それ以上源内を探すことをやめた。源内が罪人であることに気がついたからである。東州斎写楽も世を忍ぶ匿名だろう、そっとしておこうと思った。

   源内が人をあやめてからこの年で丁度十五年経っている。現代でいえば時効の年である。それほど過去のものとなっているし人の記憶も薄らいでいる。しかも田沼関係の者に鵜の目鷹の目だった松平定信も昨年七月に罷免されている。もう大丈夫だろうと江戸へ出て来て、現政権にけっして好意を抱いていない蔦屋重三郎の所に飛び込んだ。

   源内の非凡な才能を見逃す蔦屋ではない。また、源内自身もかつての気の強さや自己顕示欲は消え失せたものの依然として創作意欲や発明工夫心はあった。雲母刷りや特異なマスクの役者絵のアイディアが蔦屋に持ち出されると、山東京伝の筆禍事件で財産半減の処分に遭ったり、喜多川歌麿を他の版元に引き抜かれたりした後の蔦屋だっただけにこのアイディアに賭けた。

     写楽は役者絵を中心に相撲絵なども含めて、わずか十ケ月の間に百四十余点の作品を発表し、翌寛政七年一月、.忽然と浮世絵界から姿を消した。生没年不詳、人物・経歴不明。前年の十一月二十一日で満十五年を迎え現在の時効成立とでもいうべき犯罪人平賀源内にはますます有利に開けつつあった矢先の出来事である。この時、源内六十八歳。

   定信一派に殺害されたか、写楽伝説を企んだ蔦屋に始末されたか、あるいは身の危険を感じて再び奥州下村に身を隠したか。その後の彼は杳として行き方知れずである。筆者はこれ以上推理することを好まない。読者に自由な推理を委ねてこの書の膨らんでいくのが楽しみなのである。

   さて、佐竹家はこの間、事もなく、やがて秋田蘭画を忘れたかのように十九世紀を迎えていく。

 

      岡本新内の背景

                                          土居 輝雄

  秋田県に岡本新内という民謡がある。発祥の地は雄物川町である。創始者は市川団之丞といわれている。江戸の役者である。文政十二(一八二九)年の生まれ、弘化二(一八四五)年十七歳の時に七代目市川団十郎へ入門している。十七歳の役者入門は遅すぎる。おそらく小芝居の経歴があろう。小芝居出身の者が素質を見込まれて市川宗家入門が許されたと思われる。それだけ本人の感激は異常に大きかったに違いない。 七代目の弟子となってからの彼はめきめきと腕をあげ、やがて市川団之丞の襲名を許される。

 この名跡は宗家預かりの古いものであった。初代は一世市川団十郎の門弟で元禄五(一六九二)年から同十六(一七0三)年にかけて活躍している。ただし生没年は不詳。家紋は師匠の「三升」を許されている。二代も生没年不詳だが元禄十三(一七00)年から享保五(一七二0)年にかけて活躍の記録がある。三代目以降は不詳である。あるいは岡本新内の創始者の市川団之丞は三代目かもしれない。すると、彼が七代目団十郎の弟子になって五年後に団之丞を復活したとすれば何と百三十年ぶりのたいへんな役者だったはずである。

  ところで、この団之丞の師匠である七代目団十郎は天保十三(一八四二)年六月、その豪奢な生活が天保改革の禁令に触れ蟄居を、六月に江戸追放を命ぜられている。七代目は大坂へ行って公演を続け、嘉永二(一八四九)年に罪を許され江戸に帰った。だから団之丞が入門したのは大坂ということになる。

  団之丞は後年の岡本新内からみて江戸風でなければならない。彼が大坂に在住していたとは考えられない。また、追放命令を受けた七代目を追って大坂へ行ったとも思われない。団之丞が市川宗家に入門した時は七代目団十郎は既に海老蔵を名乗り八代目は息子が襲名していて美男の花形役者であった。また、八代目は文政六(一八二三)年生まれの二十三歳であった。六歳下の団之丞が江戸にいる八代目の下に弟子入りするのは少しもおかしくない。団之丞の七代目弟子入り説は八代目の間違いであろう。そして既述したようにかなり期待され厚遇を受けたことは間違いない。

  しかし、八代目団十郎は安政元(一八五四)年八月、大坂で父と共演中、同月六日に謎の自殺を遂げている。行年三十二歳。自殺の理由に次のことが推測された。「父の多額な借金、兄弟の不仲、長男としての責任感」がその潔癖性とプライドから死へ追い込まれたというのである。しかしこのどこにもありそうな問題で一流の芸人が自殺するとは考えられない。実はだれにも話されない理由があったのだ。坂東しうかと芸の上での争いである。

  坂東しうか、前名は坂東玉三郎、文化十(一八一三)年生まれのこの役者は十六歳の文政十一(一八二八)年には人気役者として給金が百二十八両(現・千二百八十万円)と世間を驚かすほどだった。四代坂東三津五郎門人で後、養子となった。安政元(一八五四)年夏、彼は十歳若い八代目を妬みその芸を批判した。人気絶頂の八代目にはそのプライドから許されなかった。丁度その三月、江戸河原崎座で河竹新七(後の默阿弥)の『都鳥廓白浪』が初演され主役が四代市川小団次で好評であった。小団次の家は初代が一世団十郎の門弟で団之丞と似ている。八代目団十郎はこの小団次の芸にかねがね敬服していた。市川一門で十一歳年上の小団次だが今度の好演に何か新しい演出が感じられしだいに八代目を焦らせるようになった。時あたかも小団次と同年代の三津五郎からの侮辱である。激怒と鬱屈した気分の治まらぬまま大坂へ赴いたが感情はますます高まるばかりであった。そしてついに自殺となった。

  この事情をよく知っている者が一人いた。愛弟子の団之丞である。団之丞は師匠の復讐を決意した。翌安政二(一八五五)年三月六日、坂東しうかは急死した。上唇に出来た腫れ物が忽ち肥大しての死去である。死後、五代目坂東三津五郎が追贈された。それから間もなく団之丞は奥羽へ逃れ行方を晦ました。以後の彼の消息は『雄物川町郷土史人物編』(雄物川町刊)の「市川団之丞」を参照にされたい。

  俗曲で「二上り新内」「二上り都都逸」等、「二上り物」の係類がある。一般に二上り物は陽気で派手なものが多い。そんな中で「二上り新内」はしんみりとした気分を表現した代表曲である。その作曲年代を吉川英士氏は文政六(一八二三)年以降と推定している。しかし、江戸浄瑠璃の新内節とは直接の関係はない。その三味線の手や発声法などに少しも利用されていない。ただし、新内節らしい情緒はある。なお、新内節には富士松・鶴賀・新内・岡本の四派があってそれぞれ家元があるが無論「二上り新内」とはなんら関係がない。したがって命名の由来が「二上り新内」に似ているという「岡本新内」も新内節とは無縁である。

 

付記 現玉三郎との関係図

  ●十四代守田勘弥(明治40〜昭和50) 父十三代、大正3年坂東玉三郎襲名、大正15年坂  東志うか襲名、昭和10年守田勘弥襲名。

  ●五代坂東玉三郎(昭和25425) 十四代守田勘弥の芸養子、昭和396五代坂東玉三  郎襲名。

  ●四代坂東志うか(昭和25611) 十四代守田勘弥の芸養子、昭和396四代坂東志うか  襲名。

 

  森田太郎兵衛の創立した森田座の座元兼俳優が代々襲う森田勘弥の名を11代に至っ て改めたもの。

  12代が守田座を新富座と改め興行者として演劇改良に貢献。作者名は 古河新水。

  13代から屋号喜の字屋、父は12代。和事の名優、新劇研究にも努める。

  14代は江戸前の二枚目として活躍。13代の養子(甥)。初代水谷八重子との間に二代 水谷八重子を儲ける。

 

   七代坂東三津五郎 = 八 代  =  (婿) 九代    −     十代

   十三代守田勘弥   =(甥)十四代= (芸)坂東玉三郎

                             〃 坂東志うか

                       |−         良重

 

                  水谷八重子

 

10月14日 佐竹史料館講演会要項

    佐竹義宣の窪田町づくり

                                                            土居 輝雄

一、義宣の大土木工事

  ・大湿地帯(窪田名の由来)

  ・土地造成〜城下の町づくり

  ・湿地帯の干拓

  ・土手〜やがて道

  ・堀割〜排水処理、城の防御、舟運から商業の発達

  ・屋敷の盛り土〜特に根小屋郭

  ・莫大な土量〜添川(仁別川)の掘り替え、富士山や内外堀の土

 

二、慶長窪田絵図

  ・その発見〜青森市郷土館、絵図「窪田平山城」、楢山天徳寺、推定慶長十年代作成

  ・内町〜町割り未完成の地域、後代と違う町名、楢山天徳寺、正洞院、法鏡院祈念所

  ・外町〜ほぼ完成の町割り、筆者の実測  

  ・橋〜義宣時代、義宣以後、撥橋

 

三、町内

  @敢当石〜民間信仰の魔除け                       21 台所町〜御中屋衆の居住した所

  A長野町〜長野屋敷に由来                          22 北の丸新町〜北の丸台の北下

  B根小屋町〜城の山麓につくられた屋敷町         23 鷹匠町〜鷹匠衆の町が由来

  C豊島町〜豊島城家臣団の帰農集落               24 六供町〜御祈念衆六箇寺が由来

  D亀の丁〜外町と内町の二箇所              25休下町〜御休所のある町が由来  

 E九郎兵衛殿町〜大塚九郎兵衛下屋敷が由来   26 新町〜義宣晩年にできた町

  F金砂町〜金砂神社に由来                        27 亀の丁外張南新町〜亀野の南端

  G十人衆町〜初めは十二所町と呼ばれた          28 大町通りと茶町通り〜初め別名

  H下米一丁目〜初めはなかった                     29 築地〜干拓後埋め立てた地域

  I追廻町〜初めは御船町と称された          30通町と保戸野を結ぶ小路〜四箇所

  J四十間堀町〜四十間堀川に沿った町            31 六道の辻〜六本の道の交差点

  K誓願寺門前町〜文字どおり誓願寺門前にある町 32 東郭と西郭〜手形と保戸野

  L横町〜正しくは本町五丁目小路                   33 総外堀〜外堀をもう一回り

  M三枚橋〜入川に架かる橋                             囲んだ堀、総構えの一環

  N新川町〜新川口の略                              *家督町(藩から独占販売を許可さ

  O総社神社〜正しい読み方は「そうじゃ」           れた商品を持つ町)

  P長野下新町〜長野町の下が由来                    大町三町(絹、木綿、麻糸等)

  Q新中島〜中島に対して「新」または「下」           茶町三町(茶、紙、綿)

  R城下楢山〜楢山は金照寺山の古名                 上・下肴町(魚介類)

  S窪田酒田町〜下鍛治町と新城町を結ぶ町          米町四町(米)

                                                               上・下鍛治町(鍛冶職)

四、義宣の都市計画による移住・移転

  @住民〜寺内城町→土崎新城町、土崎新城町→窪田新城町、寺内後城町(後に城町)→

   窪田城町、寺内前城町(後に馬口労町)→窪田馬口労町、土崎酒田町→窪田酒田町

   飯島穀丁→窪田米町・土崎穀保町

  A仏閣〜土崎→窪田寺町 歓喜寺、専念寺、真敬寺、浄弘寺、西勝寺、願行寺、西法          

寺、西善寺、浄願寺、伝法寺、久城寺、本妙寺、法華寺、釈迦堂光明寺

      寺内→窪田寺町 大悲寺、妙覚寺、光明寺

      飯島→窪田寺町 当福寺

      太平→窪田寺町 応供寺

     以上、浄土真宗八、日蓮宗四、曹洞宗三、浄土宗二、臨済宗ニ、計十九箇寺

    B神社〜山王(飯島鼠田→八橋狐森)

      総社(神明山→川尻下浜)

 

五、「反」と「端」について

 川反○丁目、保戸野川反、手形堀反、亀の丁堀反、長野下堀反、古川堀反などの町名は藩政初期つまり義宣時代からあった(慶長国絵図)。地図・日記・手紙などに頻繁に使用する場合、どうしても簡単な標記が欲しがる。上の「反」は「端」の秋田藩独自の略字である。根拠は「端」の字画が多いので音読みの同じ(たん)の字から最も画数の少ない文字「反」を選んだ。「武家町の反対側の町」というのは全くのこじつけ。よく言って頓知、悪く言って駄洒落。ただし、正式の文書の場合は「端」を用いた。秀逸な諧謔は後世独り歩きする譬え。

 

付記、星辻神社

 本尊は虚空蔵菩薩。明治までは仏寺、明治維新の文化革命で廃仏毀釈となり神社。藩政期の仏寺は外町の丑寅の方角にある故、鬼門除けの守りとして外町住民の信仰が厚かった。江戸時代の縁日にはいつの頃からか張り子の達磨が売り出されるようになった。

 

 メ モ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                                                        


 

 

※『常羽有情』全六巻は国立国会図書館・秋田県立図書館・秋田市立中央図書館の蔵書にあります。